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文字数 5,617文字

「嶋さん、次を左、そこっ!」
 杏からの指示は、安全に左折出来るタイミングを過ぎていた。
「おつかまりください」
 嶋は仕方なく急ブレーキをかけ、ワゴン車の鼻先を路地に突っ込んだ。
 安全運転最優先を信条とし、二十年以上も無事故無違反を続けてきた自分はいま、明らかに平常心を欠いている。背中を伝って降りていく汗の感覚が、その事を嶋に告げていた。
 さっきの銃声は何だ——。
 つまり自分は間に合わなかったのではないか。
 進行方向から響く銃声に身を縮めた直後に、車内スピーカーに繋がったセッケンのカメラから同じ銃声が響いていた。
 いつの間にかその音は収まり、気味の悪い沈黙が続いていた。
 危機感のない自分の運転のせいで劇団に被害者が出ていたとしたら——。
 芝居中に役者が本物の銃で撃たれるなんてことがあったらたまったものではない。しかもそれが主演俳優を兼ねた劇作家なら、この芝居自体が終わってしまうではないか。事態は明らかに緊迫していて、多少のルール違反は必要悪としてやむを得なかったのではないか。いま警察は混乱して機能しておらず、取り締まるものもいないのだ。
 長年の接客で嶋の顔に貼り付いた、温厚を絵に描いたような無表情に、葛藤の色が浮かぶことはない。しかしその実は、落とした卵が割れないデモンストレーションを深夜の通販番組で見て衝動買いしたクッションを粘度の高い汗で湿らせていた。
「おつかまりくださいって、いったいどこにつかまるのよっ」
 創作に苦しむ作曲家のように両手で頭を抱え、モニターに打ち付けた額の痛みに耐えていた杏が、ルームミラーの中の嶋を睨み付けた。
「すいません。急に言われて間に合わなかったもので……」
 言い訳は、不機嫌を隠そうともしない杏の眼力に押し返された。
「ま、いいわ。嶋さんにはこれから頑張ってもらわなきゃだし、ちゃんと情報共有しないとね。慌てなくていいから、そこで一度停まって」
「情報共有……。承知致しました」
 嶋は幾分緊張を解き、路肩に車を停めた。普段なら迷惑な場所なのだろうが、この混乱の中わざわざ抜け道にもならない路地に入って来るドライバーはいないようで、前方にも後方にも走行中の車両はなかった。
「あっちはとりあえず片付いたみたい。いまからあのヘリの方に行くから」
 モニターの隙間から突き出された指が、上空に向けられている。そこには確かにヘリコプターがいる。暫く前から嶋も気付いていた。新宿駅東口の上空をホバリングしている報道ヘリだ。ヘリの音に混じって、不穏な銃声が聞こえてくる。
 杏はまた自分のモニターに視線を戻し、キーボードを叩き始めている。
 情報共有というのは、まさかそれだけだろうか——。
 そう考えて不安になったタイミングで、杏が目線を上げた。
「嶋さん、テレビ点けてみてよ」
 サイドブレーキを引き、センターパネルの表示をテレビに切り替える。指示されるままにチャンネルを送ると、どの局も同じように、新宿の混乱を伝えていた。「それ」と言われて指を止めた画面を見て気が付いた。映像は上空から東口のロータリーを見ている。これは、おそらくあのヘリコプターが撮っているものだ。
 杏が足先でスイッチを入れ替え、テレビの音が車載スピーカーから響いた。
〈発砲しています。我々のヘリは今、攻撃を受けています。繰り返します。これは現実です。武装した機動隊員のような男が、いままさに我々のヘリに向かって発砲しています〉
「新宿はいま、こんなことになってたんですね……」
「そう。突き当たりを右に曲がったらちょうどそこに出るから、嶋さんにバーっと行って轢いてもらおうかと思って」
「轢くって何をですか」
「ppに決まってるでしょ。そのマシンガン撃ってるマッドマックスみたいなやつよ」
「いいい嫌ですよそんなの。そんなの無理です。殺人行為じゃないですか。そそそそんなことしたらもう二度とタクシーに乗れなくなっちゃいますよ」
「嶋さん、まだタクシーに乗ろうとしてるの? もう意味ないじゃない。好きなときにいくらでも客で乗れるわよ。お金ならもうあるでしょ」
「そういう問題じゃないですよ。考えてみたら免許取り消しどころか刑務所行きですよ。この歳で刑務所に行くのはいくらなんでも——」
「だいじょうぶ。誰がどう見たってあっちが悪いんだから。いまテレビを見てる人が、全員味方になってくれるに決まってる。ほら、行って。ヘッドライト、オフってさ、とりあえず直接見えるところまで行ってみようよ」
「とりあえずって……」
「だいじょうぶ。見たらきっと轢き殺したくなるから」
 ニッと歯を見せて意地悪に笑う杏は蠱惑的で、女優そのものだった。
「なりませんよ」
 後方を確認して、嶋はしぶしぶウィンカーを出した。新宿駅はもう目の前で、50メートルも走れば、その場所に出る。この先には枝道もない。いずれにせよ突き当たりまでいかないことにはどこにも進めないのだ。
 テレビの中ではスタジオのアナウンサーがヘリに向かって呼びかけている。
〈気を付けて下さい。危険ですからくれぐれも無理をしないでください〉
 嶋は言われたとおりにヘッドライトを消し、新宿駅東口に面したロータリーに、そっと忍び込んだ。
 そこで目にした景色は生涯忘れることがない記憶として、嶋の脳に焼き付いた。
 ルミネエストの入った駅ビルのガラスが、粉々に砕けている。普段なら同業者が並んでいるタクシー乗り場に、営業車は一台もいない。その代わりに、角張った警察の特殊車両が斜めになって停まっている。命があるのかどうか分からない人があちこちに倒れ、窓を閉めた車内にいても血の臭いを感じる。その先では武装した黒い人影から次々と銃弾が放たれ、上空に硝煙が上がっている。
「あれが、ppですか……」
 間断なく連射されるマシンガンの音が、ヘリのカメラを通して車内スピーカーからも鳴り響き、嶋の呟きを掻き消した。いつでもバックギアに入れられるように左手で握ったシフトレバーが、汗で湿っている。
 ここはまるで、動乱の最前線だ——。
 同時にそれは、今までに見たことのない壮大な劇の舞台上でもある。
 いつの間にか、時村俊吾の劇の中にいて、それを見ている嶋もまた、その世界を構成する登場人物になっているのだ。
 すべての弾が吐き出され、ppは弾倉を引き抜いて捨てた。次の弾倉を装着しようと着衣を探った体が空気に殴られたように捻れ、同時に別の場所から銃声が聞こえた。マシンガンと比べたらいささか非力なものに感じる、拳銃のような音が間隔を空けて響き、そのほとんどが命中してppの体を弾いた。
〈反撃しています。女性のようです。私服警察官でしょうか〉
 アナウンサーの実況を聞きながら目を凝らす。ロータリーの中央にある建造物の影から現れた人影は小柄で、確かに女性のようだ。両手で拳銃を構え、近付きながら、また引き金を連続で三回引いた。被弾して道路に尻をついたppに距離を詰めていく。
 ヘリが高度を下げ、カメラマンはズームレンズを最大限に伸ばす。テレビの画面の中でppは上半身を起こしながら、弾倉を入れ替えようとしている。拳銃を持った女性は、それをさせじと足を速め、また至近距離から連続で発砲した。ppは仰向けに倒れ、女性の拳銃が吐き出す弾丸を為す術もなく浴びた。
 弾を撃ち尽くしたのだろうか。銃声は鳴り止み、アナウンサーは沈黙した。
 時が止まったように静止した世界の中で、ヘリの羽だけが回り続けている。
「まだ死んでない」
 杏が前のめりになって言った。
「ほら」
 ppの首が起き上がろうと動き、その手がアスファルトに落ちた弾倉をつかんだ時、甲高い少年の声が聞こえた。
「逃げてっ」
 はっとなって走り出した女性の背中に向けられた銃口が火を噴き、彼女の逃げ込んだ建造物の外壁を叩き削った。
 女性への攻撃をいったん諦めたppがゆらりと立ち上がる。そのまま天気でも確かめるように上空を向くと、何の予兆もなく報道ヘリに向かって発砲を再開した。高度を下げていたヘリは慌てて機体を揺らし、スタジオのアナウンサーは悲鳴のような声を上げた後、絶句した。
「どう? そろそろ轢き殺したくなってきたでしょ」
 杏がそう言って、唇の端を舐めた。
「はい。確かにそんな気になってきました」
 非常事態を察知した放送局は、中継を中断して映像をスタジオに戻した。被弾したヘリは大きくバランスを崩した後、存在しない風に流されるように水平移動して、駅ビルの壁面に衝突した。
「発車します」
 ワゴン車は走り出し、静かに加速した。ルミネエストの窓ガラスをプロペラで叩き割りながら壁伝いに向かって来るヘリが、破壊音を響かせながら嶋の視界の左端を通り過ぎて行く。
 ppは慌てる様子もなく、そのヘリを目で追っている。
 墜落したヘリがバックミラーの中で炎を上げた時、ppはもう嶋の目の前に迫っていた。
 振り返ったppと目が合った。
 その顔にはまるで表情がなく、目の前に迫った危機に動揺している様子もない。
 暗闇のような二つの空ろな目が時速80キロで近付いて来て、飲み込まれそうになる直前に鈍い音を立てて跳ね返った。真っ直ぐに弾き飛ばしたppの体に、次の衝撃で乗り上げた。車体の下を生きた人間の体が通り過ぎ、吐き出される感覚に戦慄した嶋はブレーキングが遅れ、ワゴン車は後輪を滑らせながら縁石のぎりぎりで止まった。
「どう? やった?」
 後部座席の足下にひっくり返ってシートベルトと格闘していた杏が顔を上げて、窓外を覗き込んだ。ワゴン車は通りに対して直角に向きを変えていて、助手席側の窓からは炎上するヘリが見えている。通りに動く人影はない。黒いヘルメットが転がり、街灯りを受けて鈍く光っている。その先で仰向けに倒れているppの顔は、血塗れで原形をとどめていない。関節が外れたように、手足はばらばらの方向に捻れている。
「やったと……思います」
 いつの間に集まってきたのか、人相の悪い男たちが遠巻きに様子を見ている。その中の一人が暴力的な奇声を上げて一歩前に出ると秩序が乱れ、数人がppに近付こうと動き出した。それぞれが懐からスマートフォンを取りだし、死体と記念写真を撮ろうとしているように見える。まるで自分たちが独裁者を倒したような横柄さだ。
 嶋は彼らのやろうとしている行為に、不快感を抱いた。轢き殺した自分の罪を棚に上げて、奴らに罰が当たればいいとさえ思った。
 ppの頭が赤く発光した瞬間、神の怒りが発動したと思ったのはそのせいだった。
「いや、まだよ」
 男たちはその光に戦慄して動きを止め、見かけに反して気の弱い者は跳び上がるように驚いて逃げ出した。
 光の輪郭は生き物のように蠢き、そこから触手のような突起が男たちに向かって延びている。
「頭のいい子ね」
 杏の言葉の意味が理解できないまま彼女の視線と同じ方向に顔を向けると、空中にレーザー光線のラインがあることに気が付いた。赤い線を辿った先、その始点には首からカメラを下げた少年が立っている。
「まだ生きていると言うことでしょうか」
 嶋が言い終わった直後に、また銃声が響き、赤い光は水風船が弾けるように消えた。レーザーポインターが指す場所にppの頭は無く、血で濡れたアスファルトの上に小さな光点が揺れている。
「いま死んだわ」
 銃声の主はすぐに分かった。彼女は構えていた拳銃を下ろして、肩で息をしている。
「一発残してたのね。わたしは好きよ、あのひと。女子っぽくて」
 車内から彼女の顔は、はっきりとは見えない。それでも嶋には彼女が悲しげな顔をしているように見えた。目を伏せた彼女は拳銃をしまい、ppに撃たれたと思われる負傷者の救護に走った。
「さあ、嶋さん。今度こそ紀伊國屋の前に向かって」
「承知致しました」
 百八十度方向転換するためにハンドルを送りながら、嶋はこの場所から離れられることに、内心で安堵していた。ほんの数分の間にいくつもの道路交通法違反を犯し、あろう事かノーブレーキで人を轢いてしまった。とどめを刺した彼女が警察官であるならば、自分の犯した罪も許されるのかも知れないが、幸か不幸か報道ヘリのカメラはその瞬間を撮影できておらず、味方になって弁護してくれるはずの視聴者はいない。去れるものなら一秒でも早くこの場を移動して、責任者である時村と合流したいところだ。
「あ、嶋さんごめん。やっぱそっちじゃなくて今来た道を戻って欲しいんだけど」
 無茶を言われることには慣れている。浮き世離れした杏には、交通ルールの常識などないのだろう。
「今来た道って、ここは一方通行のロータリーですから……。一周して戻るにもヘリの残骸で進めない——」
「それじゃあ間に合わないのよ」
 杏のタッチするキーボードの音が激しくなり、その指の動きは急に止められた。
「めちゃくちゃすばしっこいさっきとは別のマッドマックスが、そこの出口から出てくる」
 ppを始末した女性は、負傷した機動隊員の脈を取り、諦めたようにそっと腕を下ろした。カメラを提げた少年は数歩離れた所から、無表情でその様子を見ている。
「ついでだから、あの子たちを乗せて逃げる」
 シフトレバーをバックに入れて、逆走の態勢になった。ヘッドライトを点けて目を凝らす。銃声らしいものは聞こえてこない。
「行って!」
「承知しました。発車します」
 ギアをドライブに入れ、アクセルを強く踏んだ。
「ドアが逆だから、そこの歩道に乗り上げて」
 理解のスピードが追いつけば、杏の指示ほど効率的なものはない。
「ドアロック解除してっ」
 車が停止しないうちに杏はサイドドアを開け、少年を強引に引き込んだ。それに気付いて反射的に駆け寄ってくる女性に、声を荒らげる。
「あなたも乗って! 次のppが来る」
 掃射されたマシンガンの弾丸が、一文字を描いて車の窓ガラスを叩いたのは、その直後だった。
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