第24話

文字数 1,775文字

最終ラウンド エピソード2

 翌日、平日の夕方。ボクシングのトレーニングを終えた輝一は喜多来寿司の暖簾をくぐった。
「らっしゃい」と表情を変えず、こちらをちらりと見て親方は仕込みの作業を続けている。「いらっしゃい」と奥からお凛がお盆に瓶ビールとコップグラスを乗せて出てきて、少し斜めに会釈した。おう、ありがとうと、お凛と目が合うとすぐに視線を外して輝一はカウンター席に座った。客席を見まわすと客は輝一ひとりしかいない。
「いつもので」と親方の顔を見て言った。
 へい、と言って握り始める。テレビは大相撲五月場所を中継している。
 なんとはなしに目を向ける。大相撲は子どもの頃は熱心に見ていた。が、最近とんと見ていない。幕内力士だけ数人知っている程度だ。子どものころは熱心に見ていた。江戸一が寿司屋だったころ、場所中は必ず店のテレビが中継していた。幼い輝一は、ジュースを飲みながらカウンターに座り足をぶらぶらさせて熱心に見ていた。カウンターの中にいる父親は、客が少なくても上機嫌で仕事の合間に輝一に相撲解説をしてくれた。あの決り手はこうでああで、あの力士の得意技は云々。
「ひさしぶりだろ」握りながら親方が言った。
 何が久しぶりなんだ。輝一は「え?」と返した。
「大相撲だよ。お相撲見るのは久しぶりじゃねえか」と握り終わった鮨をカウンターの笹の葉に置く。
「うん、はい。子どもの頃は夢中で見てたなあ」
 思いだした。家でも見ていたが、お凛と並んで喜多来寿司でも相撲を見ていた。幼い輝一は、父親の真似をしてお凛に拙い解説をしていた。思わず顔がほころぶ。
「せっかく再入幕したんだから、今場所は優勝してもらわなきゃね」
 お凛が、珍しく付け場に立ち、食器棚を整理しながらテレビに目を向けている。
「え、誰のこと?」
 親方とお凛は声をそろえた。「朝乃山」
 思いだした。そういや次期横綱を期待されていた元大関力士だ。新型コロナウイルス対応ガイドラン違反で休場の処分を受けたんだった。
「何場所休んだの?」輝一はテレビから視線を外さず、どっちに聞いてるのかわからないように聞いた。
「六場所よ。お給金も減らされちゃって」お凛がすかさず答えた。
 輝一は「ふうん」と言って、コップグラスにビールをつぎ足した。親方が、輝一の笹の葉にシャコの握りを置いて、テレビ画面に視線を移す。
「齢、二十九だ。回り道する時間はもうねえな」と言って手拭いで手に付いた手酢でをを拭く。そして、輝一を見た。視線が「おめえさんもな」と言っているのがわかる。
「今場所は優勝するぞ」と、言い置いて厨房に引っ込んだ。
 付け場にひとり残されたお凛は、カウンターの冷蔵ケースを開けて、何やら寿司ダネの状態を確認している。
「なんで、おめえが寿司ダネを見るんだよ」
「うん。教えてもらってんの」と言って真剣な顔をして冷蔵ケースを閉め、次はシャリの状態を確認する。藁で編んだ保湿用のお櫃を開けて、米を数つぶ口に含む。
「シャリもか?」
「仕込みはまだ。お爺ちゃんの仕事の完璧さを確認しただけ」
 お凛は、お櫃の蓋をしめると大相撲中継に目をやった。
「おめえさあ。確か進学したところは有名校だろ?大学とか行かねえの?」
 お凛は輝一に背を向けて、大相撲中継を見ている。こっちをふり返らない。
「もったいねえんじゃねえか?せっかく頭いいのに」
 ふり返らずにお凛はひと言。
「時間がないの」、と背中をむけたお凛が抑揚のない声で答えた。その答えが何を意味するのか輝一にはわからない。
 輝一をふり返り、お凛は花が咲くように笑顔になった。その笑顔が答えのように。
「お祖父ちゃん。八十歳になったの。いつお迎えが来るかわかんないでしょ?だからお手伝いしながら仕事を覚えたいの」
 そう言い置いて、蝶のように身をひるがえして厨房に入って行った。
 お凛の言葉に呆然としたまま、輝一が見るとはなく大相撲中継を見ていると、親方が戻ってきた。
「なんでえ、シャコの握りがかわいちまうぞ」
 親方の声で我に返り、輝一はシャコの握りを口にふくんだ。お凛の言葉の意味を理解するとともに、自分は何をやってるんだという思いに縛られる。頭のなかでお凛の、決意に満ちた凛とした声が繰り返される。「仕事を覚えたいの」
 オレは何をやってんだ。


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