第5話 

文字数 1,923文字

 1939年9月、ドイツのアドルフ・ヒットラーがポーランドを侵略し、イギリスとフランスがそれを阻止しようとしました。
 第二次世界大戦の勃発でした。

 オーストラリアは1901年にイギリスから独立して一つの国家となったとはいえ、君主はイギリス国王のジョージ六世ですから、イギリスが参戦すればオーストラリアも参戦しなくてはなりません。大戦勃発の2日後、ロバート・メンジス・オーストラリア首相は、我が国も大戦に参加すると国民に向けて発表しました。

 オーストラリアが参戦することは避けがたいと思ってはいましたが、胸が痛みました。
 多くの兵士が戦争へ向かえば、また私のような父を亡くす子どもが増えるのです。
 少しでも早く戦争が終結しますようにと私は毎日お祈りしました。
 でもその願いとは裏腹に、事態はますます悪化していったのです。

 1941年12月、日本軍がアメリカ軍基地真珠湾を奇襲攻撃しました。
 日本という小さな島国が、アメリカを始めとする連合国を敵にまわしたのです。
 この日本参戦をきっかけにオーストラリアには不穏な空気が漂うようになりました。
 日本は小さな国ですから、アメリカやオーストラリアとはその国力に大人と子どもほどにも差があるように見えます。実際、日本の参戦を嘲笑(あざわら)うオーストラリア人も多くいました。でも恐怖を感じた人々も少なからずいたのです。

 その一番の理由は、日本が第二次世界大戦より以前、大国ロシアと戦争をして勝利を収めていたことです。
 現代では差別と言われ繊細な問題として扱われるようになりましたが、私が子どもの頃は、白人はアジア人よりも優れているのだと教わったものです。そのアジア人の国の一つの日本が、白人の国ロシアと戦い勝利したというニュースに私たちは大変驚かされました。

 日本という国は他のアジアの国とは少し違う。
 日露戦争をきっかけに日本に対する印象をそのように改めた人々も多くいましたから、日本の大戦参戦に恐怖を感じた人がいたのも当然と言えば当然のことだったのでしょう。

 人々の不安のもう一つの理由は、オーストラリアの地形的な問題です。
 この国はヨーロッパを始め世界のどこの国からも遠く離れていますから、どこからも侵略された歴史を持ちません。
 でも日本からオーストラリアは遠くない、という事実に人々はこの時初めて気付いたのでした。

 戦争に参加することを呼びかける宣伝をあちこちで耳にするようになりました。
 — 銃を持って戦え!自分の国を滅ぼしたくないのであれば!
 市民に戦争参加を呼び掛けるプロバガンダのポスターがシドニー中に貼られました。

 ポスターはどれも恐ろしいものでしたが、なかでもこのカラーポスターを街頭で見かけたとき私は震え上がりました。
 ポスター下部にはオーストラリア、上部には日本の国旗を背に一人の日本兵が描かれており、中央に大きな文字でこう書かれています。

 — 敵は南から現れる!

 その言葉を証明するように、銃を持った日本兵はいまにもオーストラリアを踏みつけようとしています。私が何よりも恐ろしいと思ったのは、ポスターの日本兵のその冷たい無表情な顔でした。
 日本人というのは、皆あのように感情のない顔をしているのでしょうか。
 確かにアジア人の顔は白人に比べ目鼻が小さく凹凸が少ないですから、何を考えているのかは分かりにくいものです。
 それは近所の中華料理店経営者のワンさんを見ても分かります。いつ見ても彼は怒っているのか嬉しいのか分からない顔で中華鍋を握っています。
 もしかするとアジア人には感情が少ないのでしょうか。もし本当にそうならばそれは恐ろしいことです。感情がなければどれほどにも残酷なことができるということにもなるのではないでしょうか。
 そのポスターを見かけると、私はいつも目を逸らして足早に通り過ぎました。
 そして夜になると戦争が早く終わりますようにと祈りました。

 でもその数か月後、残念ながら人々の不安は現実のものとなってしまいました。
 真珠湾攻撃からわずか2か月後の1942年2月19日、240機余りの日本軍飛行機がオーストラリアの最北部ダーウィンの街を攻撃しました。
 250名以上もの一般人がその空襲で亡くなったのです。
 この事件は日本軍が海を簡単に越えてやって来れることと、そうなれば一般人がたくさん犠牲になるということをあっという間に証明してしまったのでした。

 あれ以来、私たちシドニーの住民は毎日怯えて暮らしています。
 オーストラリアは大きな国ですが、内陸がほとんど砂漠のため人々は海岸沿いで生活しています。それはつまり、私たちはいつも危険にさらされている、ということでもあったのです。


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