6-2

文字数 5,427文字

 単線の線路を挟んで向かい合ったまま、お互いが何も話さなかった。奥にいる警察官が熊の背中に向けた射撃体勢になって興奮状態で何かを警告していたが、セッケンにはうまく聞き取れなかった。人間にも聞き取れない言葉がヒグマに理解出来る筈もなく、拳銃を撃ったところでヒグマに致命傷が与えられる訳がなかった。下手に刺激すればかえって暴れさせることになり危険度が増すだけだ。道警の警察官なら当然そんなことは承知の上なのだろうが、拳銃に代わる武器は所持していないようだ。
 鐘が鳴り止んで遮断機が上がり、お互いの間に障害物がなくなっても、暫くの間沈黙が続いた。
 相手の男はスーツの上にくたびれた革のハーフコートを羽織っていて、口元にうっすらと笑みを浮かべている。二頭の熊はうつろな目をして剥製のようにじっとしているが、それぞれの口からは生々しい息が煙のように立ちのぼっている。
「なにあんた。どうせなら斎藤タケルに会いたかったんだけど」
 最初に口を開いたのは、杏だった。
 男は杏を興味深そうに見て、答えた。
「彼の魂は私と共にあります」
 雰囲気が変わっていて気付くのが遅れたが、男もなかなかの有名人だった。新宿インシデントで歌舞伎町のやくざppとパトカーに乗った警官ppを仕留めた刑事だ。ネットの特定班が突き止めた彼の正体は確か新宿警察署刑事課の西島勇也と言う刑事で、学生時代はハンドボールの国体出場選手だったはずだ。
「は? なに訳の分からないこと言って勿体ぶってんの。あんた警察なんだからちゃんと説明しなさいよ。こっちはこう見えてそこそこ税金払ってるんだからね。ていうかなんなのそのでかい熊。臭いんだけど」
 西島はほんの少しだけ寂しそうな顔をして、両脇の熊を見上げた。
「なるほど、臭いが不評でしたか。白い世界に黒い生き物は際だって映えると思ったのですが」
「映えねえよ。あっち向かせとけよ」
 杏に全否定された西島が残念そうに「そうしましょう」と言うと二頭のヒグマは直立したままよちよちとターンして、丸いしっぽのついた尻をカメラ側に向けた。
 結果としてヒグマと正面から向き合うことになった制服警官が意味不明の怒号を上げて威嚇する。捜査員然としたコート姿の男が拡声器で西島の名前を呼んだ。
「西島、なんだこの状況は。説明しろ」
 西島はその声を無視して、流氷に視線を移した。
「美しいですね。まるで別の惑星に来たようです」
 セッケンは西島の横顔を捉えながらカメラ位置を変え、全員がフレームに入る位置に立った。
 威勢が良いのは杏だけで、他の二人はまるで役に立ちそうもなかった。
 嶋はヒグマに腰を抜かしたのか、内股の中腰になった状態で、あんぐりと口を開けたまま固まっている。
 時村は列車に向かって振っていた手を上げたまま棒立ちになって、恍惚とした表情で西島を見ている。無策に見える時村を睨み付けて、杏は大きく舌打ちした。
「黙ってないであんたも何か言いなさいよ。って言うか、あんたがこいつを呼んだんでしょ。ぼおっとしてないでちゃんと責任取りなさいよ」
 時村は抗議した。
「責任? なんの責任だよ」
「説明責任に決まってんだろ」
「警察みたいなこと言うなよ。見たら分かるだろ。彼こそが宇宙人だよ。聞きたいことがあるなら本人に聞けよ、せっかく目の前にいるんだから」
 杏は歯ぎしりして時村から顔を背けると、真っ直ぐに西島を指差して言った。
「びっくりさせるつもりだったんだろうけど、あんたが来ることなんか知ってたんだからね」
「ああ、そのようですね」
 その時、カメラモニターの中の映像に、セッケンは違和感を抱いた。西島の後方にいる警察官たちがいつの間にか静かになっている。二頭のヒグマと同様にほとんど動かず、まるで1/1スケールのジオラマを撮っているようだ。
 その間を縫うようにして近付いて来る小さな人影がある。シルエットで予想はしていたが、ズームアップしてそれが誰なのかはっきりと分かった。新宿インシデントで知り合った少年、櫂だった。
 櫂は恐る恐るヒグマの脇を抜けて線路のこちら側に入り、しおらしく頭を下げた。
「すいません。どうしても我慢できなくて、ここまで来ちゃいました」
 時村はにっこりと笑って「そりゃそうだろ。俺が櫂だったら絶対来てるよ」と言った。「杏とだけ連絡先の交換をしていたのには嫉妬するけどな」
 櫂は口ごもりながら赤面して時村から目を逸らし、西島に一礼した。
「こんにちは。僕に気付いていたんですね」
「ええ。実は羽田からずっと。良い旅でしたね」
 セッケンはモニターに表示されているタイムコードを確認した。数字は正常に走り続けている。時間が止まっているのではない。ヒグマや警察官が動きを止められているのだ。
 杏はますます不機嫌になり、ヒステリックに声を荒げた。
「あんたバカなんじゃないの? こんな器用なことができるなら、熊なんか連れてくる必要なかったじゃない」
 杏に追い込まれた西島は「それはそうですが……」と答えに詰まり、それを見ている嶋が口に腕をあてて笑いを堪えている。
「熊については確かに宇宙人的な発想だったかも知れません。この地域で最も戦闘能力の高い生物をコントロールしてみたかったのです」
「じゃあ警察辞めて動物園にでも就職すれば? ライオンとかゴリラでも調教してればいいじゃない。旭川に行ったら有名な動物園があるからおすすめするわ。熊が好きならホッキョクグマだっていたわよ」
「動物園……なるほど」
 セッケンにも嶋が笑う理由が分かった。もし本当に西島が宇宙人なら、宇宙人はいま明らかに杏に押されているように見える。
 主導権を握った杏が、さらに畳みかけた。
「で、なんなんだよ。こんなとこまで何しに来たんだよ。ただ熊と遊びに来た訳じゃないんでしょ」
 西島は間を開けず瞬時にその質問に答えた。
「ここに来た理由は端的に言えば、調査です。ZKDのサーバーに入って情報を手に入れようと思ったのですが、ホスト機能をミニマム化して車載された上、フェリーで北海道に旅立たれてしまいました。この星で最も我々に精通した民間企業の中心人物が行き先を明かしながら追跡可能な場所を移動しているのですから、追いかけたくなるのは自然な反応でしょう」
 自分が知らされていない事実を知った杏が、時村と嶋を睨み付けた。
「てめえら、勝手にそんなことしてたのか」
 嶋が激しく怯えている理由は、車の鍵が自分のポケットの中にあるからだ。
 嶋の心を読んだように西島が言った。
「心配ありません。もう車にもコンピューターにも用はありません。必要なデータは、もう手に入れました」
「は? なにそれ。あんたみたいな不器用そうなおっさんが簡単に入り込めるようなシステムじゃねえんだよ」杏がまた不満を爆発させた。「さっきから思わせぶりなことばっかり言いやがって。あんた誰かに似てきてない? はっきりしない男は仲間内に一人いれば充分なんだよ」
「確かに私は時村氏の魂から影響を受けているようです。そして、あなたが彼に対して抱いている複雑な気持ちも理解しています。あなたの不幸はあなたの価値観において彼を越える人物が見付からないことですね」
「はあ? 何なのお前。殺す」
 感染するように男たちに笑いが広がった。よく見ると、西島も同じように笑っていた。
 何故だろう——。
 不思議なことに、いつの間にか恐怖心が消えていた。
 親も見たことがないような顔で幸せそうに笑う櫂に釣られて、和やかな気持ちになった。セッケンはやっと恐怖から解放されて、肉眼で周りの状況を見た。
 時村がえびす顔で杏をからかった。
「杏、もっと心を開けよ。Open up your mind!」
「はあ? 急に混ざって来るなよ。いまこいつと話してんだよ」
「もうとっくに混ざってるんだよ」
「は?」
「お前、アメリカで一回、結婚してるだろ」
「——なんで知ってるんだよ」
 明らかに動揺している杏の心が、指で触れそうなぐらいに理解できた。ニューヨークを舞台にした杏の恋の始まりと終わりの記憶が、何故かセッケンの心にも甘い痛みを感じさせた。
 嶋の人生。犯罪加害者の親族として生きた苦悩——。
 櫂の青春。理解者のいない孤独——。
 時村が指でクリオネの触手を真似て言った。
「俺たちはいま、彼から出ている見えないバッカルコーンみたいなやつに意識をつかまれている。彼の中には彼が手に入れた知識の記録庫があって、その中にいま俺たちの意識もコピーされている。彼は言わばとんでもないスーパーコンピューターを積んだ生物型異星探査機だ。集めた情報を彼自身が解釈しながら、子供が成長するように学習していく。もう最初の頃みたいに無闇に暴れたりはしない。ここにいる全員が知恵を絞っても、もう彼の知能には勝てない。彼の知能はもうとっくに人間を超えている。しかもこれからも果てしなく成長し続ける。彼は宇宙から地球に投げ込まれた神みたいなもんだ」
 西島は音楽を聴くように目を閉じて、時村の仮説を聞いていた。時村の話が終わると目を開けて、拍手するように手を叩いた。
「素晴らしい理解力です。あなたたちの魂は興味深い。みなさんの個性に敬意を表していじらずにそのままそっとお返ししましょう」
「浄化はしてもらえないんだな」
 時村がそう言って皮肉っぽく笑った。
「あなたのジョークの最大の理解者は私です」
「でしょうね」
 セッケンは今まで以上に仲間を親密に感じていた。魂が繋がってみて初めて分かった。時村には時村なりの苦悩があった。時村には社会を斜めにしか見られない正当な理由があり、杏にも強がらなければ生きていけない理由があった。
 杏が西島に言った。
「じゃあなに? あんたほんとは宇宙人じゃなくてAIみたいなもんなんじゃないの?」
「私とあなたたちのAIの決定的な違いは多数決を採用しないことです。だからこそこのような辺境まであなたたちに会いに来たのです。なるほど私が宇宙人であるかどうかについては意見が分かれるかも知れませんが、私をデザインした創造者はそもそも生物ですらありません。私が宇宙人を名乗ることに罪はないでしょう。変身しないウルトラマンと考えてもらえれば理解しやすいのではないでしょうか」
「は? あんたバッカルコーン星のオタク第一号なんじゃない? 胡散臭いんだよ」
「女性は手厳しいですね。私たちは宿主の意識から影響を受けます。私の寄生している体は男性ですから、どうしても男性的な思考になってしまうようです」
 杏は腕を組み、肩幅に足を開いて言った。
「で、これからどうすんのよ。少年漫画みたいに仲間になって一緒に旅でもする気?」
「それは魅力的な提案ですが、辞退せざるを得ません。私は調査と報告を続けなければなりません。幸いにも、いまこの場所には日本の公安警察はもちろん世界中から主要国の諜報員が集まっていて、極めて効率良く有益な情報を収集することができました。価値のある旅でしたが、これ以上ここにいる意味はありません」
 西島が遠い目をして向けた視線の先に、一頭の鷲の姿があった。
 鷲は急上昇して小さな点になった後、急降下して流氷の上を高速旋回した。弄ばれた鷲は異常行動を繰り返した後、慌てて逃げ出すように沖に去って行った。
「これからはどこに行っても追われるぞ」
 時村の忠告を西島は質問で返した。
「それは私が逃亡することが前提になっていませんか?」
 セッケンは西島の行き先を想像した。国会議事堂? 国会に行っても首相官邸に行っても恥ずかしながら彼を落胆させることになりそうだ。目的は大学や研究所か——。防衛省か——。あるいは、皇居か——。
 突然鳴り出した鐘が、セッケンの思考を現実世界に引き戻した。遮断機が下りてきて、互い違いになった平行な二本のバーが、仲間と西島との間を隔てた。
「名残惜しいですが、あの列車に乗って、戻ることにします」
 警告灯の赤い光を浴びる西島の視線の先、知床連山のシルエットの中に網走行きの列車が現れた。
 カンカンと鳴り響く警告音に負けじと、杏が声を張り上げる。
「ふざけんな、女の子の秘密を盗んだまま何の詫びもなしかよ」
 西島はにっこりと笑って、杏を見た。

〈それは失礼致しました〉

 その声は、セッケンの頭の中にも直接響いた。それはセッケンが知っている概念の声ではなかった。その証拠にカメラモニターに映った西島の唇は微笑みの形で閉じられたまま、全く動いていなかった。

〈お詫びとしてインスピレーションをひとつ差し上げましょう〉

 オホーツク海から氷の軋む音がして横目で見ると、流氷が雲のように空に浮いていた。
 セッケンのカメラは見渡す限り氷塊の浮かんだ網走湾を西から東にパンして、踏切に進入して来る列車を捉えた。西島が片手を上げて去って行く。二つ並んだ熊の頭が線路の向こうに消えた時、目の前を列車が通り過ぎて行った。流氷から垂れた水滴が、秒速三百コマのハイスピード撮影をしたように、スーパースローモーションで落ちてくる。重力の違う二つの世界を海岸線が分けていて、その境目に立っているようだった。

〈またお会いしましょう〉

 北浜駅を出て去って行く列車に、時村が手を振った。
「また会おう!」
 北浜駅の櫓の上にいる自警団や観光客が、時村に呼応して声を上げた。
 車体が小さくなり、完全に見えなくなるのを待って、セッケンはライブ中継の接続を切った。
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