第3話
文字数 1,952文字
申し遅れましたが、私はローズ・ジョンソンと申します。
オーストラリア・シドニーの生まれ育ちです。
この国にはイギリスからの移民を先祖としている人がたくさんいますが、移民の大半は罪人たちでした。
それはこの国がかつてイギリスの罪人流刑地だったからです。
きっと私の祖先も何らかの罪を犯した人だったに違いありません。
もっとも170年以上の前の話ですから、自分の祖先について私は何も知りません。
そもそも私は祖先どころか父親の顔もろくに知らないで育ったのです。
私の父は、第一次世界大戦の開戦時にオーストラリアン・インペリアル・フォース(AIF)、つまりオーストラリア陸軍に入隊した、と聞いています。
イギリス軍はオスマン帝国の首都イスタンブールを占領するために多くの部隊を送り、父の所属部隊もまたガリポリ島へ向かったのだそうです。
ガリポリ島での戦いは熾烈をきわめ、1年弱の戦闘で20万人以上の味方が死亡しました。
そして父もまた、そのなかの一人となってしまったのでした。
私はその頃まだ母のお腹の中にいました。
母は父の出征後に自分が妊娠していることを知ったそうですから、父は私の存在を最期まで知らなかったかもしれません。
私の手元には軍服姿の父の写真が1枚だけ残っています。
でも私がその写真を見たのは、母が亡くなった後です。
母の遺品を片付けていた時、私は母のタンスの引き出しの中から見知らぬ軍服姿の男性の写真を見つけました。慌てて裏返すとそれは思った通り、デービット・ジョンソンと書かれていました。つまりそれが私の父なのでした。
大変驚きました。なぜなら写真の男性は、私が幼い頃から何度も想像していた父とはあまりにも違っていたからです。
私は子どもの頃から寂しくなるたび、優しい父が自分に微笑む姿を空想し続けました。
あまりにも何度もそれを繰り返したためでしょうか、私の中にはいつしか確固とした父親像が出来上がってしまっていたのです。
その後も私はとうとう空想の父の姿を写真の父に入れ替えることができませんでした。
写真の中で硬い表情を見せる男性は、父というには若すぎるだけでなく、あまりにも小柄で痩せてしかも気弱そうでした。
それにしても母はどうしてもっと早くその写真を私に見せてくれなかったのでしょうか。
そうすれば私は空想の父親像など作り上げることはなかったでしょうに。
なんども恨めしく思ったものです。でも本当はわかっているのです。
母は父の写真のことなどきっと忘れていたにちがいありません。
残念ながら母はそういうところのある人でした。
私は2歳の時から養護施設で育ちました。
母は体が弱くて自分一人で子どもを育てることが出来ない、という理由で私を施設に預けました。施設は子どもたちを義務教育の終わる14歳まで預かってくれます。私も施設で12年間を過ごしました。
学校を卒業した私は、一度も訪ねてくることのなかった母親のもとへ帰りました。
戦争で不幸になった母娘がもう一度一緒に住むことが出来る。病弱な母と娘の涙の再会となるはずでした。
これからは私が一生懸命働いて母を楽にさせてあげるのだ、と私は勢い込んで帰宅したのですが、ドアを開けた母の赤ら顔を見て私は一瞬で自分の勘違いを悟りました。
母は帰宅した私を見て喜びましたが、それは娘との再会を喜んだのではありませんでした。
すぐ働き口を探しに行きなさい、ここには食べるものも何もない、とそう言いました。
おりしも運悪く世界恐慌で世の中は不景気です。
シドニーも例外ではなく、町には失業者が溢れかえっていました。
私のような手に職もない小娘が働ける場所などほとんどありません。およそ私はその日から身体を売ること以外は何でもしたと言っていいでしょう。
それなのに母親は、私が苦労して持ち帰った稼ぎをすぐお酒に変えてしまいます。
夜中にトイレに起きると、必ずといってもいいほど母親の汚物の饐えた匂いがしました。
私はその匂いを嗅ぐたびに人間の生というもののむなしさを感じました。
どれだけ一生懸命働いても、その稼ぎは翌日には汚物となるのです。
もっとも母だけにむなしい生を感じていた訳ではありません。
私は自分自身のことも、人間というよりはむしろ生きもののように感じていました。
動けばお腹がすき、食べると食べものがなくなるのでまた働く。
10代の頃の私は毎日の生活に疲れ果てていたのでしょう。
次第に私は再び空想の中で父を求めるようになりました。
その父は、写真の男性ではなく私の想像の父です。
私は、夜ベッドに入ると毎晩父に話しかけたり甘えたりしました。
その頃私が生き延びることができたのは、彼が、想像の父がいてくれたからでした。
オーストラリア・シドニーの生まれ育ちです。
この国にはイギリスからの移民を先祖としている人がたくさんいますが、移民の大半は罪人たちでした。
それはこの国がかつてイギリスの罪人流刑地だったからです。
きっと私の祖先も何らかの罪を犯した人だったに違いありません。
もっとも170年以上の前の話ですから、自分の祖先について私は何も知りません。
そもそも私は祖先どころか父親の顔もろくに知らないで育ったのです。
私の父は、第一次世界大戦の開戦時にオーストラリアン・インペリアル・フォース(AIF)、つまりオーストラリア陸軍に入隊した、と聞いています。
イギリス軍はオスマン帝国の首都イスタンブールを占領するために多くの部隊を送り、父の所属部隊もまたガリポリ島へ向かったのだそうです。
ガリポリ島での戦いは熾烈をきわめ、1年弱の戦闘で20万人以上の味方が死亡しました。
そして父もまた、そのなかの一人となってしまったのでした。
私はその頃まだ母のお腹の中にいました。
母は父の出征後に自分が妊娠していることを知ったそうですから、父は私の存在を最期まで知らなかったかもしれません。
私の手元には軍服姿の父の写真が1枚だけ残っています。
でも私がその写真を見たのは、母が亡くなった後です。
母の遺品を片付けていた時、私は母のタンスの引き出しの中から見知らぬ軍服姿の男性の写真を見つけました。慌てて裏返すとそれは思った通り、デービット・ジョンソンと書かれていました。つまりそれが私の父なのでした。
大変驚きました。なぜなら写真の男性は、私が幼い頃から何度も想像していた父とはあまりにも違っていたからです。
私は子どもの頃から寂しくなるたび、優しい父が自分に微笑む姿を空想し続けました。
あまりにも何度もそれを繰り返したためでしょうか、私の中にはいつしか確固とした父親像が出来上がってしまっていたのです。
その後も私はとうとう空想の父の姿を写真の父に入れ替えることができませんでした。
写真の中で硬い表情を見せる男性は、父というには若すぎるだけでなく、あまりにも小柄で痩せてしかも気弱そうでした。
それにしても母はどうしてもっと早くその写真を私に見せてくれなかったのでしょうか。
そうすれば私は空想の父親像など作り上げることはなかったでしょうに。
なんども恨めしく思ったものです。でも本当はわかっているのです。
母は父の写真のことなどきっと忘れていたにちがいありません。
残念ながら母はそういうところのある人でした。
私は2歳の時から養護施設で育ちました。
母は体が弱くて自分一人で子どもを育てることが出来ない、という理由で私を施設に預けました。施設は子どもたちを義務教育の終わる14歳まで預かってくれます。私も施設で12年間を過ごしました。
学校を卒業した私は、一度も訪ねてくることのなかった母親のもとへ帰りました。
戦争で不幸になった母娘がもう一度一緒に住むことが出来る。病弱な母と娘の涙の再会となるはずでした。
これからは私が一生懸命働いて母を楽にさせてあげるのだ、と私は勢い込んで帰宅したのですが、ドアを開けた母の赤ら顔を見て私は一瞬で自分の勘違いを悟りました。
母は帰宅した私を見て喜びましたが、それは娘との再会を喜んだのではありませんでした。
すぐ働き口を探しに行きなさい、ここには食べるものも何もない、とそう言いました。
おりしも運悪く世界恐慌で世の中は不景気です。
シドニーも例外ではなく、町には失業者が溢れかえっていました。
私のような手に職もない小娘が働ける場所などほとんどありません。およそ私はその日から身体を売ること以外は何でもしたと言っていいでしょう。
それなのに母親は、私が苦労して持ち帰った稼ぎをすぐお酒に変えてしまいます。
夜中にトイレに起きると、必ずといってもいいほど母親の汚物の饐えた匂いがしました。
私はその匂いを嗅ぐたびに人間の生というもののむなしさを感じました。
どれだけ一生懸命働いても、その稼ぎは翌日には汚物となるのです。
もっとも母だけにむなしい生を感じていた訳ではありません。
私は自分自身のことも、人間というよりはむしろ生きもののように感じていました。
動けばお腹がすき、食べると食べものがなくなるのでまた働く。
10代の頃の私は毎日の生活に疲れ果てていたのでしょう。
次第に私は再び空想の中で父を求めるようになりました。
その父は、写真の男性ではなく私の想像の父です。
私は、夜ベッドに入ると毎晩父に話しかけたり甘えたりしました。
その頃私が生き延びることができたのは、彼が、想像の父がいてくれたからでした。