第3話

文字数 8,529文字

第1ラウンド エピソード3

 ほどなくするとお盆にコップグラスと瓶ビールをのせた、笹本さんという女性がやってきて、「お待たせしました」と瓶ビールを置きコップグラスを手渡すと、また輝一に微笑みかけてから、レジスターの前に行き伝票の整理を始めた。
 輝一は、ビールを注ぎながら目の端で笹本さんを追っている。
「おまえ用のおまかせでいいな」と親方の怒ったような低い声。
 おまえ用のおまかせ。
 すなわち輝一用のおまかせは、輝一の好きなネタと親方のおすすめのネタのコースである。親方が良心的に計算して、輝一が飲むビール代と合わせて三千五百円から四千円で済むようにしてくれている。家族ぐるみの古い付き合いであることもさることながら、輝一がこと寿司においては少しばかり玄人はだしの目を持っていることが、このサービスの大きな理由でもある。どうもこの食堂屋の倅は、家が寿司屋から商売替えをしたことに腹に小さな一物を隠しもっているようである、と親方は以前から案じていた。
「あ。はい。おまかせで」気のない返事を返し親方に視線を戻した輝一。目が宙を泳いでいる。
 一瞬のうちにサヨリの捌き身をつくると、親方は輝一の目を覚ますように、ぱんっと手に手酢をつけてギロリと輝一を睨んだ。思わず輝一が目を合してしまい、慌ててそらすと寿司を握る親方の手を凝視した。手品のように、瑞々しく透明なサヨリの握りが目の前に現れる。
「うわ!春の予感がするねえ」輝一は一貫つまむと醤油に付けて口にほうりこんだ。とたんに頬が緩み、顔がとろける。親方がまな板の端に両手をついて、どうだ!うめえだろこの野郎といった、にやけ顔で輝一の顔を見ている。
 唸りながら飲みこむと、輝一は片手でとんとカウンターを叩き、「うんめえ」と小さく叫ぶ。斜め後ろのレジスターにいる笹本さんが「変わってない」と小さく言ったような気がした。
親方がつぎつぎと、握っては出し、輝一が寿司をつまみ食べる。そして同じリアクションを返しビールを飲む。この繰り返しが続く。その間、このふたりの会話は旬のネタや、ネタに施した工夫やその感想などが、短い言葉で簡潔に交わされるだけだ。
「あーんと。笹本さん。こいつ生ビールは飲まねえからビールサーバー片づけとくれ」
「かしこまりましたあ。あっ穴子のツメの火も消しておこうか」
「おっ気が利くじゃねえか」
 親方がにこやかな顔で、寒ビラメの握りを皿代わりの大き目の笹の葉にすっとおく。輝一が「寒ビラメ!最高」と息を漏らすと、口にほうり込み顔をとろけさせて身をよじる。「寒ビラメ最高!寒ビラメ最高」とぶつぶつ唸っている。
 厨房からレジスターに戻ってきた笹本さんが、一旦店の入り口の引き戸を開けて商店街の通りの様子を見ると、戻ってきてレジカウンターを拭きながら親方に言った。
「ツメの粗熱取れたから冷蔵庫に入れておきました。もうお客さん来ないだろうし、あたしに遠慮せずに飲んでよ。お祖父ちゃん」そう言った途端小さな口に、しまったという感じで手のひらをあてた。
 親方の顔から微笑みが消え、両の鼻の孔が大きく開いたまま固まった。「お凛・・」とひと言つぶやいたまま。
 驚いて、ビールを飲みこみ損ねた輝一の両の鼻の孔から、盛大にビールが床に向かって滴り落ちる。
 輝一が、椅子から降りてむせ込みながら「ウソぉ!ウソぉ。ええ?お凛?あのお凛?」と繰り返しながら、笹本さんをふり返る。
 笹本さんは、顔を赤くして口に手を当てたまま輝一を見ている。
 このお凛こと笹本凛は、親方のたった一人の孫娘。都内の有名進学校に通う十八歳である。母親は、凡庸な会社員と結婚して土町銀座商店街の近くに所帯をかまえて、家族三人仲良く暮らしてきた。そしてお凛が小学校五年生のころに、共働きのすえ武蔵野市にささやかなマイホームを建てた。それから笹本家は土町をはなれた。
 幼いころのお凛は天真爛漫で活発であったため輝一とよく遊んだ。二人はいわゆる幼馴染だ。小学生のころの輝一は、お凛を実の妹のように可愛がっていた。その関係は、笹本家が土町を離れたことを潮に、自然と終わった。
 そして今、十八歳のお凛はカウンターのツケ場の流し台でまな板を洗っている。自己を開示してしまう前に見られた、柔らかな曲線を描く上瞼と長い睫毛は無くなり、上瞼は真横に直線を描いている。
 あまり思いださないでください。ぼそりと、そう言うお凛の頬は、輝一が何を思い出しているのかもわからないのに、桜色に染まっている。
「久しぶりだからよう」自分に言い聞かせるように、輝一は呟いた。
「本当に、お久しぶりです」というお凛の声音はやわらかかった。「なんでえ。他人行儀な」と輝一はグラスコップにビールをそそぐ。
 お凛はまな板を洗い終え、蛇口を閉めた。「だってどんな風に話してたかなんてわすちゃったもん」
「八年ぶりだろ」親方はふたりに背を向けて、テレビを観ながらビールを飲んでいる。すでに暖簾は仕舞われて入り口の内側に立てかけてある。閉店だ。
 親方は、幼いふたりが手をつなぎ、土町銀座商店街入り口のアーチの下で、笑顔で映っているスナップ写真を思い出している。夏の夕方だ。浴衣姿の五歳のお凛。甚平姿の十一歳の輝一。その写真は輝一とお凛それぞれと、お凛の母親が持っているはず。
「ボクシングの練習してきたの?」まな板を、手ぬぐいで拭いて立てかける。
「なんで知ってんだ?」
「お祖父ちゃんが教えてくれたの」
 お凛は、この町から引っ越してからも季節ごとに店を訪ねてきていた。たまたま輝一と出くわすことがなかっただけだった。店に来るたびに、親方が輝一の話をする。そしてまた、お凛も聞きたがったのだ。
「いや・・今日はちょっと違う練習」輝一がバツが悪そうに、お凛の視線をかわす。
「まあ。でも練習だ」親方が背中を向けたまま言い捨てる。輝一は怪訝そうな目を親方の背にむける。
「お凛もまだ接客の練習中だ」
「ここの手伝い続けるのか?お凛」
 最後に言い足した「お凛」は、輝一が無意識に言っていた。お凛は、うれしそうに微笑む。
「うん。時間があるときは必ずお手伝いに来る」と言ってはじけるように何度も頷く。輝一は昔と変わってねえなあ、と独り言ちた。

 刑事長の指示どおり、輝一とエドガーのふたりは、挨拶をかねて丹野八百屋の偵察にむかった。
 丹野八百屋は、商店街のアーチから三軒目で商いをしている。この土町商店街の特徴として、入り口付近に鮮魚や精肉店、八百屋などの食料品店が並ぶ構造となっている。中央付近から衣料品店や電機や雑貨店が軒をつらね、奥に向かうにつれて飲食店が増えていくようになっている。食材を買っている間に、鮮魚店の焼き魚や精肉店のコロッケなどを揚げる匂いが、買い物客の食欲を誘う。そうすると買い物ついでに、食事して帰ろうか。一杯やって帰ろうかという気分に自然となる。意図してこういう構造になっているのかは不明である。丹野八百屋に向かう途中、喜多来寿司の前を通ると、お凛が暖簾を出しているところだった。輝一に気が付くと手をふって、輝一に微笑みかけるお凛。そしてその笑顔のままエドガーに会釈する。
隣の居酒屋の女将も暖簾をかかえて店先に出てきた。「あら。輝ちゃん、エドちゃん。相変わらず仲がいいねえ」
お凛に気付くと、女将は「あら、お凛ちゃん。今日も精が出るわね」と手の平をひらひらさせながら、お凛にすりより一方通行な世間話を始めた。女将の相手をお凛に任せて、ふたりは丹野八百屋の店先に来た。
いらっしゃいませ。丹野八百屋の店主、丹野辰巳と妹の幸子が声を合せる。幸子の明るく気さくな声が、辰巳の低く不愛想な声を和らげている。
「辰巳にいさん、お久しぶりです。今度の新土町プロレスの試合は、よろしくお願いします」輝一は店先で丁寧に頭を下げる。「おう。こっちこそ」辰巳はこっちを見ず、店の奥でダンボールを片づけている。
 いったん客足が引いた、夕方五時。二月に入り、節分が終わってから少し日は長くなったとはいえ、もう外は暮れなずんできた。商店街通りには、ショパンの別れの曲が安っぽいシンセサイザーの音で流れている。とはいえ金曜日の夜を迎えているため、往来する人の数は少なくはない。
「白菜。安いですねえ」エドガーが陳列されている白菜を手に取る。「母に、今夜はお鍋にするからってお使い頼まれてるんです」
「あら。偉いのねえ。そう言えばエドガーちゃんに会うのひさしぶり」と幸子が、顔を緩ませる。「相変わらず。愛想のない。美少年ねえ」
 これは、けなしているのか、褒めているのか。
「はい。よく言われます」エドガーは、少し首を傾いで幸子に微笑みかける。凄い。自分でフォローした。今のように返すと、美少年という言葉だけの印象が残る。しかもエドガーのこの微笑み。キラー江戸川だ。
 店の奥から、丹野辰巳が店先に進み出てきた。こちらの三代目も力仕事が多いせいか、がっちりと固太りしている。片手に大きな葱を持っている。それをエドガーにぐいと渡すと「明日。陳列する予定のやつだ。今朝仕入れたから新鮮だ。持ってきな」と言った。
 エドガーは葱を受け取り、まじまじと見つめると「もしかしてこれ。栃木産の。まさか・・いいんですか」、と丹野を真剣な顔で見る。途端に丹野は破顔した。
「その通り。栃木の宮ねぎだ。半煮えぐらいがうめえ。幸子。お代は仕入れ値で」
 そう言って丹野は「親孝行するんだぜ」とエドガーの肩をぽんとたたくと、店の奥に戻り、まとめたダンボールを抱えて店の裏に消えてしまった。
 申し訳ない、安すぎますと恐縮しまくるエドガーに幸子が「本当にいいから。兄の心遣いよ。素直に持って帰って」と宥めている。そんなに凄い葱なのか、と事態を理解していない輝一は、閉店ちかい時刻の丹野八百屋の店先と店内を、何かを思い出そうとするかのように眺めまわしている。
「わかりました。じゃあせっかくなのでいただいて帰ります。その代わり閉店までお店のお手伝いをさせていただきます」
 予定外のことを急に言い出したエドガーに驚いて、輝一が目を瞬かせてエドガーを見る。エドガーは何度も頭を下げながらお代を支払っている。幸子はお代を受け取ると「じゃあ。甘えちゃおうかしら。ちょっと待っててね」と小走りで店の奥に行った。
「手伝いをするなんて勝手なこと言うなよう。聞いてないぞ」輝一は小声で言って肘でエドガーの肩を小突いた。
「このまま帰るのは不粋です」一切悪びれず、真剣な表情。
 なんだか自分だけ損したような気分になり、輝一は下唇をつきだした。
「宮ネギですよ。それを仕入れ値でいただけるなんて」
「宮・・ネギ?すげえのか」
「伝統と歴史がある素晴らしい葱です。栃木県で一年以上かけて大切に栽培されます。歴史は江戸時代まで遡る。栃木の商人が江戸の役所に出向くときに持参していたほどで・・云々」
 エドガーの野菜歴史講座が始まろうとしたため、輝一は早々に話を切り替えることにした。「で。美味いということなんだな。それよりエドガー。なんか試合に役立つようなことは気づいたのか?」
「丹野辰巳さんは固太りです。そして輝くんよりも頭一つ背が低い」そんなことオレだって見たらわかる。「ボディースラム、パワーボムなどの投げ技が映えるでしょう」
「たしかに。マットに落ちるとき派手な音がしそうだな」輝一は顎に手をやる。
「いえ。投げる方です」輝一は思わずムッとしてエドガーを見た。その時、
「ごめんなさい。ちょうどいいのが見つからなくて」と幸子が小ぶりのダンボールふたつ抱えて店先に姿を現した。「萎れている葉野菜をここに入れていって」

 江戸一の女将、輝一の母親である昌子は最後の客を見送ると暖簾を下げた。奥の厨房では、皿を洗う輝一の手が遅いため、寿一がとっとと洗いやがれと発破をかけている。
 店内の奧の壁には、液晶画面のテレビが掛られていて、ニュースキャスターが明日の天気を伝えている。そのテレビに直角に対する壁には、生ビールを持ったビキニ姿の女性のポスターが貼られている。皮肉にもこの店に、生ビールは置いていない。置いていた時期もあるが、家は呑み屋じゃねえと寿一が早々に発注を止めてしまった。よって江戸一で扱う酒類は瓶ビールのみだ。ビキニ女性のポスターの横から、筆文字で書かれたお品書きが並んでいる。
 テーブルを拭きながら孝一が「しかし大うけだったよな。美味しいマン」と、言って丸椅子を引いて座る。「しかし嬉しいねえ、ああいう催しがあると。子どもたちから、年寄りまでみんな喜ぶ」昌子が何気なく、厨房で皿を洗う自分の息子の背中をちらりと見つめ、暖簾を壁に立てかける。ちなみに寿一は美味しいマンの正体が輝一であることは、母と兄には明かしていない。
「定期的にやってほしいな」そう呟く兄孝一は、今じゃ江戸一の三代目親方を継ぐ気になり意気軒高としているが、ひと昔前は親不孝一と陰口をたたかれる程の札付きであった。母、昌子は何度学校に頭を下げに行ったか分からない。自分の青春を逡巡しながら、ひとくさりしたあと、やっとこさ親不孝一から孝一になった。
 テーブルには、売れ残りの卵焼きや里芋の煮っころがし、おからやゼンマイが並べられている。それと四人分の鯖の味噌煮。ここの店の特徴として、どれも甘塩っぱいことがあげられる。
「孝一。明日、丹野さんが宮ネギを卸してくれる」仏頂面で里芋の煮っころがしを箸でつつきながら、寿一が言った。つと輝一が茶碗や皿を洗う手をとめて顔を上げる。
「そんな高いだけの葱、家じゃさばききれないよ」孝一が少し困り顔で言って、ご飯茶碗の飯をかきこむ。「売り方だよ。明後日から試作に入る。任せときな」と言って寿一は、コップグラスのビールを飲み干す。
 輝一は、宮ネギのお礼にエドガーと丹野八百屋の手伝いをした時のことを、思い出していた。閉店前に、小ぶりのダンボールに萎れた野菜を入れていく。そうやって間引きした野菜は明日、半値で売るという。ひととおり手伝ったあと、幸子はふたりに奥にある小さなお菓子売り場で、好きな菓子を選ばせた。幼児のお菓子ばっかりだった。寿一は、マーブルチョコ、エドガーはアンパンマンの顔の形のチョコレートを選んだ。その間、丹野辰巳は姿を見せなかった。
「母ちゃん。おれ昔、夏休みの自由研究で丹野八百屋に行ったよな」輝一は、家族が食事に毎日使う客席の椅子をひいた。
 唐突だったので、みんなぽかんとした顔で輝一の顔を見た。
「よく覚えていたわねえ。行った行った。朝早かったのよう」と破顔して、昌子は懐かしいわと顔をほころばせた。
 小学校三年生のころ、輝一は夏休みの自由研究で八百屋という商売について学んだ。学んだといっても、丹野辰巳の父親である二代目親方について行って、仕事を手伝うというだけである。と、言葉で言うのは簡単だが、起床は朝の四時だ。四時半には八百屋から軽トラに乗って築地市場に向かい、野菜を仕入れて料理店に卸して回る。卸す料理店は土町銀座商店街が多かったが、築地からの帰り道である永代通りの店も何軒かあった。料理店に、野菜を卸すと八百屋に戻り、仕入れた野菜を陳列する作業が待っている。陳列作業が終わる午前十時すぎには、客足が増えてくる。輝一は女将さん(辰巳の母)に手取り足取り接客を教えてもらいながら、お釣りを渡し「ありがとうございました」と頭を下げる。可愛い八百屋さんねえ、と客はみな一様に喜び、縁起物だと輝一の頭を撫でていった。
 黙々と里芋を頬張りながら、当時の記憶を掘り起こす。
「あんた、あの時がんばったわねえ。早起きして」
まだ陽が射さない朝の四時に起きて、小さなおにぎりふたつだけ食べてから丹野八百屋に向かったという。そうか、ということは母ちゃんも起きてたんだ、と当たり前のことを思い出す。偉いなあ、母親は。
「おいらと、母ちゃんがおめえの親だ。だがな、孝一もお前も土町銀座商店街に育ててもらったようなもんなんだぞ」と、言って兄孝一の頭を鷲づかみにして撫でる、乱暴だがいちおう愛情だけは伝わる。兄は、いやいやと言った顔で「やめろよ。親父」と言っている。
この兄、今年二十八歳を迎える。父親は、早く結婚しろとうるさい。でもおれは知っている。最近、土町銀座商店街の入り口アーチ付近で、ロングヘアの女と逢瀬を重ねていやがる。刑事長に稽古をつけてもらった帰りに、何度か目撃した。兄貴は、普通にしていりゃ男前だし、気が利く優男だ。オレより鼻が高いし、エドガータイプだ。頭は別タイプの。
秒読み段階かなあ。まあとにかくめでたい。親父は知らない。が、母ちゃんは知っているはずだ。根拠はない、そんな気がするだけだ。
「あんたさあ、丹野さんとこでアイスもらったって喜んでたわ」この夫婦、微妙に話が嚙み合っていない。しかしなんだ?アイスって。

 日曜日の朝、目が覚めると輝一は階下に降りて顔を洗い、食堂に出ると点けっぱなしのテレビが朝のニュースを伝えていた。今日は店は休みだが、早起きな父親は厨房で試作品をこしらえていた。洗濯機が終了を告げるブザーを鳴らす、二階から母親が洗濯物を抱えてベランダへと歩いていく足音がする。食堂の時計を見ると、午前十一時にさしかかるところだ。
おはよう、と父親に声をかけて、なんとなく食堂の椅子に座る。だるまストーブに手をかざし、暖をとる。「おはよう。おめえ朝昼兼用でいいな」と厨房から父親の声。ゴマ塩頭に、手ぬぐいを巻いている。いつも同じ風貌だが、最近は髪に白いものが目だってきた。
「ああ。それより兄貴は?」
 おう、と答えて寿一は試作品のメニューを作るのに夢中で、最後の質問に応えていない。仕方なく、輝一は厨房へと周り「兄貴どっか行ってんの」と改めて聞いた。思い出したように、顔をあげると寿一は、ああんとどこだったかな、と頭を掻く。首をのばし、二階にいる昌子に聞こえるように「おーい。孝一はどこ行くって言ってた?」と大声を張り上げる。
「上野公園よ!」昌子の大きな声が返ってくる。
「ってこった」と言って、また試作品に取りかかる。ほら、そんなだから気づかねえんだよ。上野公園に男一人で行くか?まったく鈍いやつだ。
「次のマスクは大丈夫だろうな」と聞いて、母の耳がないことを階段のほうへ目をやって確認した。
「えっ。何だってえ?」こいつ、最近耳が遠い。輝一は、一歩前に進み出て「マスクは大丈夫かと聞いたんだ」と言った。
「ああ。大丈夫だあ。次は作り直すから」と砂糖と醤油を鍋に足しながら応える。
「ちゃんと業者に出してよ。専門の・・ほら、プロレス専門の業者だよ」
 わかった、わかったと言いながら味見をしている。
「泣いても笑ってもあと二試合だぞ」
 また、わかったわかったと適当にあしらおうとする。
 なんか、腹が立ってきた。そもそもは俺が悪いんだけど、今それを言ってもしかたないんだけど。
「だいたい、そんな大事なものならちゃんと仕舞っておけよ」
 そんな大事なものー。それは、輝一の運命を決めたもの。寿一が大切にしていた湯飲みである。その湯飲みを、割ってしまったペナルティとしてあの面妖なマスクをつけて、輝一はリングに上がるハメになっている。
 その湯飲み。寿一曰く、寿司屋をやっていた頃のある日。プロレスラーアントニオ猪木が、プロレスの師匠カールゴッチと連れ立って店に来た。猪木が使っていた湯飲みには闘魂と筆文字で書かれていて、それをいたくゴッチが気に入り持ち帰った。そしてゴッチが使っていた湯飲みは、家宝として寿一が大切に使うことにした。なんてことはない、何種類もの魚の名前が漢字で印字されている、何の変哲もないありふれた湯飲みである。その湯飲みを、輝一が割ってしまった――
割れてしまったときは驚いた。「何しやがんだ!コノヤロウ。取返しのつかねえことしやがって。ゴッチさんが。ゴッチさんが」と寿一はたいそう取り乱した。そしてそこから始まった。この湯飲みはなあ、恐れ多くも天下のカールゴッチ様がお使いになられた云々。お詫びに、新土町プロレスリングのリングに上がれ。そう言われたら逆らえない。三試合まで、と条件を付けさせて貰うのが精一杯であった。
 寿一は、聞こえないふりをしているのか本当に聞こえていないのか、火をかけた鍋に豆腐と牛肉を入れている。そして、野菜室から取りだしたネギを見て輝一は目をむいた。それは丹野八百屋で見たあの宮ネギであった。それをそぎ切りにすると、包丁を置いて父親は言った。



*第3話の更新遅れまして申し訳ありませんでした。小生風邪っぴきでございまして、ここ二、三日の記憶がございません。今も正直頼りないです。稚拙な文章を最後までお読みいただき誠にありがとうございます。次回の更新は12月4日です。
 作品に関係ありませんが、私が書いた「マスクをはずして」がクライマックスを迎えております。テーマは全く違うミステリーですが、同じ人が書いたんだと安心して楽しめるかと、思います。ぜひとも併せて楽しんでいただけたら幸いです。
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