第21話 

文字数 727文字

 ご主人さまとのお別れの日が来ました。
 それは実にあっさりしたものでした。仕方のないことです。
 使用人との別れに特別な何かがあるはずもなく、かすかに期待していた私の方が愚かだったのでしょう。

「皆、世話になったね」
 ご主人さまは使用人全員にそうお言葉をおかけになると、一度も振り返ることもなく屋敷をあとにされました。
 私は自分とご主人さまとの距離が近くなったと思い込んでいましたが、それは気のせいだったようです。きっとご主人さまは私という人間に興味を抱かれたわけではなく、たまたま私がそこにいただけだったのでしょう。

 もっとも私はそれでも構いません。
 もちろん悲しい気持ちはありますが、ご主人さまとの身分や立場の差を考えればこれが当たり前です。でも私にとってご主人さまと過ごした時間はかけがえのないものであったことは事実です。

 ご主人さまとの思い出は以上です。
 ただ私は後日のことを少し述べなくてはなりません。
 ご主人さまはドイツに渡られたあと、一年もたたずに心臓病で亡くなられました。

 日本兵たちの食べた禁断の実。
 禁断の実を食べた者は、事の理を知って知を得るがその代わりその者には死がもたらされる。
 大局を知るがために我が身を犠牲にした日本兵たちのことをそのようにご主人さまはおっしゃっていましたが、それを理解することができたご主人さまもまた、禁断の実を食べたお方だったのかもしれません。

 オーストラリア人はとうとう今日に至るまでご主人さまのお心を理解することはありませんでした。
 私のお仕えしたサー・ジェラルド・ミュアヘッド・グールドは、評判のすこぶる悪かったシドニー湾防衛最高司令官として、現在に至るまで歴史の一ページにその名前を残しています。
  
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