1-5

文字数 4,853文字

「赤沢くん」
 爆発の後、隠れていたビルの影から飛び出した少年に、岸は呼びかけた。
 少年はちらりと岸を振り返り、何もなかったように爆心地に向かって走り出した。
 その顔は——間違いなく赤沢櫂だった。
 春先に歌舞伎町の中心部でたむろする家出少女や不良少年を一斉補導したとき、紛れ込んでいた少年だ。補導歴もなければ服装や態度に危険な兆候もなく、裕福そうな両親がどの親よりも早く迎えに来たのを覚えている。親に抱き締められても泣きもせず、嫌がりもせず、ただじっと自分の靴を見ていた。
 補導時の櫂は何のためらいも見せず、岸の質問に答えた。高校の入学式に行こうと家を出たら、電車の中でふと、入学式に行くよりもその時間の歌舞伎町を見に行った方が社会勉強になるような気がした。考えている内に終点の新宿に着いてしまったので、電車を降りて歌舞伎町まで歩いた。植え込みに座っている人がいたから自分もそこに腰掛けて、通りを眺めていた。
 櫂は少年課の岸が初めて見るタイプの少年だった。優等生でも不良少年でもなく、早熟さも幼稚さも感じられなかった。一見して無気力そうなその瞳の中には、ぞっとするほど利発そうな輝きがあった。
 今後、警察や児童相談所のやっかいになることなどなさそうだった少年が、いま暴動の最前線にいる。首のない暴力団員の死体を見下ろすようにカメラを向けて、次の被写体を横目で探っている。
「おいコラなに撮ってんだてめえ」
 負傷したやくざが恫喝しても、櫂はまるで動じていない。
 岸は腰の後ろに隠すようにして握った拳銃の安全装置を外した。
「赤沢くん、危ない。こっちに来て」
 櫂は振り向きもせず、恫喝したやくざにカメラを向けた。
「なんだオラ殺すぞクソガキおいっおらっ」
 狂ったように喚き散らすやくざには、左腕がなかった。右手だけで匍匐前進しながら、近付いてくるその男を櫂はカメラの液晶モニター越しに見ている。怯えもせず、逃げもせず、それどころか少しずつ男に近付いている。まるでテレビゲームをやっているような顔で撮影を続けている。
 野次馬やくざの後方にいた者たちが立ち上がり、状況を把握できないまま威嚇するように周囲を睨んでいる。このまま西島と対決姿勢を取り続けるべきか、混乱に乗じて逃げ去るべきか、それぞれが虚勢を張って誤魔化しながら浅はかな考えを巡らせているようだった。
 片腕のやくざが何も言わなくなり、目の焦点が合わなくなったのを見て、櫂はまた動き出した。櫂が興味を示した方向からは、サブマシンガンの音が響いている。東口の方だ。
 その音にやくざたちがざわつき始める。何人かは新たな刺激を求めて、音のする方に歩き始めた。
 櫂は負傷者を避けてジグザグに走り、岸はその動きを横目で捕捉しながら距離を詰めるための最短距離を走った。
 東口の交差点で、少年の背中が消えた。
 数秒遅れで交差点にたどり着いた岸は、貨物車用の駐車枠に停まったトラックの影に隠れた櫂を見付け、そこに走り込んだ。
「赤沢くんなにしてるのっ。こんなところで。すぐに避難しなさい」
 掴んだその手は何の抵抗も示さず、骨のない人形のように揺れた。櫂はカメラの構えを解いて、肉眼で新宿駅を見ている。
「そうですね。そろそろ帰るタイミングかも知れません。でも」
 少年の唇がそう動き、瞳が岸に向けられた。
「残念だけど、どうせこの世界は終わりますよ」
 サブマシンガンの音が響く。駅ビルのガラスが砕け、剥き出しの悲鳴が届く。
 絶望を声にしたような叫びの中から、男の影が現れた。
「見てください。次は機動隊ですよ」
 それは警察官である岸の目から見ても間違いなく、機動隊銃器対策部隊の装備を纏っていた。
「うそでしょ……」
 声に出してから、岸は心の声を言ってしまったと気が付いた。
「嘘みたいですよね。機動隊の次は、自衛隊かも知れない。何とかこの攻撃を食い止めたとしても、他の国はどうでしょうか。このあと別の国で、これを超える攻撃があったら、その国の警察や軍隊は秩序を保てるでしょうか」
 反論を探して見付けられないまま、岸は櫂の腕を握っていた。
「——とにかく、ここにいちゃダメ」
 タクシー乗り場のあった場所に銃器対策部隊の特殊車両が停まっている。その運転席から飛び出してきた機動隊員が、発狂者となった同僚にサブマシンガンを向け、相打ちになった。先に弾倉を空にした発狂者が膝を付いて血を吐き、左肩を負傷した勝者が距離を詰める。
「近付かないで」
「近付いちゃダメだ」
 岸と櫂は同時に叫んでいた。
 機動隊員は立ち止まり、二人を見た。
 その時、膝立ちになった発狂者の頭がヘルメットごと吹き飛び、空中で爆発した。割れたヘルメットから飛び散った肉片が、悪夢のように降り注いでくる。
 櫂は棒立ちになり、じっとその光景を見ていた。
 アスファルトの上で爆ぜる、細かな肉片の音を聞いていた。
 駅の中から、新たな銃声が聞こえて来る。その音を二人は、ただ黙って聞いていた。
 その銃声が近付いて来る。マシンガンの音だ。
 現れた新たな機動隊員は、血塗れになったヘルメットのシールドを出動服の袖で拭った。こびり付いた血液は拭いきれず、諦めたようにシールドを上げる。その顔には、発狂者の特徴が見て取れる。
「ここでじっとして、動かないで」
 岸は櫂の腕を掴んだ手を離し、トラックの影から顔を出した。新たな発狂者は、まだ二人の存在に気付いていない。
 駅ビルと二人の隠れているトラックの間には、広い中央分離帯があり、地下に降りる階段のアーチや、地下の明かり取りのための建造物がある。それらを伝って発狂者の背後に近付き、首筋から頭頂部を狙って銃弾を撃ち込む——。成功のイメージを思い描き、恐怖心を追い払う。地下駐車場の入り口になった建造物に狙いを付けて飛び出そうとした岸の肩を少年の手が掴んだ。
「待って下さい」
 それは意思の籠もった、強い力だった。
「僕を保護してください。もう電車にも乗れなさそうだし、歩いて帰るにも距離があるから」
 櫂がそう話す間に、発狂者は生き残った機動隊員を撃ち、マシンガンの弾倉を入れ替えた。
「自転車で来れば良かったんだけど、邪魔だと思って置いて来ちゃったんですよ」
 岸は振り返り、櫂の目の中に真意を見た。彼は私を守ろうとしている——。
「子供だからとか女の人だからとかそんな理由で見下す奴は嫌いだけど」
 岸の心を読んだように、櫂は言った。
「あなたにも僕にも、あいつを倒す戦闘能力はないです」
 櫂はまだ何かを言おうと唇を開いたが、近付いて来るヘリの音に顔を顰め、それ以上話すのをやめた。
 民間の報道ヘリが、法定高度より明らかに低い位置から東口をカメラに収めようと旋回している。
 発狂者は戦力を分析するように、じっとヘリを見上げている。
 岸は退路を考えた。路地裏を縫って南口に向かい、甲州街道を通って新宿の中心部から離れる。最終的には新宿署に戻り、赤沢櫂の保護者に連絡、新宿駅東口周辺の事態を報告し、新宿署が現在把握している情報を手に入れるのだ。
 発狂者が上空に向かってサブマシンガンを構える。連写モードになったその銃口から弾丸が吐き出された。
 今のうちに——。
 トラックの裏に櫂を押しやり、ヘリを仰ぎ見る。この距離であの機体にダメージを与えるのは不可能だろう。
 根拠もなくそう結論づけて目を逸らした時、もう一人の自分が言った。
(またそうやって逃げるのね)
 足首を掴まれたように、体が竦んだ。
 違う——。
 岸の頭の中に、少女の顔が浮かんだ。

 自分の部屋の窓から見えたその家に、同い年の女の子が引っ越してきたのは、岸が中学一年生の夏休みだった。サマードレスを着た肌の白い母と、ポロシャツを着た歯の白い父に促され、はしゃぎながら家に駆け込んだ少女が不意に二階の部屋の窓を開けた。岸は慌ててカーテンの裏に身を隠し、胸を高鳴らせた。
 あそこが彼女の部屋だろうか。ピンクの壁。淡いグリーンのシーツのかかったシングルベッドが見えた。お互いの部屋が見えるところに引っ越してきた少女は、将来かけがえのない友人となり得るかも知れない。岸は残り少なくなった夏休みの大半をその部屋をのぞき見ることに費やした。彼女は家の中でもお洒落をしていて、首回りの伸びたTシャツを着ている自分とは大違いの、柔らかそうなルームウェアを着ていた。
 新学期になり、彼女は岸の通う公立中学の隣のクラスに転入してきた。初めて廊下で擦れ違ったとき、目を合わせられなかった。毎日のように部屋を覗き見ていることがばれたら、どれだけ軽蔑されるだろうか。
 視界の端を通り過ぎた転校生は、他のクラスの男子たちがこそこそと見に行く程の美少女で、文化祭が始まる頃には学内カースト上位のグループに交じるようになった。
 引っ込み思案で早熟なグループとの間に見えない線を引いていた岸は、地味な女子の集団の中から彼女をまぶしく見ていた。劣等感から自室のカーテンを開けられなくなり、隣人と親友になるという願望は心の奥に仕舞い込まれた。クリスマスが近付くと外観をイルミネーションで飾られる彼女の家は、見た目よりもずっと遠くにあるように感じた。
 彼女が学校に来なくなったという噂を聞いたのは、三年生になった梅雨の時期だった。クラス替えで一緒になった厄介なグループから、陰湿ないじめを受けていることを知った。加害者のリーダーは女子の誰もが恐れる問題児で、岸には同情以外に何もできることがなかった。
 もし一度でも同じクラスになっていたら。同じクラブに入っていたら。もし共通の友達がいたら。微力ながらも相談相手ぐらいにはなれたのかも知れない。でも、そうはならなかった。これだけ家が近くても、接点がなければ助けようがない。
 自分自身を弁護して納得したつもりでいても、胸の奥にある陰りを拭いきれてはいなかった。
 岸は気付いていた。
 彼女の部屋のカーテンが、何週間も前から閉じたままになっていた。
 二年続いたイルミネーションは、三年目の冬には飾られなかった。受験勉強の合間に盗み見るその家は、魔法が解けたように普通の家に戻っていた。
 高校受験の前日、早めに就寝しようと十時頃に布団を被った岸は眠れず、深夜にその音を聞いた。
 窓が開く音。
 ベッドから体を起こして、カーテンの隙間から目を凝らす。岸は慌てて、隠れるように顔を背けた。逆光になった彼女の影が、真っ直ぐに自分を見ているように感じたからだ。
 受験会場に向かうバスの中で、救急車のサイレンが聞こえた。それは凄いスピードで近付いてきて、吊革を掴んだ岸と擦れ違った。
 絢華が。いつ。島崎が。昨日。島崎絢華が。家で。
 自殺したと聞いたのは、試験が終わった後の帰り道で、同じ学校の生徒たちが交わす会話からだった。
 予感していたことが、現実になって岸の心にのしかかった。
 窓を開けたら声が届く距離にいたのに、なにもできなかった。なにもしなかった。
 島崎絢華を見殺しにした。
 クラスが違うから。
 女の子だから。
 弱いから。

 報道ヘリは発狂者の銃弾を避けるように上昇し、旋回しながら再び機首を下げた。
 最後に撃たれた機動隊員には、まだ幽かに息があるようだ。
「ここで待っていて」
 岸はそう言って、上空に向かって発砲を続ける発狂者に視線を移した。
 撃ち終わりを待って、弾倉を入れ替える間隙を狙う。両手で保持した拳銃の安全装置を確認したその時、ヘッドライトを消したワゴン車が進入して来るのが見えた。警察車両ではない。ありふれたネイビーの商用車だ。
 ワゴン車は減速し、警戒するように車道上で停車した。
 そう——。そのままそこでじっとしていて——。
 靴の裏でアスファルトをそっと掴むようにして、岸は飛び出した。
 建造物の影に隠れ、照準を合わせる。完全装備の発狂者に致命傷を負わせるには、貸与されたオートマチック銃の9ミリ弾では火力が小さ過ぎる。
 それでも岸は、戦うことを選択した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み