ふたり。
文字数 3,718文字
私は深呼吸して、何度も出会った優しいつぐみとの日々を、そっと心の奥にしまった。
「――つぐみ、私はあなたを、助けにきたの」
私はゆっくりと腕を広げ、つぐみに触れた。
鱗のように固くなったつぐみの腕の皮膚がびきびきと剥がれ、幾匹もの細い蛇に変化した。
蛇は美硝の腕に絡みつき、噛まれた傷口から呪いめいた紋様が広がっていく。
それでも、美硝はつぐみを抱きしめ続けた。
「やっと、わかった。つぐみ、大丈夫だよ。私はずっと一緒にいる。あなたと一緒。ひとりになんかさせない」
「み……す……ず……」
「――やっと私たちの物語の結末がわかった」
つぐみが慄くように咆哮したあと、暗闇の向こうからぼんやりとした光が近づいてきた。その光のなかに、ぬっと翁の面が浮かび上がる。
七度の機会を全て終えた私の前に、神様が姿を現した。
《賭けはわれの勝ちだ。諦めよ。われはまだ満足しておらぬ》
「いいえ。まだ、終わっていません。あの日の言葉を――本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか、という問いの答えを見つけました」
私はまっすぐ顔をあげ、声を張り上げた。
「つぐみたちが、私に教えてくれたんです。私の願いを叶える方法を」
《同じだ。何度繰り返してもわからぬのか、愚かだ》
「一度だって同じじゃなかった。いくつ夏を繰り返しても、一度だって同じつぐみはいなかった。でもみんな――私の事を覚えてくれた」
《お前の罪を、己が受けた苦しみを覚えていただろう》
《許されぬ罪だ。穢れに縛られたあの娘よりも、いまのお前のほうが禍々しい》
私は頷いた。
何人ものつぐみが苦しんで、悲しんで、恨んで、私に教えてくれた。
本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか。
その答えを、私が向かうべき物語の結末を、やっと見つけることができた。
《お前に与えし時間は、すでに残されていない》
《穢れに呑まれた小娘の魂はもうすぐ消える》
《われとの賭けに負けたお前は……どうしてくれようぞ》
かかか、と翁の面が笑った。
私はもう一度、言った。
「――私は、つぐみを必ず救う」
「み……す……ず……」
「――私はあなたを、助けにきたの」
「わた……し……を……」
「もう一回、来れたんだよ」
「……う……わた……し……たべ……て……しまう……の……みすずを……やだ……よ」
「違うよ、つぐみ。同じものになるの」
「わたし……と……」
「うん。ほら、私も一緒。見て――」
真っ黒に染まった手を、差し出して見せる。
指先が熱を帯び、血管のなかを何本もの細い針が流れていくような痛みが走った。
もうすぐ私の骨も、醜く歪んでいくだろう。
いつまでこうして人の言葉を思い浮かべられるだろうか。
私は心のなかの不安や恐れを全部振り払ってから、つぐみをぎゅっと抱きしめた。
「つぐみが苦しむことはもうないの。あなたは私を食べない。私もあなたを食べないわ。だってほら……私たち、同じものになるから」
爪がはがれても、肌が爛れても、腕や足が曲がり異形と化しても。
私はつぐみと一緒のものになる。
「もう寂しくないから。どんな姿になっても――つぐみは、私の、友達」
きゅっと、私の背中に何かが触れた。
「つぐみ?」
それはつぐみの腕らしきものだった。
――嬉しい。
確かに、つぐみの声でそう聞こえた。
人の形を失ったつぐみが発音などできるはずもない。でも、確かに聞こえたのだ。
ざああああ――と、激しい水音が響く。
足元から湧き上がった水がどんどん量を増していき、あっという間に私たちを呑み込んだ。
私とつぐみの口から幾つもの泡が出て、上へ上へと登ってゆく。
はるか遠く、天上のほうがほのかに明るく輝いている。泡はそこへとゆっくり向かっていた。
肺のなかに残っていた全ての空気が失われて、私たちはゆっくり沈み始めた。
明るいほうには、昇っていけない。
でも、いい。どこにいっても、つぐみが寂しくなければいい。
私はもう一度、つぐみの手を取った。
「……美硝さん」
「えっ……」
微笑むつぐみの体が、ふわりと光って私を包み込んだ。
初めて出会った日。私と一緒に練習しようと誘ってくれた日。
一緒に練習した夕方。輝く川辺の道。
つぐみと過ごした日々が、きらきら輝きながら私の上に降り注いできた。あまりに眩しくて目を開けていられないほどだった。
「見て、美硝さん」
つぐみが胸元で両手を合わせた。あの、おまじないだ。
そっと開かれたつぐみのてのひらの上に、小さな黒い蛇がいた。蛇は目を覚ましたかのようにあたりを見回すと、たよりない動きで泳ぎ出し――天に昇っていく。
やがてその姿が見えなくなった時、天上の光が消えた。
人にあらず神にあらず、鍵となりて、結界を開く役目を神楽舞にて果たす。
その言葉が、ふいに頭をよぎる。
私とつぐみは、人でもない神様でもないモノになって、穢れを天に還すことができたのだろうか。
問おうとしても、神様はもういない。
胸の奥で激しく心臓が脈打ち、体が軽くなった。
「美硝さん、ちょっと痛いよ」
「あ……ごめんなさい」
私の手のひらのなかで、つぐみの指先が小さく動く。柔らかくて、くすぐったい感触だった。
*
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちてきた。
「……あ」
私は『祓神楽』の舞台の上に立っていた。
深呼吸をして顔をあげると、空を真横に切り裂く太い稲光が頭上に見えた。
それは真っ白な大きな龍が、怒りにまかせ長い尾を乱暴に振り降ろしているようで――全身に鳥肌が立った。
「あの日見た、雷と同じ……」
そう呟くと同時に雷鳴が響き、雨が降り始めた。
――私、元の世界と繋がった時間へ戻ってこられたんだ。
夏の匂いを含んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、私はここが真っ暗な神様のいる場所でも、何度も繰り返した時間のなかでもないと実感する。
「そうか、終わったんだ。やっと……夏の続きが始まるのね」
激しい夕立の雨が当たって、泉を囲む木々がざわざわと揺れている。
最初の春、転校生としてここへやって来たことが、もう遠い過去のようだった。その頃の自分なんて、もう思い出せないほどだ。
やっと“繰り返し”の世界から抜け出して、私とつぐみは進むことができる。
もしも……神様が私をこの世界に存在させたくないというなら、その時はそっとここから去っていこう。
つぐみが生きて、笑ってくれて、ここにいるのならそれでいい。
私はずっと、何度も同じ時間を一緒に過ごせたから。
「――美硝っ!」
どん、と大きな衝撃が体を揺るがせた。
抱き着いてきた腕の感触を、知っている。つぐみだ。
「良かった、成功したね! 間違わないかなってすごく緊張してたんだ」
ああ、良かった。私のよく知っているつぐみだ。
きゅっと唇をあげて人懐っこく笑う、子猫みたいな人。
誰にも気づかれなかった、私の寂しさに気付いてくれたつぐみ。
私はつぐみみたいになりたいと思っていた。
ずっと一緒にいたいと願い続けていた。
雨に濡れた前髪すら厭わずに、つぐみは私をぎゅっと抱きしめ続けている。
ぱりん、と空が割れるような稲光が走り、数秒後に大きな雷が響いた。
その時――私は気づいた。
つぐみの手のひらが、私の耳を覆ってくれていたのだ。
「……え? どうして」
「覚えているから。美硝、雷苦手でしょう?」
「……うん」
「それだけじゃないよ。見えたの。何度も何度も、同じ夏を繰り返してた」
胸の奥で心臓が跳ねあがった。
あの繰り返しの日々のなかで感じた胸の痛みや、流した涙や、幾度も消えていった想い。つぐみが戻ってきてくれたら、全部消えてもいいと思っていたもの全て。
私をまっすぐ見つめるつぐみの瞳の中に、それらがしっかりと映っていた。
「どう言えばいいのかわからないよ、ねえ美硝、ずっとずっと辛かったよね」
つぐみの指先が頬に触れた時、私は自分が涙を流していることに気付き、頷いた。
「……うん」
「わたしが見ていたのは、夢じゃなかったんだ」
「ごめんね、つぐみには全部忘れてほしかった……辛い記憶なんて、全部……」
「謝らないで、わたしは忘れたくなかったの。美硝と過ごした時間、全部大事だった、ひとつも失いたくなかった」
「……ありがとう」
つぐみはぎゅっと私を抱きしめて、濡れた髪を何度も撫でてくれた。
「あ……見て」
そう呟いたつぐみの頬に、柔らかな光が射しこんでいる。
雨雲が風に押し流されて、紺碧の空が広がり始めていた。
「美硝――わたし、やっと言える」
「なに?」
「おかえりなさい、美硝」
つぐみが手を差し出してくれた。
私は少しだけ勢いをつけて、その手を打つ。
ここにいていいよ、と真夏の乾いた空気のなかでハイタッチの音が響いた。
「――つぐみ、私はあなたを、助けにきたの」
私はゆっくりと腕を広げ、つぐみに触れた。
鱗のように固くなったつぐみの腕の皮膚がびきびきと剥がれ、幾匹もの細い蛇に変化した。
蛇は美硝の腕に絡みつき、噛まれた傷口から呪いめいた紋様が広がっていく。
それでも、美硝はつぐみを抱きしめ続けた。
「やっと、わかった。つぐみ、大丈夫だよ。私はずっと一緒にいる。あなたと一緒。ひとりになんかさせない」
「み……す……ず……」
「――やっと私たちの物語の結末がわかった」
つぐみが慄くように咆哮したあと、暗闇の向こうからぼんやりとした光が近づいてきた。その光のなかに、ぬっと翁の面が浮かび上がる。
七度の機会を全て終えた私の前に、神様が姿を現した。
《賭けはわれの勝ちだ。諦めよ。われはまだ満足しておらぬ》
「いいえ。まだ、終わっていません。あの日の言葉を――本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか、という問いの答えを見つけました」
私はまっすぐ顔をあげ、声を張り上げた。
「つぐみたちが、私に教えてくれたんです。私の願いを叶える方法を」
《同じだ。何度繰り返してもわからぬのか、愚かだ》
「一度だって同じじゃなかった。いくつ夏を繰り返しても、一度だって同じつぐみはいなかった。でもみんな――私の事を覚えてくれた」
《お前の罪を、己が受けた苦しみを覚えていただろう》
《許されぬ罪だ。穢れに縛られたあの娘よりも、いまのお前のほうが禍々しい》
私は頷いた。
何人ものつぐみが苦しんで、悲しんで、恨んで、私に教えてくれた。
本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか。
その答えを、私が向かうべき物語の結末を、やっと見つけることができた。
《お前に与えし時間は、すでに残されていない》
《穢れに呑まれた小娘の魂はもうすぐ消える》
《われとの賭けに負けたお前は……どうしてくれようぞ》
かかか、と翁の面が笑った。
私はもう一度、言った。
「――私は、つぐみを必ず救う」
「み……す……ず……」
「――私はあなたを、助けにきたの」
「わた……し……を……」
「もう一回、来れたんだよ」
「……う……わた……し……たべ……て……しまう……の……みすずを……やだ……よ」
「違うよ、つぐみ。同じものになるの」
「わたし……と……」
「うん。ほら、私も一緒。見て――」
真っ黒に染まった手を、差し出して見せる。
指先が熱を帯び、血管のなかを何本もの細い針が流れていくような痛みが走った。
もうすぐ私の骨も、醜く歪んでいくだろう。
いつまでこうして人の言葉を思い浮かべられるだろうか。
私は心のなかの不安や恐れを全部振り払ってから、つぐみをぎゅっと抱きしめた。
「つぐみが苦しむことはもうないの。あなたは私を食べない。私もあなたを食べないわ。だってほら……私たち、同じものになるから」
爪がはがれても、肌が爛れても、腕や足が曲がり異形と化しても。
私はつぐみと一緒のものになる。
「もう寂しくないから。どんな姿になっても――つぐみは、私の、友達」
きゅっと、私の背中に何かが触れた。
「つぐみ?」
それはつぐみの腕らしきものだった。
――嬉しい。
確かに、つぐみの声でそう聞こえた。
人の形を失ったつぐみが発音などできるはずもない。でも、確かに聞こえたのだ。
ざああああ――と、激しい水音が響く。
足元から湧き上がった水がどんどん量を増していき、あっという間に私たちを呑み込んだ。
私とつぐみの口から幾つもの泡が出て、上へ上へと登ってゆく。
はるか遠く、天上のほうがほのかに明るく輝いている。泡はそこへとゆっくり向かっていた。
肺のなかに残っていた全ての空気が失われて、私たちはゆっくり沈み始めた。
明るいほうには、昇っていけない。
でも、いい。どこにいっても、つぐみが寂しくなければいい。
私はもう一度、つぐみの手を取った。
「……美硝さん」
「えっ……」
微笑むつぐみの体が、ふわりと光って私を包み込んだ。
初めて出会った日。私と一緒に練習しようと誘ってくれた日。
一緒に練習した夕方。輝く川辺の道。
つぐみと過ごした日々が、きらきら輝きながら私の上に降り注いできた。あまりに眩しくて目を開けていられないほどだった。
「見て、美硝さん」
つぐみが胸元で両手を合わせた。あの、おまじないだ。
そっと開かれたつぐみのてのひらの上に、小さな黒い蛇がいた。蛇は目を覚ましたかのようにあたりを見回すと、たよりない動きで泳ぎ出し――天に昇っていく。
やがてその姿が見えなくなった時、天上の光が消えた。
人にあらず神にあらず、鍵となりて、結界を開く役目を神楽舞にて果たす。
その言葉が、ふいに頭をよぎる。
私とつぐみは、人でもない神様でもないモノになって、穢れを天に還すことができたのだろうか。
問おうとしても、神様はもういない。
胸の奥で激しく心臓が脈打ち、体が軽くなった。
「美硝さん、ちょっと痛いよ」
「あ……ごめんなさい」
私の手のひらのなかで、つぐみの指先が小さく動く。柔らかくて、くすぐったい感触だった。
*
ぽつり、と頬に冷たいものが落ちてきた。
「……あ」
私は『祓神楽』の舞台の上に立っていた。
深呼吸をして顔をあげると、空を真横に切り裂く太い稲光が頭上に見えた。
それは真っ白な大きな龍が、怒りにまかせ長い尾を乱暴に振り降ろしているようで――全身に鳥肌が立った。
「あの日見た、雷と同じ……」
そう呟くと同時に雷鳴が響き、雨が降り始めた。
――私、元の世界と繋がった時間へ戻ってこられたんだ。
夏の匂いを含んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、私はここが真っ暗な神様のいる場所でも、何度も繰り返した時間のなかでもないと実感する。
「そうか、終わったんだ。やっと……夏の続きが始まるのね」
激しい夕立の雨が当たって、泉を囲む木々がざわざわと揺れている。
最初の春、転校生としてここへやって来たことが、もう遠い過去のようだった。その頃の自分なんて、もう思い出せないほどだ。
やっと“繰り返し”の世界から抜け出して、私とつぐみは進むことができる。
もしも……神様が私をこの世界に存在させたくないというなら、その時はそっとここから去っていこう。
つぐみが生きて、笑ってくれて、ここにいるのならそれでいい。
私はずっと、何度も同じ時間を一緒に過ごせたから。
「――美硝っ!」
どん、と大きな衝撃が体を揺るがせた。
抱き着いてきた腕の感触を、知っている。つぐみだ。
「良かった、成功したね! 間違わないかなってすごく緊張してたんだ」
ああ、良かった。私のよく知っているつぐみだ。
きゅっと唇をあげて人懐っこく笑う、子猫みたいな人。
誰にも気づかれなかった、私の寂しさに気付いてくれたつぐみ。
私はつぐみみたいになりたいと思っていた。
ずっと一緒にいたいと願い続けていた。
雨に濡れた前髪すら厭わずに、つぐみは私をぎゅっと抱きしめ続けている。
ぱりん、と空が割れるような稲光が走り、数秒後に大きな雷が響いた。
その時――私は気づいた。
つぐみの手のひらが、私の耳を覆ってくれていたのだ。
「……え? どうして」
「覚えているから。美硝、雷苦手でしょう?」
「……うん」
「それだけじゃないよ。見えたの。何度も何度も、同じ夏を繰り返してた」
胸の奥で心臓が跳ねあがった。
あの繰り返しの日々のなかで感じた胸の痛みや、流した涙や、幾度も消えていった想い。つぐみが戻ってきてくれたら、全部消えてもいいと思っていたもの全て。
私をまっすぐ見つめるつぐみの瞳の中に、それらがしっかりと映っていた。
「どう言えばいいのかわからないよ、ねえ美硝、ずっとずっと辛かったよね」
つぐみの指先が頬に触れた時、私は自分が涙を流していることに気付き、頷いた。
「……うん」
「わたしが見ていたのは、夢じゃなかったんだ」
「ごめんね、つぐみには全部忘れてほしかった……辛い記憶なんて、全部……」
「謝らないで、わたしは忘れたくなかったの。美硝と過ごした時間、全部大事だった、ひとつも失いたくなかった」
「……ありがとう」
つぐみはぎゅっと私を抱きしめて、濡れた髪を何度も撫でてくれた。
「あ……見て」
そう呟いたつぐみの頬に、柔らかな光が射しこんでいる。
雨雲が風に押し流されて、紺碧の空が広がり始めていた。
「美硝――わたし、やっと言える」
「なに?」
「おかえりなさい、美硝」
つぐみが手を差し出してくれた。
私は少しだけ勢いをつけて、その手を打つ。
ここにいていいよ、と真夏の乾いた空気のなかでハイタッチの音が響いた。