第20話 

文字数 1,564文字

 あの夜のことも私は忘れることができません。

 海軍葬を行ったことが市民の反感をあまりにもかってしまったため、ご主人さまはオーストラリア政府と話し合い、国営ラジオ放送でオーストラリア全国民に向けて海軍葬を行った理由を説明することになりました。
 最高司令官たるものが弁解じみた放送をしなくてはならないとは、とエリザベス様は随分と憤慨しておられましたが、当のご主人さまは飄々(ひょうひょう)としていらっしゃいました。
 私はご夫婦の様子を見ていて何やら嫌な予感にかられたものでしたが、あいにくそれは現実となりました。

「私が海軍葬を行うことにしたのは、日本兵たちの勇気に対して正当な敬意を払うべきだと思ったからである。日本兵の勇気は、日本人だけが持ち得るものではない。その勇気も愛国心も誰しもが持つことの出来るものだ。だが、だからと言って誰しもが簡単に持てるものではない。
 彼らの稀有(けう)な勇気を認識し賛美することは、敵兵に対して我々が見せるべき礼儀である。そもそも彼らの千分の一の犠牲を払うことの出来る者が、一体我々の中に何人いるというのだろう」
 
 そのご主人さまの演説は、オーストラリア国民を納得させるどころかますます怒らせる結果になりました。自分の仕事もまともに出来なかったイギリス海軍司令官がオーストラリア海軍の勇気を馬鹿にするとは、と世間は大変な騒ぎになったのです。
 ラジオを聞いていた私も驚きましたし、お屋敷内の使用人の間でも蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。

 エリザベス様のお怒りも大変なものでした。
 それ以来、ご夫婦の溝は更に深くなったように見えます。
 ご主人さまはご自宅にいても書斎で過ごされる時間が多くなり、寝室にはエリザベス様が寝静まった時間にしかおいでにならないようになりました。
 
 ある夜のことです。ご主人さまがウイスキーを飲みながら演説の本当の理由を私に聞かせてくださったのです。何ともったいないことでしょうか。
 ご主人さまは、私の演説の意図は国民が理解したものとは全く違うのだが彼らに理解できないのも無理はない、とやや自嘲気味におっしゃいました。

 演説は日本軍に向けたものだったのだそうです。
 実はこの頃日本には、シンガポールやラバウルで捕虜になったオーストラリア人が2万人もいました。彼ら捕虜たちは、日本軍から碌な食事も与えられることなく強制労働につかされ、やせ衰えて次々と死んでいました。
それは当時一般市民にはあまり知られていないことだったのですが、ご主人さまはもちろんご存知でしたし大変胸を痛めておいでになりました。
捕虜のことがオーストラリアで知れ渡るのは戦後のことです。それがために長くに渡りオーストラリア人は日本人を嫌うことになるのですが、この頃市民は事実を知りませんでした。
 
 日本側へ捕虜の扱いを改善してもらうため、まずは自分から敵兵に対して敬意を払いたかったのだ、とご主人さまはおっしゃいました。日本兵の海軍葬といいその後の対応といい、ご主人さまの態度は一貫してそのためだったのです。そう考えると私のような者にすら納得できる部分がありました。

 海軍葬のあと、シドニー湾攻撃の日本兵4名の遺灰は日本の家族へ返還するため民間人拘留者の交換船カンタベリー号に乗せられてメルボルンを出航、日本へと送られました。
 その丁重な扱いがまたしてもオーストラリア国民の気持ちを逆なでしました。
 ご主人さまの深いお心が最後までオーストラリア国民に伝わることがなかったのは残念だと言わざるを得ません。

 結果的にご主人さまのお気持ちも苦労も報われることはありませんでした。
 多くのオーストラリア人捕虜兵が衰弱か飢餓によって日本で亡くなりました。
 いまでも戦争記念館にはやせ衰えたオーストラリア捕虜たちの写真が多く展示されています。
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