第22話 エピローグ
文字数 2,479文字
「ご主人さま、お夜食をお持ちいたしました。あまりご無理をなさってはいけません。お身体に障ります。ウイスキーをどうしても、とおっしゃるからお持ちしましたけれど、最初にお食事を召し上がらないのであれば、ウイスキーを差し上げることはできませんわ」
「ローズさん、ローズさん?」
介護士のケイティは、突然すらすらと話し始めたローズに驚き、スープのスプーンを持ったままローズの顔を覗き込んだ。
隣のベッドにいる老女がクスクスと笑いながらケイティに言った。
「ローズのことなら放っておきなよ。現実の世界に戻す必要なんてない。見てごらんよ、とても幸せそうな顔をしているじゃないか」
「先程まではしっかり返事をしていらしたのに。また食事が最後まで終わらなかったのは残念だわ。今日こそは、と思って少し急いで差し上げてみたのですけど」
ケイティはため息をついた。
ローズはいったんこの状態になると、仕事中だからと言って決して何も食べようとしないのだった。普段は大人しく世話がしやすいローズだが、「仕事」をしていると思い込んでいる時だけは別人のように頑なで扱いづらかった。
ケイティはスープの残ったお椀を恨めしそうに小さなテーブルに置くと、所在なく目線をテレビの画面のニュースキャスターにうつした。
「先月、アマチュアダイバーたちが偶然海底に眠るこの鉄の塊を見つけました。ニューサウスウエールズ州政府が調べたところ、これは第二次世界大戦中、日本軍がシドニー湾を攻撃する際に用いた小型潜水艇であることが判明しました。
1942年5月末、日本軍兵6名が2人乗りの潜水艇3隻を使って、軍港を攻撃するためシドニー湾内に侵入しました。
攻撃は失敗、潜水艇2隻は自爆しました。
オーストラリア海軍は最後の1隻を捜索し続けましたがとうとう発見することは出来ず、現代までその行方はミステリーとして語り続けられてきたのです。
でも今回のこの発見によって、オーストラリア海軍の攻撃を受けたあとクッタバル号を攻撃したこの潜水艇は、シドニー湾から北へ20キロの地点まで逃げそこで力尽きたのだという事実が明らかになりました。
乗員2名の日本兵は、今でもこの潜水艦の中で眠っていると推測されています。
皆さんがご存知のようにいまや日本はオーストラリアにとって大事な貿易相手国の一つです。また国民の間では近年日本ブームが拡がっており、観光として訪れたいナンバーワンの国になっています。でも日本とオーストラリアの間には、過去にはこのような悲しい歴史もあったのです」
ローズが突然雷にでも打たれたように飛び上がった。
「ご主人さま、日本軍の潜水艇がやっと見つかりましたよ。ずっとお探しになっていた最後の1隻が見つかったってテレビで言っています。ああ、よかったですねぇ。これでとうとう全部見つかりましたねぇ」
「ローズさん?」
ケイティはなにごとかと慌ててローズの顔を覗き込んだが、奇妙な光に満ちているローズの目を見て驚き身体を引いた。
「大丈夫ですか?」
ケイティはローズの腕をそっと触ったが、ローズはその手を激しく振り払った。
「ご主人さま、これでシドニー市民はもう文句を言いませんわ。どうかドイツに行かないで下さいまし。まだ戦争は終わりそうもありません。どうかシドニーにいて下さいまし」
ローズの頬には涙がぽろぽろと流れ始めた。
「人々は誤解しているのです。ご主人さまはこれからもシドニーにはなくてはならない人ですわ。それを人々は理解していないのです。どうか、どうか行かないでくださいまし」
ローズはブランケットをきつく握り締めた。
「ローズさん、ローズさん?」
ケイティは大声で何度か呼びかけてみたが、まるで聞こえていないようだった。
「放っておきなさいな。彼女はいま大事な人と話をしているんだよ。人は誰でも、過去に言いたくても言えなかった未練を抱えて生きているものさ」
隣の老女はいかにもこんなことは慣れているのだ、というような口調で言った。
「でもローズさんは日本軍の潜水艇のことをご存じのようでしたわ。テレビを見ていて急に興奮し始めたのですもの」
「私たちの年代ならば、誰でも日本軍がシドニー湾を攻撃したことは知っているよ。別にローズだけじゃない」
「そうなんですか」
「もしかしたらテレビを見ていて何か昔の大事なことを思い出したのかもね。でもそれならばなおさら邪魔してはいけないよ。気が済むまで話をさせてあげなよ」
ケイティはローズの様子に茫然としていた。
「ご主人さま、お別れするのは嫌です。あなたは私が一生でただ一人だけ愛したお方。そのように想ってはいけないと分かっていても私の胸は引き裂かれそうです」
ローズは細い肩を震わせた。
「えぇ、矛盾していますわね。もしご主人さまがシドニーにずっといらっしゃったとしてもお別れの日は遠くなかったのですもの。私自身が決めたことですわ。お腹が大きくなる前にお屋敷を去ろうと決めたのは私ですから言っても仕方がないことですのに」
ローズは大声をあげて泣き始めた。
「ご主人さまどうかお達者で。私にはこの子がいますから大丈夫です。私、頑張っていい母親になりますわ」
「ローズさんにはお子さんがいらっしゃったのですね」
ケイティはローズを痛ましそうに見た。
「ああいたね。もっとも2年前に病気で亡くなったらしいよ。どこかの大きな会社の役員になる程しっかりした賢い女性だったらしい。よく自慢していた。でもこうやって聞いていると、簡単な子育てではなかったようだね。まぁ簡単な子育てなんてものは存在しないけど、彼女も相当苦労をしたんだろう。放っておいてあげなよ。いまは彼女の気が済むまで話をしたい相手と話をさせてあげればいい。それは一生懸命生きて年老いた者だけがもらえる神様からのご褒美さ」
「ご主人さま、どうか私にも禁断の実を授けて下さいまし。私も実を食べて、早くあなた達のいるところへ逝きたい」
ローズはそう言いながら泣き続けていたが、その恍惚とした表情はケイティには決して不幸な人のそれには見えなかった。
「ローズさん、ローズさん?」
介護士のケイティは、突然すらすらと話し始めたローズに驚き、スープのスプーンを持ったままローズの顔を覗き込んだ。
隣のベッドにいる老女がクスクスと笑いながらケイティに言った。
「ローズのことなら放っておきなよ。現実の世界に戻す必要なんてない。見てごらんよ、とても幸せそうな顔をしているじゃないか」
「先程まではしっかり返事をしていらしたのに。また食事が最後まで終わらなかったのは残念だわ。今日こそは、と思って少し急いで差し上げてみたのですけど」
ケイティはため息をついた。
ローズはいったんこの状態になると、仕事中だからと言って決して何も食べようとしないのだった。普段は大人しく世話がしやすいローズだが、「仕事」をしていると思い込んでいる時だけは別人のように頑なで扱いづらかった。
ケイティはスープの残ったお椀を恨めしそうに小さなテーブルに置くと、所在なく目線をテレビの画面のニュースキャスターにうつした。
「先月、アマチュアダイバーたちが偶然海底に眠るこの鉄の塊を見つけました。ニューサウスウエールズ州政府が調べたところ、これは第二次世界大戦中、日本軍がシドニー湾を攻撃する際に用いた小型潜水艇であることが判明しました。
1942年5月末、日本軍兵6名が2人乗りの潜水艇3隻を使って、軍港を攻撃するためシドニー湾内に侵入しました。
攻撃は失敗、潜水艇2隻は自爆しました。
オーストラリア海軍は最後の1隻を捜索し続けましたがとうとう発見することは出来ず、現代までその行方はミステリーとして語り続けられてきたのです。
でも今回のこの発見によって、オーストラリア海軍の攻撃を受けたあとクッタバル号を攻撃したこの潜水艇は、シドニー湾から北へ20キロの地点まで逃げそこで力尽きたのだという事実が明らかになりました。
乗員2名の日本兵は、今でもこの潜水艦の中で眠っていると推測されています。
皆さんがご存知のようにいまや日本はオーストラリアにとって大事な貿易相手国の一つです。また国民の間では近年日本ブームが拡がっており、観光として訪れたいナンバーワンの国になっています。でも日本とオーストラリアの間には、過去にはこのような悲しい歴史もあったのです」
ローズが突然雷にでも打たれたように飛び上がった。
「ご主人さま、日本軍の潜水艇がやっと見つかりましたよ。ずっとお探しになっていた最後の1隻が見つかったってテレビで言っています。ああ、よかったですねぇ。これでとうとう全部見つかりましたねぇ」
「ローズさん?」
ケイティはなにごとかと慌ててローズの顔を覗き込んだが、奇妙な光に満ちているローズの目を見て驚き身体を引いた。
「大丈夫ですか?」
ケイティはローズの腕をそっと触ったが、ローズはその手を激しく振り払った。
「ご主人さま、これでシドニー市民はもう文句を言いませんわ。どうかドイツに行かないで下さいまし。まだ戦争は終わりそうもありません。どうかシドニーにいて下さいまし」
ローズの頬には涙がぽろぽろと流れ始めた。
「人々は誤解しているのです。ご主人さまはこれからもシドニーにはなくてはならない人ですわ。それを人々は理解していないのです。どうか、どうか行かないでくださいまし」
ローズはブランケットをきつく握り締めた。
「ローズさん、ローズさん?」
ケイティは大声で何度か呼びかけてみたが、まるで聞こえていないようだった。
「放っておきなさいな。彼女はいま大事な人と話をしているんだよ。人は誰でも、過去に言いたくても言えなかった未練を抱えて生きているものさ」
隣の老女はいかにもこんなことは慣れているのだ、というような口調で言った。
「でもローズさんは日本軍の潜水艇のことをご存じのようでしたわ。テレビを見ていて急に興奮し始めたのですもの」
「私たちの年代ならば、誰でも日本軍がシドニー湾を攻撃したことは知っているよ。別にローズだけじゃない」
「そうなんですか」
「もしかしたらテレビを見ていて何か昔の大事なことを思い出したのかもね。でもそれならばなおさら邪魔してはいけないよ。気が済むまで話をさせてあげなよ」
ケイティはローズの様子に茫然としていた。
「ご主人さま、お別れするのは嫌です。あなたは私が一生でただ一人だけ愛したお方。そのように想ってはいけないと分かっていても私の胸は引き裂かれそうです」
ローズは細い肩を震わせた。
「えぇ、矛盾していますわね。もしご主人さまがシドニーにずっといらっしゃったとしてもお別れの日は遠くなかったのですもの。私自身が決めたことですわ。お腹が大きくなる前にお屋敷を去ろうと決めたのは私ですから言っても仕方がないことですのに」
ローズは大声をあげて泣き始めた。
「ご主人さまどうかお達者で。私にはこの子がいますから大丈夫です。私、頑張っていい母親になりますわ」
「ローズさんにはお子さんがいらっしゃったのですね」
ケイティはローズを痛ましそうに見た。
「ああいたね。もっとも2年前に病気で亡くなったらしいよ。どこかの大きな会社の役員になる程しっかりした賢い女性だったらしい。よく自慢していた。でもこうやって聞いていると、簡単な子育てではなかったようだね。まぁ簡単な子育てなんてものは存在しないけど、彼女も相当苦労をしたんだろう。放っておいてあげなよ。いまは彼女の気が済むまで話をしたい相手と話をさせてあげればいい。それは一生懸命生きて年老いた者だけがもらえる神様からのご褒美さ」
「ご主人さま、どうか私にも禁断の実を授けて下さいまし。私も実を食べて、早くあなた達のいるところへ逝きたい」
ローズはそう言いながら泣き続けていたが、その恍惚とした表情はケイティには決して不幸な人のそれには見えなかった。