第10話

文字数 2,755文字

ラウンド2 エピドード4 

 喜多来寿司の常連客が帰るのと、入れ替わりに輝一は暖簾をくぐった。いらっしゃい、とお凛が帰った客の皿を片づけながら満面の笑顔で迎える。「どこでも座って」
 奥の厨房に入っていた親方が出てきて、またぞろ挑むような目つきで「らっしゃい」と言う。「お任せでいいかい」
 はいお願いしますと応じて、カウンター席に座る。お凛がおしぼりを渡し、お通しを静かにカウンターに置いた。「瓶ビールでいいかしら」と首を傾いで微笑み輝一に聞いた。薄桃色の和服を着て、髪は綺麗にまとめ上げられ額が露わになっている。それを見て、輝一の心臓はびくんと跳ねた。
「こいつは瓶ビールしか飲まねえ」
 親方のひと言で、我に返った輝一は思わずお凛に「それでお願いします」と言った。
 怪訝な表情を輝一に向けると、お凛は「承知しました」と頭を下げて、店の奥の冷蔵ケースにむかった。
「最近、よくお目見えになりますね。ここんとこ羽振りがいいんですかい」
 表情を変えずに親方が言った。明らかに、お凛に見惚れていた輝一への皮肉だ。
「あっ。いや体重増やしたほうがいいかなあって」
 黙って、親方は上目遣いで輝一を見る。気づかない輝一は、瓶ビールを出そうと冷蔵ケースの前にしゃがんでいるお凛を見ている。瓶ビールを出し終えてお凛が立ち上がると慌てて前を見て、そこに親方の顔があり目が合うと気まずそうに目をそらした。親方は何も言わず、手を拭いてからネタケースを開けて、握る準備に入った。お凛がお盆に瓶ビールとグラスを乗せて、戻ってくると「お待たせいたしました」とカウンターにグラスを静かに置く。そして瓶ビールを手に「おひとつどうぞ」と湿り気のある声で言った。輝一はグラスを持つと「すみません」と酌を受けた。その間、輝一の唇は照れくさそうに下唇だけ突き出している。ごゆっくり、と頭を垂れるとお凛は厨房に下がった。
 親方は黙々と握って、寿司ダネの名前を言ってカウンターに置かれた皿代わりの笹の葉の上に乗せる。やっと自分のペースを取り戻した輝一も、黙々と寿司をつまんでは舌つづみを打つ。
 唐突に、厨房から「すごい再生回数!お爺ちゃん!見て見て」というお凛の声が響いた。親方が手ぬぐいで手を拭いて、厨房に入って行った。しばらくすると「えれえこった。変な宣伝になっちまったなあ」と唸るような声が聞こえた。
 輝一は訝し気な顔をして厨房のほうへと目を泳がす。厨房から、囁くようなお凛と親方の話し声が聞こえた。
 しばらくすると店に親方が戻ってきたが、なぜか顔が緩んでいる。その顔のまま瓶ビールの栓を抜いた。
「あの・・頼んでませんが・・」恐るおそる聞きながら、親方の横顔を覗き見る。
親方は顔をあげて、瓶ビールを輝一の方へと向ける。「ご祝儀だよ。ほれ、グラス」と輝一にグラスを瓶に向けろ、と目顔で促す。首をひねりながらグラスをビール瓶の方へ向けると、親方はなみなみとビールを注ぎ入れ、「あっしもいただきます」と手酌で自分のグラスにビールを注ぎ輝一に乾杯を促した。「何・・に?」
「美味しいマンにだよ!」と言って満面の笑顔で、グラスを合すと一気に喉に流しこんだ。
「へっ?なんで?」
「わが町のヒーローだからだよ。おめえ見てねえのか?」
 厨房から、お凛が桜色に頬を染めてスマホを片手に戻ってきて輝一の横に座った。「最高。美味しいマン」
 何が何だかわからない輝一は、目をパチクリさせている。この商店街のヒーローよ、とお凛はスマホの画面をタップして輝一にわたした。
 動画が始まった。土町商店街のアーケードが映り、面長でスキンヘッドの男がアメリカ国旗のショートパンツ姿で走ってくる。画面にドアップになると口を歪ませて「ここは土町商店街。ある男がこの街に住んでいる。そいつが今日試合をするらしい。おれはいつかそいつと拳を交えることになる。きっとそうなる!」
ドスの利いた声でそう言い終えると、エイドリアーンと叫びながら走り去る。
画面が、試合会場を映し出す。どっかで見た景色だ―おれが試合をした区民体育センターだ。男が口を歪めて、リングの上を睨みつけている。恐い顔を作ろうとしているが、気持ち悪いし滑稽だ。画面がリング上を映し出す。お野菜マンと対峙する、美味しいマンが映し出される。試合が始まる、男のタコのように赤くなった顔と、リング上の美味しいマンとお野菜マンとが交互に映し出される。試合映像は手ブレしまくって見ずらい。試合が架橋に入り、男の顔の赤さが増す。目尻に涙が溜まっている。スリーカウントが数えられ、レフェリーがお野菜マンの勝利を告げる。美味しいマンが、マイクを手にお野菜マンに語りかけている。マイクをすて、リングを背にした美味しいマン。カメラのアングルが変わり、タコ坊主のように赤くなっているスキンヘッドの男が映しだされた、その時―
「エーイドリアーン!」
 とタコ坊主は巨躯を立ち上がらせて、天井に両の拳を突き上げて何度も叫んでいた。
 男が落ち着くと、カメラは男の顔をズームで映し出した。意味がわからない。
「エイドリアン!おれはやるぜ!必ずいつか倒してやる!」としわがれ声で言うと、「待ってろよ!アポロー!」と言って走り去っていった。いよいよ何が何だかわからない。動画は、「新土町プロレスリング闘え美味しいマンが東京プロレスリングに登場!相手はジョー之輔か!」と赤文字でテロップが入る。
「なんだこりゃ。言ってる意味がさっぱりわかんねえ」と輝一はスマホをお凛に返した。
 ボクシングをやっている人の共通項として、皆一様にと言えるくらい、映画ロッキーが好きな人は多い。輝一も御多分に漏れず、その類である。苦笑いを浮かべていることが、その証だ。
「ねっ!凄いでしょ。あたし観に行こうかな」とお凛。「おう。一緒に行こう。たしか休みだろう」と親方が、カレンダーをみて日付を確認している。
「なんで、コイツと美味しいマンがやるんだよ」
 だってほら、とお凛がまた動画の終わり際、ひとり勝手に走り去るジョー之輔の後ろ姿を再生すると、ジョー之輔のTシャツの背中には「四月九日後楽園ホール。新土町プロレス合同開催!河村ジョー之輔対美味しいマン」とプリントされている。その後、画面が暗くなり同じテロップが流れ出して動画がは終わった。
「こいつとやるのか・・・・変な奴ばっかりだな」とひとりごちる輝一の横顔を、お凛は微笑みを浮かべて見つめていた。


*作者後記
 新年あけましておめでとうございます。しかし新年より震災が襲い今もなお落ち着かない時間をすごしている方々、そして実被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。この小説が少しでも生きる励みとなってくれるなら幸いです。いま私にできることはただ書くことだけです。
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