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文字数 2,090文字

「嶋さんあれ何? 流氷?」
 運転席と助手席の間から身を乗り出してきた時村に、嶋は答えた。
「いいえ。恐らくあれは凍った網走湖です」
「すげえ。こんなでかい湖が凍るんだな」
 ナビゲーション画面に表示されている地図を指さして興奮する時村に、セッケンのビデオカメラが向けられる。阿吽の呼吸で、いつの間にかライブ配信が始まっているようだ。
 嶋はナビの到着予定時刻を確認した。杏の寝坊で一時間近く出発が遅れていたが、天候に恵まれたこともあり、このまま順調に進めば予定時間に間に合いそうだ。
 網走の市街地を抜けて、突き当たった網走港を助手席側に見ながら南に走ると、前方に知床連山の稜線が浮かび上がってきた。身を乗り出した時村の後ろで、杏がそっと背伸びしている。嶋は杏と目が合わないようにしながら、ルームミラーの中の彼女を観察した。
 港湾施設が途切れて、オホーツク海が見えた。弓形になった遠くの渚で波頭が眩しく輝いている。その白い光に目が慣れ始めた時、杏が言った。
「Great!」
 波頭だと思っていたものが、時を止められたように静止している。
 嶋の左耳のすぐそばで、時村が言った。
「流氷だ!」
 焦げて煙が出そうなくらいに熱くなる胸を抑え込もうと、嶋は安全運転に集中した。目的地を目の前にして事故や違反を起こしでもしたらプロ失格だ。後方の警察車両にも隙を見せてはならない。それなのに気が付くと、氷の海に心が引き寄せられている。
 左手に木造の小さな駅舎が見えてきた。釧網線の北浜駅だ。併設された展望櫓の上は観光客でいっぱいになっている。近付くと、そのほとんどが観光客ではなく時村の信者たちだと分かった。皆、スマートフォンを片手にして流氷に背中を向け、嶋の運転するハイエースに向かって手を振っている。未だにヘルメットを被っている者もいるが、嶋から見ればみんな今どきのお洒落で平和的な若者たちばかりだ。
「うわっ、フェスみたいになってんじゃん。おまえらこんなとこまで何しに来たんだ。観光客の人たちとか地元の人の邪魔すんなよ」
 時村がそう言って笑う姿を各自のスマートフォンの中に見ると、彼らはロックスターのMCを聴いたオーディエンスのように沸いた。駅舎の前にも時村信者や観光客、地元の不良少年らが入り乱れて祭りのようになっている。駐車場の入り口にはガードマンではなく制服警官が二人も立っていて、入場規制をしている。
「悪いけどここじゃ混乱しちゃうから、俺らはこの先の海岸で撮る。中継が終わるまでは近付き過ぎないでくれ。お互いにまずは流氷を楽しもう」
 ギャラリーが手を振る北浜駅を素通りして、嶋はハイエースを進めた。
 北浜での駐車場所は、層雲峡を出発する時点で前もって時村から指示されていた。駅から二百メートルほど離れた所にある、観光名所にもなっている踏切に近い駐車場だ。そこには既に赤色灯を回したパトカーが一台停まっていて、北浜駅とは別の制服警官が誘導灯を振っている。
 ウィンカーを出して駐車場に入り、もう一人の警官が誘導する場所に車を収めた。
 後続の警察車両が、嶋の後に続いて次々と駐車スペースに進入して来て、最後に入ってきたパトカーが入り口を封鎖した。もはや尾行とは言えない大胆さだ。
 時村はこの状況を予測していたようで、過剰とも取れる道警の警備態勢に何の感心も示さなかった。もしかするとこれは時村の方から事前に提案していたことなのかも知れない。いずれにせよ、舞台は彼の思惑通りに整い、芝居はもう始まっている。
「おい杏、一緒に行くなら靴下履けよ。この旅のメインイベントだぞ」
 時村が丸まった靴下を投げ戻す姿は、セッケンのカメラに捉えられている。
「はあ? 行かないなんて誰も言ってねえだろ」
 杏の存在もZKDの支持者には既に知れ渡っている。女優時代の杏を知っている嶋からすれば、自分だけの秘密のアイドルがインターネットで晒されているような複雑な気持ちではあるが、それ以上に、最近では嶋自身がZKDの四人目のメンバーとして認知され始めていることに困惑している。
「じゃあ早く靴下履けよ」
「履くよ。うっせえなぁ、先に行けよ」
 じゃれ合う二人が、嶋には眩しく見えた。
「ほら、嶋さんも一緒に行こうよ。車は警察が見ていてくれるから安心だよ」
 不意に時村から言われた言葉にじんとして、鼻水が出そうになった。
「ありがとうございます」
 嶋はそう答えて、シートベルトを外した。
 最初にセッケンが、次に時村が外に出た。杏は面倒そうに膝丈の靴下を履き、その足をブーツに突っ込んだ。
 本当はこう答えたかった。
「もちろんです」
 杏が降りるのを見届けて、嶋は車を降りた。体験したことのない寒さで、耳が痛む。
 生きていることを体中の毛細血管で感じた。
「当たり前じゃないですか。行くに決まってるでしょう」
 三人分の新しい足跡を辿って行くと、海岸に渡る踏切があった。その先は、果てしなく広がる氷の海だ。
「当然です。その為にここまで来たんですから」
 踏切の前ではしゃぐ二人に杏が追いつき、振り返った三人が嶋を呼ぶ。
「死んでも見させていただきますよ」
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