第11話

文字数 3,359文字

ラウンド2 エピソード5

「まさかプロボクサーになる前に、後楽園ホールのリングに上がることになるなんて」
 輝一は、真剣な顔で後楽園ホールへと向かう階段でひとりごちた。
「プロボクサーになるの?」先に階段を上り始めたエドガーが、後ろを振り向いて聞いた。
「メダルを取ってからな」
 そう言って、輝一も感慨深げな顔で、ズボンのポケットに手をつっこんで階段をのぼりはじめた。背中に背負ったリュックには、ボクシンググローブ――ではなく、黒いレスリングパンツとマント、レスリングシューズと美味しいマンのマスクしか入ってない。
「プロレスのベルトは?」
 冗談言うな、とエドガーを一瞥すると、一段飛ばしで輝一は階段を駆け上がった。東京ドームの屋根が平日の夕方、丸い屋根を茜色に染めている。エドガーは輝一の返答に、少し安心した。
 前回と同じプロレスのUWFの入場テーマで、マントを翻して入場した美味しいマンは、リングインすると四方に礼をしてマントを外した。どうやら例のお野菜マンとの試合動画が拡散されているのと同時に、町内の人間が撮影した動画も出回り、新土町プロレスと美味しいマンの名はプロレスマニアの間で広がっていた。よって土町の住人だけではなく、ほかのプロレスファンも輝一がマスク姿で入場してくると「美味しいマーン!」と声援を送っている客が多かった。客席は満席で二階席には、立ち見客もいる。喜多来(きたこ)寿司(ずし)の親方とお凛が、二階席で肩を並べている。お凛はいつの間にか出来ていた、美味しいマンタオルを両手で掲げて、美味しいマーンと笑顔で叫んでいる。
「よく似合っているよ新しいマスク」マントをたたみながらエドガーが笑顔で言う。
「顔を隠すのに、似合ってるも何もないだろう」
 新しいマスクは、肌色の生地に口の部分が大きく開き、鼻の部分も空いていて息がしやすくなっていた。目の部分はいつもと同じように目の外郭部に黒く縫い込みが施されている。頭部にはいつもの黒い稲妻マーク。
 会場にロッキーのテーマが流れ出した、河村ジョー之輔の入場だ。
 花道にジョー之輔が現われ、軽やかにフットワークをしながら入場してきた。スキンヘッドで唇が本当に上下ともに歪んでいる。
「これ、いいのかよ?」不機嫌な声で、輝一はエドガーに聞いた。
「何が?」
「入場テーマ曲だよ。スタローン(ロッキー役の俳優)の許可取ってんのか?」
 渋い顔をして、明らかに声が腹立たし気に尖っている。ひとりのロッキーファンとしては許せないのだろう。そしてまた羨ましいのだろう。
「やったもん勝ちじゃない」エドガーは皮肉気な笑みを浮かべて言った。
 たくさんの野太い声が、ジョー之輔の名前を叫んでいる。その中を、ジョー之輔が軽やかにステップを踏みながら、入場してくる。その姿を見て、輝一の目が尖った。
 ジョー之輔はアメリカ国旗のトランクスをはいており、両手には、ボクシンググローブがはめられている。そのまま軽やかにリングインすると、その拳を輝一に突き出した。
「冗談じゃねえ・・」輝一の上唇が釣り上がった。
「そういえば勝村さんが言ってた。ジョー之輔さん、ボクシングマッチもやったことあるって。KОされたけど」
 重量級の日本人のプロボクサーを相手に試合をしたことがあるらしい。
 ジョー之輔が、セコンドに向かって「ミッキー!ミッキー」と叫んで目顔で何か訴えている。セコンドが困惑顔で頷いて何かを出した。それは赤いボクシンググローブであった。ジョー之輔は輝一の方へと顎をしゃくって、大きく頷いた。
ジョー之輔のセコンドが、輝一のコーナーにそれを走って持ってきて輝一に渡した。
はらわたが煮えくり返った。輝一は、意味が分からず渋い顔でそれを受け取った。スパーリング用の十六オンス。このオレとボクシングごっこでもしようと言うのか―輝一は相手コーナーにいるジョー之輔を睨みつけた。
ブック(台本)では試合全般を美味しいマンが持っていって、最後にジョー之輔が逆転の技で勝利をするとなっている。試合前にわざわざジョー之輔が控室に挨拶に来て、そう言っていたのを思い出す。
初めて言葉を交わすジョー之輔は、巨躯に似合わず腰が低く礼儀正しく大人しかった。照れくさそうに、簡単に試合の流れを確認すると「本当に試合を受けていただき、心より御礼申し上げます」と慇懃に頭を下げて、自分の控室へと帰って行った。
それと相手コーナーにいる人間は別人格だ。普段は唇を斜交いに歪めていないし、表情はとても柔和だ。
それがなんだ、今はこっちを睨みつけて「アポロー!」と叫んで、唇を斜交いに歪めている。そのボクシンググローブをつけろと言うように、顎をしゃくっている。そして星条旗のガウンを脱いだ。―その身体に輝一は驚いた。百九十センチに近い体躯、身体は皮下脂肪が極度に少ない分厚い筋肉に覆われている。
「バカ!絞りすぎだろ!」とジョー之輔の先輩と思われる藪にらみの男が、ジョー之輔の禿頭をペチリと叩く。ジョー之輔コーナー周辺の客席から笑いが起きる。
「あれ藤木みのるさんです」とエドガーがジョー之輔のコーナーを見て言った。刑事長の後輩らしい。格闘プロレス団体に所属していて、キックボクサーとも戦った経歴があるらしい。客席から、昔からの藤木のファンらしい男たちが、「藤木ー!」と声を上げている。
「でどうすんの?」輝一は刑事長の顔を睨みつけて、声を荒げる。
「すきにすりゃいいよ」と言って刑事長はニヤニヤ笑っている。
 ようし頭来たと、輝一はジョー之輔を睨みながら、ボクシンググローブを付けた。観客がどよめく。
レフェリーを間に、唇を歪めた禿頭の男と、美味しいマンが睨みあう。両者ともに両手にはボクシンググローブを付けている。
 レフェリーが、ルールを確認してからふたりの間に入れていた手を、「ファイト!」叫びながら上げた。ゴングの音が響き渡る。
 ボクシングの癖で、美味しいマンはゴングの音がなった途端、フットワークでジョー之輔との距離を作った。そして軽やかにステップを踏む。
 ジョー之輔はというと、リング中央で両腕をだらりと垂らし、ノーガードでこっちを睨んでいる。舐めやがって―
 美味しいマンは、素早くステップインして鋭い右ストレートを、ジョー之輔の顎目がけて打ち込んだ。
 ジョー之輔はたたらを踏んで、ロープにもたれかかった。一応プロレスだから、加減をして七割の力で打ち込んだ。このまま距離をつめて、まとめてパンチを打ってもかまわない。しかしジョー之輔は、こっちを睨みつけている。その目はパンチを恐れていない。ロープにもたれかかりながら、口を歪ませて「こい!打ち込んで来いアポロー!」と叫んでいる。
 輝一の心の底で、何かが外れる音がした。



*作者後記
 年末年始とボクシング中継や格闘技中継をご覧になった読者も多いことでしょう。
 かく言う私はRIZINは見ず、AMEBAのボクシング中継の堤駿斗選手と比嘉大吾選手の試合だけを見て、あとはビートルズのドキュメントを見ていました。
 今、RIZINとか、毛色はだいぶ変わりますがブレイキングダウンとか見ている若い子は、UWFとか昔のパンクラスとか知らないでしょう。1980年代後半から始まった今の総合格闘技原点ともいえます。その有名選手はすでに50歳を越えて今なおプロレスを続けています。
 今は総合格闘技やボクシングは、人気のコンテンツとしてネット配信されています。昔と違い、パブリシティを十分に得れることが出来ています。
 しかし当時にあって、現在の格闘技にないものがあります。
 それは、物語です。選手各々が持っている物語です。
 昨今の選手も背景に物語を持ってはいますが、正直薄っぺらい。
 たとえば、漫画はじめの一歩のような選手や登場人物のような人が現実にいたらどうでしょう?
 あれは漫画だと一言で済ます人は多いかと思います。しかしリングに立つ以上は自分の物語を背中に闘ってほしい。その姿が人を感動させるのだと私は信じて疑いません。

 さてこの物語の主人公輝一の二試合目が始まりました。相手は映画ロッキーの大ファンのジョー之輔。それぞれの物語がぶつかり合う試合です。最後までお楽しみください。

 
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