第6話 

文字数 1,848文字

 そのような不穏な空気の中で、シドニー湾防衛最高司令官を務められていたのが私のご主人さまのサー・ジェラルド・ミュアヘッド・グールドでした。
 当時シドニー市民たちがもっとも頼りにしていたお方といってよかったでしょう。
 私をはじめお屋敷で働く下男にいたるまでが自分の仕事を誇らしく思えるほど、ご主人さまは人々の期待を背負っておられました。
  
 ある日のことです。
 その日は日曜日でしたからお仕事はお休みなのだと思っていましたが、ご主人さまは午前中奥さまとアリス様と教会に行かれてご帰宅してからずっと書斎にいらっしゃいました。
 ご主人さまはとても紅茶がお好きでしたから、私はお好みの濃く淹れた紅茶をお持ちすることにしました。

 書斎の中央には、ご主人さまがイギリスからわざわざお持ちになられた豪奢なアンティークの文机があります。
 私は文机の端の方、書き物をされているご主人様の邪魔にならず、なおかつご主人さまがあまり手を伸ばさなくても届く場所にお茶を置きました。
 背後には大きな開き戸の窓があり、暖かな日差しがご主人さまの大きな背中へ降り注いでいました。

「冬だというのに暖かい」
 ご主人さまは手を止めずにそうおっしゃいました。室内には他にも誰もおりませんので、私に向かってのお言葉なのでしょう。
「シドニーは日差しが強いですから」
 ご主人さまがご在宅ではないときには、直射日光が家具に当たらないようにいつもは閉じてあるカーテンもいまは大きく開け放たれています。
「全く冬なのか夏なのかよく分からない気候だ。人々がオーストラリアには一日に四季があるという意味がよく分かる」
 私はご主人さまの言葉に少し微笑みました。

 全くオーストラリアの気候はいつも少し極端です。
 南半球のこの国では毎年3月頃まで真夏のような日が続き、海にでも飛び込まなければその暑さがしのげないほどなのに、4月になると気温は一気に下がり、5月になるともう真冬の気温になります。
 初冬でこれほど寒いのであれば今年の冬は一体どれだけ寒くなるだろうと心配しますが、真冬になってもそれ以上寒くなる日は滅多にありません。しかもその寒さも朝夜だけのことで、シドニーの日中の日差しは強く、昼間はいつも春のようです。

 私はご主人さまが濃紺のセーターをお召しになっているのでお背中が暖かくなりすぎてはいらっしゃらないだろうかと気になりました。
「暑くありませんか。カーテンをお閉めしましょうか」
「お願いするよ」
 ご主人さまは初めてカーテンの存在に気付いたかのような、少しはにかんだ笑顔をお見せになりました。私はそっと薄いレースのカーテンを閉めました。

「君のお父上はどこで亡くなられた?」
 突然の質問に私は驚きました。なぜ私の父親が戦死したことをご存じなのでしょう。
「メイド長に昇格する前に、悪いが君の身元は調べさせてもらったよ」
 私は戸惑いを隠すことが出来ませんでした。
 もちろん私は父のことを恥じている訳ではありません。
 私はうつむいてしまいそうになるのをこらえ、小さい声で答えました。
「ガリポリです」

 母は私が22歳の時に亡くなりました。
 私の収入が増えるに従い母はもっと酒を飲むようになったのですから、身体が急速に蝕まれていったのも仕方のないことだったのでしょう。
 私は表情には出しませんでしたが、ご主人様の言葉を聞いてすっかり落胆していました。
 少し調べれば母のことなどすぐ露わになってしまうのだと思ったのです。
 母は死してなお私の一部なのでした。

 私には母を見捨てる気持ちはありませんでしたから、母の面倒を最期までみたことに後悔はありません。でも私は、周囲の人々が娘の私もいつか母のようになるにちがいないと思っていることに気づいたのです。そのことには心底がっかりしました。
 
 ご主人さまは解雇を言い渡すおつもりなのだろう、そう思いました。
 私はご主人さまの次の言葉を待ちました。
 その沈黙をおかしいとお思いになったのでしょうか。ご主人さまが私をご覧になられました。
「気にしなくていい。誰にでも隠しておきたいことの一つや二つはあるものだ」
 私はご主人さまが解雇を言い渡すおつもりではないことに気づき、感謝の念から思わず涙をこぼしそうになりました。

「お茶をありがとう。もう行っていい」
 思い上がりかもしれませんが、ご主人さまの声は心なしかさきほどよりもずっと温かさにあふれている気がしました。
「失礼いたします」
 私は小さな声でそう言ってから書斎を出ました。
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