第19話 

文字数 1,418文字

 ご主人さまの悪評は、ご主人さまがイギリス人であることと無関係ではないかもしれません。 
 オーストラリア人の中にはイギリス人やアメリカ人に対してコンプレックスを持っている人がいます。独立国家であるはずのオーストラリアが、いつまでもイギリスの属国のような位置にいるために余計にそのように感じるのかもしれません。
 でもそれならば独立すればいいではないか、と思われるかもしれません。
 でもこの国の人々はそれも好みません。きっとオーストラリア人は一般的に変化が嫌いなのでしょう。

 エリザベス様はシドニーで最新のドレスや帽子が手に入らないとたびたび愚痴をこぼされていました。ファン・ケッセル夫人もシャック伯爵夫人も同じようなことをおっしゃっているのを聞いたことがありますから、この国で流行のものが手に入りにくいということは本当なのでしょう。私には縁のない世界なのでよく分かりませんが、そもそもこの国は田舎なのです。仕方がありません。
 でもある日私はふと思いました。
 どうしてドレスや帽子は最新のスタイルの方がいいのでしょうか。
 この国で新しいデザインが手に入りにくいのは、この国の人々が欲しがらないからなのです。私たちは新しいものに貪欲ではありません。

 この国の人々は既にあるもの、以前から持っているものをとても大事にします。だからそれを失いそうな時は激しく抵抗します。その原因を追究して非難します。
  世界のどこからも遠いオーストラリアという国。
 海に囲まれた街、シドニー。美しい海は市民の誇りです。だからこそシドニー湾は決して誰からも襲われてはいけない宝物だったのです。
 長引く戦争のストレスもあって、ご主人さまはシドニー市民の不満のいいはけ口となってしまっていたのでしょう。

 この数年間、エリザベス様は表面上何食わぬ顔で社交界に出入りしておられましたが、ますますお飲みになるお酒の量が増えました。おそらく奥さまも周囲の空気にストレスに感じておられたのでしょう。
 私などが感想をもつのがおこがましいのは承知の上ですが、ドイツへの転任の話を聞いた時、ご主人さまのためにもエリザベス様のためにもシドニーを離れるのはいいことだと思ったのでございます。

 もっとも、私自身の心の中は全く別です。
 ご主人さまがオーストラリアを離れてしまう、もう二度とお会いすることは出来ないのだ、そう考えるだけで私の胸は張り裂けそうになっていました。
 日本軍の攻撃があった翌日の夜、ご主人さまはエリザベス様に内緒でウイスキーを持ってくるように私に頼まれましたが、その後同じことが幾度もありました。

「ローズ、エリザベスがベッドルームへ引き取ったらウイスキーを書斎に持って来てくれるかい」
 ご主人さまの体調が気にかかりつつも、そうおっしゃられるのを私は次第に心待ちにするようになりました。ウイスキーをお持ちすると、ご主人さまはいつもいろいろなお話を私にして下さいました。もしかするとご主人さまもお寂しかったのでしょうか。そうでなければ私などを話し相手にする理由はありません。

 私にとってこの2年間は、人生でもっとも楽しかった時間でした。
 学校を卒業して以来ずっと母親の酒代と自分の生活のために働き続けた私にとって、男性はいつでも上司や雇用主であり、恐ろしい存在でしかありませんでした。
 ご主人さまは私にとって、そのお人柄に触れることの出来る初めての男性でもあったのです。

  
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