第28話

文字数 2,193文字

 最終ラウンド エピソード6

 輝一は混乱していた。お凛とエドガーの告白を正確に理解するには、ネット社会であれ輝一にとっては、難解きわなりないことであった。だが、はっきりとしていることがある。それは、ふたりとも必死なんだということである。
 ネットでつらつら調べてみたが、なんとなく一型糖尿病という病は二型とは大きく違って、やっかいだということがわかった。若いと低血糖になりやすい。低血糖の症状もなんとなくだがわかった。その症状が酷いときは、意識を失ってしまうこともある。
 そしてあいつが志している道もだ。魚が獲れなくなっては困る。大好きな鮨が食えなくなったらかなわない。天然の魚にこしたことはないが、養殖であれ魚がいなくなっては本当に困る。そして喜多来寿司の親方は、輝一が思っていた年齢よりも高齢であり、引退は近いということだ。    だからお凛は、店の存続のために江戸前寿司の技術を学んでいる。
 遅まきながら、年下のふたりは真剣にこれからのことを考えているんだ――とういことは輝一の頭でもしっかりと理解できた。そして次は自分自身に矢が向けられた。
 おまえは何ができる?何ができる?輝一はラウンドタイマーのブザーが鳴っても、気づくことなくひたすらサンドバックを叩け続けていた。誰かに肩を叩かれ、輝一は驚いてサンドバッグを打つ手を止めてふり返った。
 会長だった。「おい。どうした?」
いえ、別にと輝一はグローブを下ろした。拳痛めるぞと、顔をしかめて会長は輝一に背を向けた。             
 家に帰ると、孝一が暖簾を下ろしに店の外に出てくるところだった。
「お帰り、輝!」
 なんて晴れ晴れしい顔をしているんだ、兄貴。
「今日も頑張ったか」
 笑顔で暖簾を下ろし、店の開き戸を開けて輝一を招じ入れる。
「腹減っただろ。イサキの刺身があるぜ。ご飯はてめえでよそいな。減量の加減もあるしな」と冷蔵庫から保存用のタッパーウェアを冷蔵庫から出す。ありがとう、と兄に軽く頭をさげて自分のご飯茶碗を手に、大きな業務用炊飯器の蓋を開ける。湯気に顔が包まれ、お米の柔らかい香りが顔を包み込む。湯気の向こう側で兄が、イサキの柵をお刺身にしている。なんなくというか、自然に言葉が出ていた。
「結婚するの?」
 兄の包丁が止まった、図星だった。ちらりと輝一に視線をやってから「あとで話すよ」とまた包丁を動かした。
 母の昌子は、風呂に入っている。食堂の席に座っていると、二階の風呂場から身体を流す音が聞こえて来る。兄は、イサキがのった皿を並べると二階を見あげ「おふくろ、まだ上がってこねえな」と独り言ち、ちょうどいいやと椅子に座った。
「結婚する。親父が退院してからな」
「だれ?真面目になってからよくデートしてる人?」
 言った途端に頭をはたかれた。
「商店街のアーケードの入り口で、よく会っている人だろ?」
 また途端に手が飛んできた、嬉しそうな顔で今度はスウェイで躱した。
 二年以上の付き合いになるらしい。プロポーズが傑作だった。
 お前、食堂の女将になる気はねえか。
 輝一は身体をよじらせて笑いこけた。「バッカ野郎!女房になるってことは江戸一の女将になるってこと覚悟しといてもらわねえと」
「母ちゃん、知ってんの?」
「ああ。なんどか偶然、アーケード前で会った。紹介はしたけど結婚の話はしてねえ」
 偶然なんかではない、きっとわざとだ。狙い撃ちだ。
「親父が退院したら紹介しようと思っていた・・・・」
 なぜか、言い淀んだ。
「近々、退院するだろ」
 と、輝一は手を合して、いただきますをした。そしてイサキの刺身を箸でつまみ、ご飯をかきこんだ。兄は箸には手をのばさず、輝一が旨そうに食べる姿を眺めていた。ずっとそのままの姿勢なので怪訝に思い、
「食わねえの?」なんとなく、聞いてみた。
 兄は、今度は腕を組んで俯いた。なんか腹が立って輝一は強い声音で、ふたたび聞いた。
「兄貴。ぜんぶ食っちまうぞ?」
 兄は面(おもて)をあげて、輝一と視線を合わせると二階を見あげた。静かだ。母親は、湯船につかっているのだろう。輝一も二階を見あげると、兄が口を開いた。
「輝・・・・親父に癌が見つかった」
 輝一は面(おもて)を上げて、俯いたまたままの兄の顔を見た。何?何を言っているんだ兄貴は。
「退院することはなさそうだ」
 何おかしなこと言ってんだよ、兄貴。
「親父に、残された時間は少ないみたいだ」
 頭のなかが、周波数が合わないラジオノイズのように混乱している。たくさんの人びとの顔が思い浮かんでは消えていく。喜多来寿司の親方。こないだのエドガーの清々しい顔。刑事長の涙ぐんだ顔。丹野の八百屋の先代親方や女将。お野菜マン。禿頭のジョー之輔。関節技を極める勝村。エドガーの少し寂し気な顔。喜んだ顔。兄貴。おふくろ。親父。そして親父。
 親父・・・・
 ちょっと散歩に出てくると兄に言い置いて、外に出てしめやかだが涼しい商店街通りを歩いた。気づくとなんとはなしに喜多来寿司の前に立っていた。店はすでに閉店で、暖簾は仕舞われていた。鮨をつまみに来たわけじゃない。親方に会いたいわけじゃない。オレ・・何しに来たんだろう。店の引き戸の奧は暗くなっている。
 ――不意に後ろから肩を優しく叩かれた。
 お凛だった。


(ご愛読、誠にありがとうございます。次回の更新は3月18日月曜日です。)
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