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文字数 2,653文字

 邪魔すんなっ。上海、パリ、ニューヨーク、東京、全部俺様が手に入れてやるっ!
 そんな台詞が、何故いま頭に浮かんでいるのか、自分でもよく分からない。そもそも、これは自分の台詞ではなく、敵である怪人の台詞だ。
 高校を出てすぐに俳優を志し、長い下積みの後二十七歳でやっと掴んだチャンスは、特撮ドラマの主人公だった。男の子は泣いてはならないと言われていたのはもう昔のことで、斎藤タケルの演じたヒーローは、涙を流しながら変身するという、当時としては斬新な設定になっていた。主人公は敵である怪人を倒しながら成長し、流していた悔し涙は、いつしか悪に対する熱い怒りに変わって行く。怒りの感情が、変身の第二形態であるレイジモードを発動し、強敵たちに次々と打ち勝って行く。やがてその怒りを制御できなくなった主人公は懊悩する。怪人の首領はその心の隙間を突き、主人公は次第に孤立して行くが、周囲の人々の献身的なサポートによって自我を取り戻し、開眼する。明鏡止水モードに変身したヒーローに、敵が言う。
「邪魔すんなっ。上海、パリ、ニューヨーク、東京、全部俺様が手に入れてやるっ!」
 ヒーローはスーツアクターが勤めていて、斎藤はそのシーンの撮影に立ち会ってすらいない。それなのに、敵の台詞が頭の中に溢れ出す。
「お前らの正義なんか、お前らの勝手な都合じゃないか。そんなもん全部ひっくり返してやる。気付いた時にはお前らの方が怪人だ。さあ、かかって来い!」
 明鏡止水モードになったヒーローは両手で輪を作るようにして怪人の頭をつかみ、その悪意を浄化して行く。子供に見せるには哲学的すぎる脚本は賛否両論を呼んだが、放映終了から五年が経ったいまでも多くの根強いファンに支えられている。斎藤タケル自身もこの役を愛していて、巡り合わせに感謝している。
「あっ、えっ、いっ、うっ、えっ、おっ、あっ、おっ」
 無意識に発声練習を始めた自分に驚いた。
 ガスに包まれたような眠気が襲ってきて、斎藤の意識は霞んでいく。自分はいま、夢の中にいるのだろう。夢の中で敵の怪人の台詞を喋り、意味不明な発声練習をしているのだ。
「かっ、けっ、きっ、くっ、けっ、こっ、かっ、こっ」
 夢の中の自分は病院のような場所にいて、ピントの外れた白い天井を見ている。
「さっ、せっ、しっ、すっ、せっ、そっ、さっ、そっ」
 体を起こそうと考えてもいないのに、斎藤の体は勝手に動き出し、裸足の足が冷たい床を踏んでいる。見ようと思っていない方向に首が動き、病室に駆け込んでくる看護師と目を合わせる。斎藤は彼女の緊張を解こうとして、微笑もうとする。今や斎藤タケルは有名俳優で、この年代の女性ならその名を知らない者はいない。傷付き挫折し、それを乗り越える努力をして、やっとそんなレベルの役者になったのだ。それなのに——。
 なんだ、その眼は……。
 看護師の顔には明らかな恐怖が浮かんでいた。
 いつの間にか、斎藤タケルの頭の中に、裸の看護師がいた。彼女は凜とした外見に反して性欲が強く、考えていることの大部分が性的なファンタジーに繋がっていた。年下の恋人が一人と、年上の遊び相手が二人いて、それでもまだ別の誰かをマッチングアプリで探していた。斎藤タケルの病室の担当になったとき、彼女が真っ先に想像したのも性的なことだった。しかし今は斎藤には興味がない。インターネット上の噂が気になっているからだ。斎藤タケルがppになった——。ppは感染する——。院内感染——。ppなんかになったら、もう終わりだ。隔離されて、死ぬのを待つだけ。さっさと今日の仕事を終えて、身の丈に合った優しい男と舌を絡め合う幸せに浸りたい。
 斎藤タケルは口には出さずに、なるほどと呟いた。なるほど俺は撮影中、いま噂のppになって気を失い、この病院にいるという訳か。夢にしては良く出来た話だ。
「たっ、てっ、ちっ、つっ、てっ、とっ、たっ、とっ、ワレワレワ」
 刑事然とした二人組の男が部屋に入って来て、看護師を守るように前に出た。斎藤タケルの視線は、斎藤タケルの意思とは関係なしに、その男たちを往復した。唇が勝手に動いて、でたらめなことを話し始める。
「ワレワレワ、ウチュウジンダ。キミタチノ、ダイヒョウシャと話がしたい」
「代表者?」年嵩の男が、口の端で笑った。「警視総監にでも会いたいって言うのか」
「コンタクトしたいのはケイシソウカン デハ ナイ。コノ星のギョウセイの、トップだ」
 斎藤の口がそう言って、その目が若い方の男を見た。若い男は斎藤が想像したとおり、私服警察官だった。年嵩の男はその部下で、それぞれが別の組織から買収されていた。斎藤タケルを監視し、異変があれば報告する。ただそれだけの仕事で、かなりの金銭を得ていた。報告先はそれぞれの依頼者で、一対一の関係であったが、情報が伝達される先は巨大な国歌権力に繋がっていることに、二人共が薄々気付いていた。彼らを買収していたのは、二つの大国だった。ppに関する情報の収集と分析は、主要国の最優先課題になっていたのだ。
 斎藤タケルの目は、三人をじっと観察していた。その間、彼らの記憶のすべてが、自分の脳内にコピーされているように感じた。もし近い将来に、買収された警視庁捜査一課の刑事役をやることがあれば、警察監修なしでもリアルに演じられる気がした。彼らの現実をすべて理解出来た。三人にはそれぞれの苦悩があった。看護師が性の悦楽に溺れるのにも、刑事たちが不正を働くのにも、納得できる理由があった。
 夢の中にいる自分が、起きているとき以上に覚醒している——。
 時間が止まったように静止した世界の中で、斎藤タケルの体はベッドから立ち上がり、何かを探している。斎藤タケルの頭は、自分の体が何をしようとしているか理解し始めている。
 そうだ。スマートフォンかノートパソコンを探せば良い。斎藤タケルのスマートフォンは没収されているらしく、手元にはない。看護師のスマートフォンは、休憩室のロッカーの中に仕舞われている。刑事二人は持っているが、最低限の機能しか使っておらず、いずれの物も型が旧い。
 まあ、いい。
 斎藤タケルが考えたのと同じように斎藤タケルの体は動き、ベッドの上に倒れ込んだ。
 まずは体力を回復しなければならない。その後、情報を収集し、この星の代表者とのコンタクト方法を見付ければ良い。
「上海、パリ、ニューヨーク、東京、全部俺様が手に入れてやる」
 斎藤タケルの口はそう呟き、その体は白いシーツを被った。
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