麦星祭 第1部

文字数 6,314文字

 城下に出ると、少しずつ人が集まり始めていた。祭りの会場となる湖畔の方角から、スピーカーを通したベースやドラムの音がした。これから始まる催事の予感に、すでにアルコールを片手にした観光客が高揚し始めているのがわかる。村人は振る舞う軽食や飲み物の準備で慌ただしくしており、子供たちは村の非日常の空気の中、忙しい大人たちに放置されて得た自由もあって、アルコールの入った観光客より高揚してそこらじゅうを駆け回っている。

 太陽が傾き始め、山から涼やかな風が流れ始めた。アレックスはのんびりと会場である湖畔へ向かった。

 会場は湖を背にステージが設けられており、ステージの前には即席の客席として、表面を平面に削り取られた丸太が十本余り横たわっていた。その両サイドには食事や飲み物を提供する
屋台じみた一角があり、テーブルや椅子も用意されている。ステージと屋台の周辺には既に蛍石ランプをランダムに浮かべて、来る夜に備えた光源となっていた。ステージの脇には巨大な焚火櫓も組まれている。

 屋台の準備をする村人たちも、ステージ周辺で接続や音響の最終確認をするソラや村人たちも、既に片手にアルコールや軽食を持ちながら開始の時を待つ観光客も、村の老人も、子供たちも、その瞬間を間近に感じて浮き足立っていた。

 屋台には軽食にちょうど良さそうな美味そうなパイ、酒飲みのための塩分の強そうなつまみ類、肌寒い夜を迎え撃つための温かいスープとパン、腹を空かせた人のための麺料理、プリプリに焼かれた腸詰などが並んでいる。
 地場のワインらしきものを並べている一角の横で、ベリーを漬けたガラスの大瓶が並んでいる。ニナが言っていたマーサおばさんのスパークリングベリーとはこれを指しているのだろうとわかる。地元民ニナの助言の通りアレックスが一杯注文すると、噂のお兄さんだら!?と中年の肌艶の良い女性に興奮気味に聞かれた。噂になっているかを知る由もないアレックスが答えに詰まっていると、呑めるら?といたずらな表情をしてグラスにまず無色透明のアルコールを注ごうとした。任務という意識からしばらくはアルコールは控えるつもりでいたが、正確には今はまだ任務前だ。アレックスはマーサおばさんがジョッキにアルコールを注ぐのを止めなかった。
 サービスしちゃうさ~~、とビブラートを効かせながら嬉しそうに言って次に漬けたベリー、氷を詰めてから炭酸水を注ぎ、仕上げにミントを添えた。「自慢のベリー漬けさ。」と言って手渡してくれる。
 礼を言って代金を支払おうとすると、マーサおばさんは「いやだあ、今日はどこも無料さ。」と笑った。再度礼を言ってから、近くのブースでハムとチーズとキノコのソテーとハーブの載ったオープンサンドを一つもらい、会場となっている広場のステージから見て下手側、森との境目に鎮座している大きな岩に腰をかけた。背後に人が来づらく、全体を見渡せる位置を無意識に選んでしまうのは一種の職業病のようなものだ。観光客の女二人連れに声を掛けられたが、適当にあしらった。

 一部の観光客の集団が既に丸太観客席の最前列を陣取って、呑んだり食べたり、そんな自分たちの姿をカメラに収めたりしている。外界と繋がる公道が先日やっと繋がったっばかりのこんな辺境の村へ、彼らは何をきっかけに来ることになったのだろう。アレックスはこの任務が無ければ一生縁がなかったかもしれない。立派なカメラを首から下げている者も少なくない。これまで一般の人間が簡単に踏み込めなかった未知の世界をそのカメラに納めて、世に発信したいのかもしれない。

 この村は現代技術を拒絶しているが、潔癖なほどに完全にそうしているわけでもなさそうであった。
 ステージ脇に設置されているのは年代物とはいえ巨大なスピーカー。発電機があるのか、代替となる純度の高い蛍石を所有しているのかもしれない。
 ただやはり、外界との通信機能は絶たれている。電波塔がこの村、この山脈一帯には皆無だ。ここにいる街から来た観光客たちは、外部と気軽に連絡が取れない非日常を強いられている筈だった。
 アレックスも然りで、最後に本部に連絡を入れたのは麓の最寄りの集落(といってもバスで17時間以上離れた距離)を出るときだった。丸2日以上、本部と連絡をとっていない。”相手が自分に連絡を取れる手段がない”。そんなことはヴロルトニク学院入学以来なかったことで、任務のはずであるのにアレックスは解放された心境でいる。王都でも、休日には学校関連からは完全に解放されてたとはいえ、彼らはその気になったらいつでもアレックスにアクセスできたし、アレックスもそれは承知した上での生活だった。今、腕に巻かれた端末は、駆動はしているが通信不能の印が刻まれたままである。このまま逃げても軍はすぐに追って来られない、という事実はアレックスを興奮させないわけでもなかった。

 しばらくするとステージ上の裏方隊が一斉に掃け、入れ替わりにステージの下手からヒョコヒョコと、ジョイントロボが現れた。旧型とはいえAIロボットの急な登場に、観客もアレックスも意表を突かれる。観客のざわつきが治まる前にテストの為に灯されていたステージの照明が落とされ、催事の開始を予感させる。
 周囲で談笑していた村人や観光客も、足早に丸太客席や各々に好きな場所を見つけては、ステージに集中し、沈黙した。開始のアナウンスは何ひとつされなかったが、誰もが理解していて咳払い一つの声も発さなかった。

 少し離れた民家のどこからピアノの調べが聴こえたように感じた。これから祭りが始まるというのに?と思っていると、鈴の音と共にステージの下手から、白い木綿のワンピースに包まれた少女たちが一列になって現れた。裸足で、顔には独特のペイントを施している。
 鈴の音は、先頭を歩くニナだけが手にしている錫杖から鳴らされていた。客席が息を呑む。ニナを中心に少女11人が横一列に揃うと、スピーカーから低音が鳴り響く。時々、悲鳴にも似た弦楽器の調べが低音に絡みつく。
 ニナを筆頭に、少女たちは彼女が森で編んでいた花冠を被って俯いている。両端に行くほど、歳が幼くなっているようだ。再端には5歳くらいの幼女が、姉たちと同じ装束で立っている。なぜここにいるのかさえ理解していないようにも見えた。
 一瞬低音が途切れて、再び遠くから誰かのピアノの音が聴こえた。と思ったと同時にニナがその錫杖を一度大きく床に付いて鈴を鳴らした。それを合図に少女たちは顔を上げ、同時に祈りの唄が大地の底から湧き上がった。

 鳥肌。そんなものを自覚したのはいつぶりなのだろう。畏れ。それは初めての感覚かもしれない。アレックスが感情の整理をする間も与えず、コーラスの波があたりを埋め尽くしていく。客席にいる全員が圧倒され、手にしているアルコール、カメラや端末の存在を忘れ、ただステージに見入った。
 ニナのすぐ脇に整列している年長組のひとりの信じ難いほどの力強いコーラスから始まり、それに絡みつくように他の少女たちのソプラノが太い幹に花を散りばめた。いつしか目の前には満開の花を讃えた巨大な樹が聳えている。そしてそれまで錫杖の鈴の音で左右の10人を導いてきたニナが、観客を含めるそこにいる全員に祝福の言の葉を歌に載せて放った。それはまるで、巨木に舞い降りた女神だった。10人と一人の対話が始まる。一人の女神は10人の妖精に決して負けない。いつしか妖精たちの紡ぎ上げた華やかな蔦の上を自由に舞うように女神は唄い、彼女たちの歌声は練習のピアノの音と共に、いつだって一番に夕空に光を讃える麦星の元へ還って行った。

 一曲目が終わっても低音は途絶えなかった。観客が拍手をするのさえ忘れて呆気に取られているいる間に、聖歌隊は観客などお構いなしに次の調べに繋げてていった。唄を捧げる相手は観客ではなく麦星なのだと言いたげだ。

 低音が続いたまま、先ほどの力強い声を持つ年長者の調べから始まった。観客の誰もが、2曲目に入ってもその声圧に未だに信じられないという顔をしている。リズムとサウンドは前曲よりは現代的であったが、歌唱は力強いままで(独特の発声法はこの地方の伝統か?)近未来にいるのか太古にいるのかわからない錯覚に陥りそうだった。演奏隊はおらず、バックのサウンドはプログラミングされたものが、恐らくジョイントロボによってコントロールされてスピーカーから流れている。
 力強い歌を歌い上げるのは年長者の二人だ。そこへ、ニナの伸びやかな透き通っているようでとろみと甘みがついたような、独特の声が絡みつく。そして他のコーラスが複雑に絡んで彩りを複雑にしていく。
 先ほどの曲が1本の巨大な樹であるなら、この曲は深い森の中に迷い込んでしまったかのような錯覚にさせられた。錫杖を持って歌うニナは明らかに麦星の女神だ。声は迷うことなく空へ伸びて響き渡る。
 昼間邂逅していた人物と同一人物には思えない。コーラス隊を従えて、年長者の力強い稀有な歌声にも霞むことなく、明らかに中心はニナだった。上昇していく歌声に導かれて、アレックスは空を見上げる。
 母星もいつしか山脈の影になっており、空は穏やかなグラデーションで複雑な色彩を見せていた。アレックスは降り注ぐような歌声を浴びながら、その空から目を離せなくなっていた。衛星Plimが遠慮がちな大きさで、白く浮かんでいる。そしてPlimに憧れて遠くから見守るかのように、麦星が少し離れたところで光を湛えていた。

「そうか、空って、こんなに綺麗だったん…だな。」

 アレックスの左目から、涙が一粒流れて落ちた。そのあとは、止め処がなかった。
 自分の身に何が起きているのか理解する間もなく、コーラスが止んだ。曲が終わったのだ。
 他の観客たちと同じように、アレックスもしばらく呆然としていたのだと思う。観客も圧倒されたまま、息を呑んでいた。

 ステージ上のニナが隣の少女に錫杖を預け、少し戸惑ったように、そして少しはにかんだ様子でスタンドからマイクを持つと、皆さん、こんばんは。とFiol語で言った。昼間会話した時と同じく、母語としない者の辿々しさが残っている。その瞬間、爆発したかのように客席が沸いた。

 歓声と、割れんばかりの拍手。アレックスも我に返って少し顔を逸らすと、袖で涙と(はな)を拭った。
 ニナは急な歓声に逆に驚いたような表情をして、それでも嬉しそうに笑顔になった。昼間のニナに戻っている。
 アレックスは未だに動揺していた。自分が涙を流したことに。脈拍と血圧の上昇を、手首の端末は記録しているはずだ。
 ステージ上のニナは止まない歓声の中、聖歌隊の仲間とホッとしたように笑顔を交わす。そして再び観客の方へ向き直った。

「えと、今夜は麦星祭へようこそでした。みんなで一生懸命準備したり、練習したり、しました。是非、楽しんでいってください。」

 頬を赤らめながら、練習したであろう硬い台詞をたどたどしく述べる。先ほどの圧倒的な歌声との差に、観客も新鮮な興奮を覚えた様子で再度歓声が沸いた。
 マイクを戻して聖歌隊の列に戻ろうとするニナに、年長者の二人が戻れ戻れとでもいいただけな仕草をする。ニナは慌てたようにマイクに戻り「次は、小舟を湖に流して、今年の収穫を麦星様まで、捧げます。」と、言い忘れた案内を付け足した。観客はすでにニナの虜になっている。今なら何を言っても歓声が起きるだろう。ニナは予想外なのか大きな歓声に全力で照れたようで、聖歌隊の列に足早に逃げ戻ると、豊かな表情で何かを言い交わしながら再び錫杖を受け取った。

 それから聖歌隊は左右に二手に分かれて並んだ。舞台の向こうに今にも闇に消えていきそうな湖が見える。火が灯された松明が2本並んで立てられ、その間に小船が3隻用意されていた。真ん中には山盛りの小麦の穂。左右の舟にはそれぞれ野菜やフルーツ、キノコ、加工肉などが載せられているようだ。先ほど見た屋台の軽食や飲み物の材料となっているものたちだ。

 ステージ上でニナが錫杖を鳴らす合図で、華やかなコーラスが響き渡った。これまでの厳かな雰囲気と打って変わって、実に華やかな始まりだった。そのまま控えめなリズムサウンドが続き、それにコーラスが時折彩りを添えた。主役は3隻の船だ。
 村のガタイの良い男たちが、湖へ向けて舟を押し出す。コーラス隊も歌を続けながらも、時折興味深げに舟の行方を覗き込んでいる。先ほどの圧倒的なパフォーマンスを披露した一団には見えない。普通の少女らしさが素直に表情に表れていた。ある程度まで舟が進んでいくと、聖歌隊は歌いながらも、再びステージ中央に戻った。

 ニナとソプラノの数名が、流れているリズムサウンドに合わせて軽やかなメロディを数節奏でると、ベース音が一音響いたのを合図に、あの力強い年長者が高らかに歌い始める。栗色の短い癖毛にニナの編んだ花冠を冠っている。他の娘たちは皆が長い髪を湛えている中で、その髪型とその力強い歌声は、ある意味では一番目立つ存在だった。ニナとは違い、手には何も持たず自由な動きで、歌いながらステージの中央へ歩み出した。ニナは他の皆と後方から彼女の歌に彩りを添えている。
 独特なドラムのリズムに合わせ、しばらくの彼女のソロが続いた。時折、バックコーラスと絡み合い、またソロで伸びやかに歌ったかと思うと、ニナと対話するようなハーモニーがあり、そこへまた複数のコーラスが入る。気づくと、いつの間にかサウンドもコーラスもどんどん複雑に枝分かれしていっていた。
 歌の言語は理解できるものではなかった。この国の母語であるLicnordia語だろうとは思うが、太古の言葉かもしれなかったし、まだ誰も使ったことのない未来の言語かもしれなかった。
 そのうち、栗毛の主役は手と足を打ち始める。それにつられるように、ステージ上の娘たちが皆、手を打ち、足を踏み鳴らし始めた。コーラスは複雑に枝分かれしているが、手と足が叩くリズムは全員揃っていて、音は次第に大きくコーラスはより多彩に絡まっていった。
 リズムとコーラスが膨張に膨張を重ね、飽和状態になって、そこにいる皆が音に溺れそうになった瞬間、突然全ての音が途切れた。と同時にニナが錫杖を鳴らして舞台右手を指す。観客が釣られて右手を向いた、瞬間に、岸辺に組まれている焚き火櫓から一気に火が立ち上った。

 観客が一斉に湧き上がる。気づけば西の空に僅かな名残を残して、辺りはすっかり暗くなっていた。
 ステージ上のニナがしてやったりと言うような、ほっとしたような表情を見せる。櫓の脇ではソラがニナに向かって親指を立てているのを火のオレンジの光が映し出していた。
 
 観客たちの興奮が続く中、スピーカーは新たなメロディとリズムを奏で出した。今までの曲の中で一番機械的で、現代的な音とリズムで、興奮して立ち上がっている観客たちはそのままその身を音に委ね始めた。再び、ニナを中心に新たなハーモニーが奏でられる。現代的なサウンドに、民族歌唱が不思議と馴染んで独特の世界を生み出していた。夜が訪れて人々は地場の酒と、目の前で繰り広げられる重低音と共に空に消えていくえも言われぬコーラスに完全に酔いしれいていた。
 アレックスが再び空を見上げると、そこには銀河を中心にして無数の星が散りばめられていた。衛星Plimはすでに山の影に姿を消し、麦星も後を追うようにその光を消していた。供物を受け取り、すっかり満足して眠りについたのかもしれなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

アレックス

アレックス・レイバーン(19)。王都軍諜報部隊ヴァンサーの訓練候補生。ヴァンサー創立以来の逸材らしく、潜在能力特S評価。加えてその長身と整った顔立ちでモテまくっている(ソラ談)らしいが、本人はそんなことより普通にお金が好き。荷物が少ない。趣味は読書と昼寝。幼少期の記憶を失っているが本人は気にしてない。人混みが苦手。色弱。

ニナ

ニナ・グレンヴィル(20)。ルクノルディア王の長女であり、ど田舎娘。特技は絶品と呼び声の高い歌モノマネ。めちゃめちゃ似てると、村のおじさんおばさんには大人気。よく食べよく寝てよく笑う。ただし寝すぎには要注意。

ソラ

ソラ・バサロヴァ(19)。ルクノルディア王国王女ニナ付の侍従で聖樹教の聖職者。幼児の頃の事故で左半身の一部が義体。潔癖気味のギタリスト。彼に弾けない弦楽器はないらしい。アレックスに言わせると腹黒聖職者。ニナとは幼馴染で彼女だけには激甘。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み