湖上で読書

文字数 3,479文字

 初めての打ち合わせは早めに切り上げた。

 あれからざっくりとした想定ルート、道中の生活費について(聖樹教本部が月ごとに支給してくれてソラが一括管理する、食費など生活にかかわる費用はアレックスの分もそこから捻出する)などの話をしたが、今は全て些末な内容に感じてしまった。ソラが思いがけず重要な要素を包み隠さず伝えてくれたので、お互い少し考える時間が必要になった。
 この任務は思っていた以上に、おそらくヴァンサー本部が思っている以上に、複雑なものを孕んでいるという予感があった。

 いや、本部には狙いがあるのかもしれない。いくら小国で依頼金が少額だからと言って、一国の王女の護衛の任務を訓練生の適性試験に回すなどという判断をするだろうか。
 ただそれさえも勘ぐりすぎである可能性もある。今のこの情報量だけでは、考えても答えなどでなかった。

 とりあえずアレックスは図書館で本を2冊ほど物色したのち、小舟で湖の沖へ漕ぎだした。

 湖畔では、村人は昨日の祭り会場の後片付けをしていた。ソラの言う通り観光客たちのほとんどはすでに村を後にしているようだった。
 風はなく、陽気は穏やかで湖面は常にキラキラと輝いていた。時々魚が飛び跳ねる音がした。それを狙う鳥の気配もあった。
 作業をする村人たちの話し声や笑い声が届かなくなるくらい奥まで漕ぎ出て、あとは漂うのに任せることにする。アレックスはボート内に横たわって、借りてきた本の一冊を開いた。

 一冊は、聖樹教の聖典だ。何か国語にも翻訳されて、見ようと思えばいつでもどこでも簡単にアクセスできるテキストだが、アレックスは初めて読む。

 世界は混沌の時代から始まる。ある地域では日照りが続いて農作物が枯れ果て、ある地域では大雨で川が氾濫して溢れた水が家々を押し流していった。人間界は暴力、強奪、詐欺が横行し、力があるものがないものから僅かな資産まで搾取する。魔物が現れ、病気が蔓延し、希望を失った人々は大崖から身を投げる。戦乱が続き、大地は荒れ果て、空はいつも煙で淀んでいた。
 その状況に嘆いたToto神とLulu神夫婦の涙が大地に降り落ちた。するとそこから聖樹が生え、聖樹の周りには緑が豊かに生い茂り、また涙の一部は蛍石に変化した。次第に地上は浄化されていく。清浄の地において魔物は存在出来ず、いつしか姿を消した。
 また、TotoとLuluは聖樹を護り、人々を導いていくために知恵のある”庭師”を生んだ。庭師は人々に祝福を与える聖樹を護り、同時に蛍石を使って様々な用途の便利な機械を作り出した。機械は貧しい人々を過酷な労働から解放した。人々は平等になり、紛争は収まり、世界はいまでも庭師に導かれて現在の平和を維持している。ようやく得た平和を未来永劫失わぬよう、人々よ聖樹を敬え、庭師の言葉に耳を傾けよ。

 …というのが、大筋だった。分厚く、細かい文字で綴られた聖典には、聖樹の尊さ、代々の6人の庭師たちの苦労と人々に対する愛と奇跡が大小のエピソードを交えて延々と語られている。
 なお、一般常識として、この聖典は未完ということになっている。なぜなら聖樹による祝福は今現在も続き、代々継承されている庭師たちによる奇跡は今でも起きているからだ。
 この国に寄贈されたこの1冊はおよそ300年前の版なので、現在はさらにアップデートされているのかもしれない。

 ざっと1冊を読み終えて、アレックスは寝転がったままぼんやり空を見上げた。

 アレックスは聖樹教の信者ではないが、生まれ落ちた世界は、人生の大半を過ごしてきた王都は、もちろん聖樹教の教えがベースにある社会で、風俗や時節のイベントごとや祝日は聖樹教に則っていたし、聖樹教=ありがたいもの、ということを誰もが疑わない世界で生きてきてきた。
 それがTotoとLuluの涙の結果だといわれると、現代に生きているアレックスには疑問しかないが、有能な科学者であっても今更そんなことをいちいち指摘しないくらい、人々の生活のベースには聖樹教がある。
 しかしその総本部は謎の多い秘密結社のような趣もある。表向きは皇庭を頂点とした好々爺の聖職者の集まりといったイメージがあるが、内部の実態を知っている一般人などほぼいないだろう。
 そして、7本目の聖樹。
 ソラとニナは、都市伝説になっている7本目の聖樹がある本聖地の生まれだという。そしてニナの父親はこのルクノルディア国王であるとのことだ。あの少し調子のいい口髭のおっさんだ。

 当たり前だが、今さら聖典を一読したところで何も得られるものはなかった。アレックスが今まで全く興味がなかったせいで理解できていない可能性もあるが、もしソラの言葉が本当であるなら7本目の聖樹があるという事実をなぜ公表しないのか。聖典でも、言述があるのは6本の聖樹に関してのみだった。
 隠された7本目の聖樹。そこの隠された村の出身であるということは何を意味するのか。
 たった一つの事実から、疑問は沸くばかりだった。ニナという存在にどんな意味があるのか、何故本聖地に帰らなければならないのか。アレックスの任務は彼女の道中の安全を守れば良いだけなので彼には全く関係のないことではあるのだが、彼女がただの辺境の小国の姫というだけではない、という事実が、アレックスの心の奥のほうをざわつかせているのは事実だった。
 聖地の人間という意味で純血度が高いのはむしろソラであるのに、彼が従者なのだ。ニナの帰還の旅のために、15年も前の幼少の頃から派遣されているのだという。しかも最後の3年は王都に留学までしている。これまでの話が本当なら、それも全てこの巡礼の旅のため、と考えるのが自然だろう。

 借りてきた本のもう一冊は、この国の郷土歴史の本だった。外部の者の手によるもので、これも100年ほど昔に書かれた記録だ。

 混沌からの回復の時代、それまでの争いに負けた者、あるいはうんざりした者、引き続き虐げられ続けている者たちが逃げるようにして追われてきたのがこの北の高地だった。山々に囲まれた盆地に農地を拓き、蛍石で発展していく聖樹教の国々とは一線を画して、延々と地道にほぼ人の手だけで日常と季節の移り変わりを乗り越えて、世代をつないできた民族だ。
 要所要所でこの国なりに英雄と呼ばれる者、記録に残されるべき者が現れて言及されていたが、他民族との諍いも特筆すべき事象もなく、およそ1200年の間、今と変わらぬ暮らしを寒さに耐えながら送ってきた民族とのことだ。
 唯一の敵であり脅威は冬の寒さ一点であり、宗教らしい宗教は持っていない。つまり組織化された団体や、テキスト化された教え、規則や象徴的な偶像などはないようだった。ただ、彼らなりにそこかしこに神を感じ、畏れ、感謝し、それを口伝や歌で代々伝え、つましく生きてきたようだった。
 外部の者が知りえない神を、彼らはそれなりに共有している。それを外部の人間が宗教と認めようと認めまいと、彼らには関係のない話ということだ。
 外の世界に魔物が増え始めた現代、その手がここまで及んでいないという事実があればよかった。山の神はかつて仲間から見捨てられた民族を今も愛してくれている。麦星に豊穣を感謝し、日々の安全を祈り、由縁がわからぬ女神像に花を供える。それでよいのだろう。

 こちらの書籍からも特に何も得られなかった。アレックスが出発前に仕入れた情報とも大差がなかった。鎖国する以前から、閉鎖的と言えば閉鎖的な民族だったようではある。それは出自的な理由も、地理的な理由もあっただろう。

 空はTotoがすでに落ちており、Luluもその後を追って山の中に消えようとしていた。東の空に衛星Plimが薄白く浮かんでいる。
 昨日、祭りの最中に見た空とは色が全く違う、というか、色がほとんどない。ほんのり青く色づいた灰色だ。本来なら昨日のように美しい色のグラデーションをしているのかもしれない。
 これは、アレックスが色弱であるが故であり、そのようにしか見えないというだけの話なのだが、逆に昨日はなぜあんなに鮮やかに見えたのだろう。
 直前に摂取したソーダ内のベリーが何かしらの作用をしたのかと思ったが、違ったようだ(今朝のランニングの際に野生のそれを見つけていくつか食べてみたが、変化がなかった)。勝手に酒割りにされたが、酒のほうに効能があったのだろうか。それとも、ベリーと酒との合わせ技による作用だろうか。

 そんなことを考えながら、アレックスはそのまましばらくうとうとしながら舟に揺られていた。
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登場人物紹介

アレックス

アレックス・レイバーン(19)。王都軍諜報部隊ヴァンサーの訓練候補生。ヴァンサー創立以来の逸材らしく、潜在能力特S評価。加えてその長身と整った顔立ちでモテまくっている(ソラ談)らしいが、本人はそんなことより普通にお金が好き。荷物が少ない。趣味は読書と昼寝。幼少期の記憶を失っているが本人は気にしてない。人混みが苦手。色弱。

ニナ

ニナ・グレンヴィル(20)。ルクノルディア王の長女であり、ど田舎娘。特技は絶品と呼び声の高い歌モノマネ。めちゃめちゃ似てると、村のおじさんおばさんには大人気。よく食べよく寝てよく笑う。ただし寝すぎには要注意。

ソラ

ソラ・バサロヴァ(19)。ルクノルディア王国王女ニナ付の侍従で聖樹教の聖職者。幼児の頃の事故で左半身の一部が義体。潔癖気味のギタリスト。彼に弾けない弦楽器はないらしい。アレックスに言わせると腹黒聖職者。ニナとは幼馴染で彼女だけには激甘。

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