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文字数 4,764文字

 二列目のシートを囲うように設置された五台のモニターの上を、杏の視線は高速で動き回っている。
 左右の手で別のキーボードを叩きながら、ペディキュアの塗られた裸足でセレクターを踏む。セレクターは音声を切り替えるためのスイッチで、ずらしてかけた二台のヘッドホンは右耳と左耳で別のチャンネルに繋がっている。
「日本人ってほんとバカね」
 新宿御苑の近くにあるコインパーキング。ワゴン車を改造して作られた移動式オフィスの中には、杏と運転手の嶋しかいない。還暦手前の嶋は温厚な人柄を滲み出させたような顔でルームミラーを見ただけで、杏の声には応えない。
「歌舞伎町がこんなに熱いのに、タレントのケツ追っかけてるヤツの方が多いってどういうことよ」
 杏は不機嫌そうに唇を尖らせ、片方のヘッドホンを持ち上げた。嶋が杏に口を開くのは、耳が見えている時だけだ。
「さっきから銃声みたいな音が聞こえますけど、世の中はいまどうなっているんですかね」
「嶋さんってホント、危機感ゼロよね。ウチらはいま戦場にいるのよ。このクソ寒いときに上半身裸で日本刀と拳銃を持った入れ墨だらけのボスキャラみたいなのが、雑魚キャラみたいなやくざを山ほど引き連れてこっちに向かってるんだから。こんな顔して」
 モニターの隙間から見える杏が、感情のスイッチを一瞬で切ったようにしてppを真似た。
「そうですか。そりゃすごい展開ですね」
 嶋が個人タクシーを休業して時村俊吾の仲間に加わったのは半年前、モスクワとサンクトペテルブルクで起こったテロの後だった。もとより芝居が好きで、時村の公演の常連だった嶋は、即決でその誘いに乗った。
 時村の話は、まるで新作のプロットを聞いているようだった。ロシアのテロは反政府勢力によるものではなく、未知の者からの攻撃である可能性が高い。これは世界的には三度目の攻撃で、日本も既に一度、同じ侵略者からの攻撃を受けている。
 時村は今年の一月に起こった怪事件を絡めて、壮大な仮説を組み上げていた。今では東京インシデントと呼ばれているその事件は、千葉県の浦安にある日本最大のテーマパークの城の前で起こった。
 ナイトパレードの始まりを待っていた群衆の一部が集団で発狂し、周囲の観客やスタッフを次々と暴行した。場所柄、殺傷性のある武器になるようなものを持った加害者は居らず、すぐにその場にいた有志によって鎮圧されたが、居合わせた観客によって撮影され拡散された映像のインパクトは途轍もなかった。
 カチューシャを着けた若い女が友人の首を絞め、修学旅行の男子学生が着ぐるみを着たキャラクターに体当たりして馬乗りになった。発狂した者の中には、小学生の子供も含まれていた。
 精神に異常をきたす有害なガスを吸い込んだのではないかという説が広まり、実際に調査も行われたが、証拠となる物質は何も発見できなかった。正気をなくしたまま拘束され治療を受けていた加害者たちは、十日も持たずに全員が死亡した。死因はいずれも脳圧の上昇による脳出血死だった。
 時村は浦安の三時間半後に起こったインドのニューデリーと、さらに四時間半後に始まったイタリアのミラノでの小規模な無差別テロが、同一の者による一連の攻撃であると仮定し、同様の事案が去年の夏に上海と武漢でも発生していることを突き止めていた。
「ったく——ウチらいつ撃たれたっておかしくないんだからちょっとぐらい危機感持ってよね。撃たれて死ぬのも嫌だけど、こいつら、いま、乗り移って来るんだからね。今まさに、このすぐ近くで、そんなことが実際に起こってるんだからね。乗り移られたらどうすんの? 嶋さん、ちゃんと想像してる?」
 嶋の役割は中継基地を兼ねた移動オフィス車両の改造・整備と運転だった。
 営業用のタクシーに乗って地方公演にも遠征するほど時村俊吾の支持者だった嶋は、劇団のメンバーやスタッフからも顔が知られていたし、他に適任者もいなかったのだろう。加入の条件ではなかったが、定期預金を解約して老後の蓄えをすべて出資した。それだけの金を払う価値のある〈極上の芝居〉を観られると思ったからだ。
「わたしは皆さんのご活躍が間近で見られればそれで死んでも満足ですから」
「ま、嶋さんは昔からお客さんだからね」
 最後まで言い終わらないうちに、杏はヘッドホンを掛けた。モニターの隙間から見える大きな瞳が、また高速で動き始める。
 嶋はそれを眩しそうに見た。劇団結成初期の主演女優が、躍動している。
 初めて観た時村の芝居も、ヒロインは杏だった。劇団が有名になるにつれて、杏は演劇から離れ、ファンの前から姿を消していた。待ち望んでいた時村との共演が、いま新宿を舞台にして行われている。
 世界は時村の想像した通りになり、入金時に言われた通り、投資した金はすぐに何十倍にもなって戻ってきた。
 東京インシデントの五ヶ月前に起こっていた上海・武漢インシデントの証拠となる動画が時村の運営するウェブサイト『ZKD』によって明るみに出ると、『わが国民にサイコパスはいない』と言い放った中国共産党報道官の会見動画が話題になり、SNSには無数のパロディ動画が生まれた。『ZKD』の閲覧者も指数関数的に増えていき、映像提供者に高額の仮想通貨が支払われることが知られると、良質な動画が世界中から集中的に投稿されるようになった。発狂者はネットスラングでppと呼ばれるようになり、時村の発信する情報は、人類とppとの戦いの物語に展開していった。
「気を付けて。歌舞伎町のppが靖国通りを渡ってそっちに向かってる」
 杏が時村と交信している。
「映像見たら分かると思うけど、やばいよこいつ」
 杏は時村との共有モニターにライブ画像を拡大表示し、警告した。
 時村の置かれている状況は、セッケンが撮っているライブ映像で確認することができる。セッケンは時村を支えている石田龍拳という舞台監督で、『ZKD』構想時からの創設メンバーだ。セッケンのカメラマイクが拾っている音は、いま杏の左耳に繋がっている。
〈その武器を地面に置け〉
〈武器? これのことか。カートリッジを交換してないからいまはただのオモチャだ〉
〈屁理屈を言うな。言うとおりにしろ〉
 セッケンの撮るライブ映像の視聴者数が、温度計を熱湯に突っ込んだように急上昇していく。
「やっぱ、もってるヤツは違うね。濃厚キャラの刑事がいい感じで絡んできた」
 杏のひとり言に、嶋が微笑む。
〈で、俺をどうするつもりだ。公務執行妨害で現行犯逮捕か? 俺がどんな公務を妨害したんだ。新宿のホコ天で市民を轢き殺す公務か〉
〈黙れ。これは警官を狙ったテロの可能性がある。お前はなんで警官が狙われることを知っていた〉
〈つまり、俺がテロリストってこと?〉
 時村の声にぷっと吹き出しながら、杏の目は世界を一周する。3rdアタックまでの事後情報にも、深夜帯に入ったティファナの新規投稿映像にも目立ったものはない。恐らく、現時点で襲われている日本の地域は、荒川土手と新宿東口交番、歌舞伎町交番だけだ。国外も含めて、それ以西の地域からは、まだppの目撃情報は得られていない。
〈ホコ天でネットランチャーを持って歩いている奴は一般の市民ではない〉
〈ま、そりゃそうか〉
 東口交番の情報はまだ僅かだ。撮影班と名乗って張り切っていた自警団員は、いったい何をやっているのか——。投稿されている画像はどれも未熟で、一般に公開されているライブカメラの固定映像に頼るしかない。事変が起こる前にうろうろしていたテレビクルーは、早々に撃ち殺されて死体の山に紛れていた。東口には中継車を停める場所がないことから、杏は彼らがライブカメラではないENGのクルーだと想定していた。いまも回っているかもしれないそのカメラの映像を想像し、テレビマンの死に敬意を抱いた。
 一方で、歌舞伎町方面には、いい仕事をしているライブカメラがある。靖国通りを渡った歌舞伎町のppは、スカウト通りには入らずにコースを東に変えた。その顔をほとんど正面から捉えているカメラの閲覧数は、セッケンの構えるオフィシャル動画のそれを超えている。
〈もう時間が無い――。だから簡単に説明する。一月に日本でppになった人間には、女もいれば子供もいた。その前の中国では、犬もppになった〉
 杏の端末では、ライブカメラの映像を遡ることができる。歌舞伎町のメインストリートを固定で中継し続けているカメラの映像を過去に戻しながら、その二つの動画が同じハンドルネームの撮影者によるものだと気付いた。
「なにこの子。まだ子供じゃない」
 自らが設置した固定カメラに映っていたのは、まだあどけなさの残る、育ちの良さそうな少年だった。
 ヘルメットは被っておらず、杏だけが感じている『ZKD』信者に特有のムードも纏っていない。
 そもそもこんな状況では、ヘルメットなど気休めにしかならない。分かりきったことを時村が続けているのは、ただ単に『ZKD』信者を区別する目印にするためで、性格の悪いあの男がいかにも考えそうなことだ。
〈もし、その話が本当だったとして〉
〈いまお前と議論する気はない。それにまだ俺の話は終わっていない〉
 Bianchi1234というハンドルネームの少年は、ppが乗り移る決定的な瞬間を捉えていた。杏が切り出してリストのトップに上げたその映像は、見たことのない勢いで世界中から買われている。
 セッケンの撮る映像を映したモニターが発光し、杏の左頬がグリーンの光を浴びた。
〈ティファナからの投稿映像で気が付いた。ライフルで頭を狙われたppが、こんな風に光るのを見たんだ。肉眼でこれを見るのは、もちろん俺も初めてだけどな〉
〈こいつらは……、乗り移るのか〉
 歌舞伎町のppは、迷いなく路地を右折し、パトカーに轢かれた負傷者を仕留めながら進んで行く。
 もしかしてこいつ——。
 杏は顔を顰め唇を突き出した。歌舞伎町のppは、紀伊國屋書店前のppと交信し、合流しようとしているのではないか。
「キモっ」
 その仮説を時村に報告する必要はない。時村俊吾なら、そんなことはとっくに気付いているに違いないからだ。
〈お前は――いったい何者なんだ〉
〈俺はテロリストでもないし予言者でもない。俺は劇作家で、俳優だ。その立場で、報道の姿を借りた自己表現をしているだけだ。作家としてこの事件に興味を持って、情報を集める為にサイトを作った。そこに集まったものの真偽を見極めて、自分の予想を発信している。結果的にそれが金儲けにはなっているけど、金だけが目的じゃない。こんなことが現実に起こっていると知ってしまったら、どんな作家も俳優も、いったんはペンを置いて舞台を降りるだろう。極めて自然な成り行きだ〉
「ファック! 自分ばっかりおいしい芝居しやがって。もう我慢できない」
 杏はそう言って、ヘッドホンを二台とも放り投げた。
「嶋さん、出番よ。紀伊國屋の前に向かって」
 嶋は左右を確認し「出発します」とウィンカーを出した。
 新宿の太陽は、ビルの向こうの地平線に隠れようとしていて、東の空からは夜が迫っている。
 嶋のワゴン車はまだ歩行者天国のバリケードの解けていない新宿通りの中心部に向かって、あみだくじを辿るように路地裏を進んだ。
 杏の足指がセレクターを踏み、セッケンのカメラの音声が、車載スピーカーに切り替わる。
『時間切れだ。次はちゃんと頭を撃て。歌舞伎町のチャンピオンが、こっちに向かってくる』
 嶋はアクセルを踏み込みたくなる衝動を抑え込んで、注意深く、的確に車を進めた。
 モニターの隙間に顔を近付けた杏が、フロントガラス越しの世界を見ている。
 ルームミラーに映るその顔はまるで、好奇心に溢れた子供のようだった。
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