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文字数 2,510文字

 生まれて初めて人を轢いた思い出の車は、ZKDの支持者の経営する会社で合法的かつ速やかに処分され、たまたま納車の早かったガソリン四駆で最上級グレードのハイエース特別仕様車が二代目移動基地号のベースになった。新宿インシデントで命拾いした経験を踏まえてガラスはすべて防弾に変えたが、札幌雪祭りに間に合うようにという時村からの無理な要求を満たすには、またしてもボディを強化する時間が足りなかった。そういった部分で多少の心残りはあるものの、ラグジュアリー感のあるレザーの三列シートにした内装や、スタビライザーを取り替えて強化した足回りには満足している。他にも、スパークリングブラックの渋い外観からは想像できない見えない部分に、様々な通好みの改良が施されていた。
 スケートリンク並にミューの低くなったつるつるのアイスバーンを四本の高性能なスタッドレスタイヤがしっかりとグリップしている。そのことをハンドルの感触で実感しているのと同時に、嶋は車内の温度や湿度、酸素濃度にまで気を配っているが、杏の不機嫌が引き起こすこの重い空気を入れ替えることは不可能だった。
 ライトアップされた札幌雪祭りの観光と、その後の宴会までは良かった。嶋はまるで自分が若くなって、気の合う友人たちと旅しているような夢見心地でいた。新鮮な魚貝類と身の詰まった蟹、普段は飲まない少量の酒で気分が良くなり心から笑った。幼少期まで記憶を遡ってみても、これ以上楽しかったことは思い出せなかった。
 翌朝、ホテル前に車を着け、いざ旭川に向かって出発する段になって杏が言った。
「なにこれ、嶋さんがやったの?」
「え、あ、わ、私がやったといいますか……」答えながら杏の威圧感に気圧され、口の中がカラカラに渇いていた。「前回と同じ業者の同じ担当者が……」
「は? 誰の指示で?」
 横目で盗み見ると時村はいたずらを見付かった子供のように舌を出して、肩を竦めた。
 杏の怒りの原因は二列目の座席に設置されたコンピューター機材にあった。嶋の言い分としては、時村に指示された通りに業者を手配しただけで、完成時には時村自身が動作確認をしている。その時、杏が立ち会わなかったことに疑問を感じてはいたが、二人の間で話は通っているものだと思っていた。リーダーがやったこととは言え、自分の担当分野のシステムを勝手にセットアップされたと知ったら、杏でなくても嫌な気持ちになるだろう。もしこの車を何の相談もなく用意されていたら、自分だって深く傷付いたはずだ。
 とにかくその朝から、杏の不機嫌はずっと続いている。旭川に着いて動物園でペンギンの散歩を見ている時も、層雲峡の氷瀑まつりを歩いている時も、杏は一言も口を聞かず舌打ちを繰り返した。旅の様子は要所要所でセッケンのカメラを使ってZKDのサイトの中でライブ配信されていたが、杏はサイトの管理を放棄し、視界に入るもののすべてを睨み付けていた。
 時村はppについては一切発言をせず、旅番組の出演者のように振る舞っていた。旅の感想と次の行き先しか話さない時村に、視聴者はさぞかしがっかりしていることだろう。しかも時村が何か話す度に、フレームの外から謎の舌打ち音が聞こえてくるのだ。
 層雲峡では温泉に入り、男だけの露天風呂を楽しんだ。工業高校卒の嶋には共感ができなかったが、時村とセッケンはこの旅を卒業旅行のようだと話した。そんな体験の仲間に入れてもらっているだけでありがたいと思うのと同時に、彼らが本当に何かを卒業しようとしているのではないかと感じて、切なくなった。楽しい旅もいつかは終わる。この旅をきっかけにしてZKDの創立メンバーである四人の関係も、少しずつ変わっていくのかも知れない。雪に囲まれた岩風呂で持病の痔ろうと腰痛を癒やしながら、嶋は漠然とそんなことを考えていた。

 バックミラーの中には、苫小牧のフェリーターミナルからずっと付いてきている覆面車両が四台、少し離れて地元のパトカーが二台続いている。次の行き先は網走市にある北浜駅。オホーツクに一番近い駅と言われる釧網本線の無人駅だ。行き先は既にZKDのライブ中継で発表されているから追跡車両もそのことを知っているのだろう。車間距離の取り方が雑になってきている。
 カーナビはただ真っ直ぐに東を指していて、当分の間、道案内に困ることはなさそうだ。幸運なことに天候はこの季節としては奇跡的な快晴で、見渡す限りの雪原に反射する朝日がいささか眩しいこと以外、何の不満もない。
 杏は今日も、三列目のシートに寝そべってふて腐れている。
 助手席のセッケンは車内で流す音楽の選曲をしながら、35ミリのフィルムカメラでZKDの活動とは関係のない個人的な風景写真を撮っている。ZKDの中でのセッケンの立ち位置は一貫している。それは時村の行動とその周りの状況を適切に記録することだ。それ以外の時間は芸術と文化を愛する気さくな若者に戻る。舞台監督という仕事柄、コミュニケーション能力に長けていて、普段ならムードメーカーであるセッケンも、不機嫌な杏からの余計なとばっちりを恐れてファインダーの中の銀世界に逃げ込んでいる。
 時村は本来なら杏と並んで座るはずの二列目シートの真ん中に座り、熱心にコンピューターを弄っている。時村が何かを企んでいるのは誰の目から見ても明らかで、彼がぎりぎりまでその企みを明らかにしないことは今までの付き合いの中で何度も証明されている。
 北浜駅に行ったら何があるのか。そんな質問をしたところで、「流氷があるに決まってるじゃないですか」としか答えないだろう。「駅があるんだから、電車も来る。流氷をバックに走る電車を見に行くんです。嶋さんも一緒に見ようよ」
 時村の台詞を想像しながら、嶋はほんの少しだけ運転席の窓を開け、マイナス三度の空気を吸った。
 もしかしたら、本当に流氷とローカル列車を見に行くだけなのかも知れない。
 そうであっても構わない。時村に誘ってもらっていなかったら、流氷を見ることなどない人生を生きていたに違いない。
 それでも嶋は心の奥で、オホーツクで何かが起こることを期待し、確信もしていた。
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