わたしは、あなたと

文字数 6,751文字

 学校を出て少し歩くと、鴨川沿いの道に出る。
 川べりの遊歩道は、梅雨時の湿気が川風に吹き飛ばされて心地よい気温だった。
 夜空を映して黒く光る水面の音が、つぐみと美硝の耳に届いてくる。

 ――あなたの秘密を、教えてもらうためよ。

 そう呟いてから、美硝はずっと押し黙っていた。つぐみも結局、何も言い出せないままだ。
 ……わたしの秘密って。それはあの夢のこと、だろうか。
 美硝のことを思うたびに見るような気がする――あの白昼夢。だけどそれをはっきりと口にしたのは一伽の前だけだ。
 つぐみはちらりと美硝の後ろ姿を見やった。

「つぐみ、私はあなたと一緒に舞うわ」
「えっ」

 流れる水の音も、遠くからもれ聞こえる街の喧噪も、何もかもが消えた。
 静かな美硝の声だけがつぐみに届く。

「私はあなたと舞うの」
「でも……わたし、まだ踊れてない、最後まで一度も、今日だって……!」
「苦しい?」

 つぐみは少し迷ってから、頷いた。

「怖い?」

 美硝の声が、つぐみの体のなかにどんどん入ってくる。

「教えて、どうしてそんなに……苦しいのか」
「美硝さん、わたし――」

 つぐみは胸の奥にたまっていた言葉を吐きだした。誰にも言えなかった言葉が次から次へと湧き出してきた。

「美硝さんに追いつきたい、このままじゃだめだって……美硝さんのことを思い浮かべたとき、自分の頭の中が真っ白になって変な夢を見るんです」

 断片的に目の前に落ちてくる、黒く染まった手や、誰かが泣いている姿や、声。
 それらは舞手として日を重ねるごとに、鮮烈になっていた。

「すごく怖い何かになる夢、自分が自分でなくなるような」
「……そんな夢を」
「わたしが臆病だから、うまく踊れない自分への言い訳みたいにそんな夢……見るのかもしれません。美硝さん、わたしは美硝さんの足かせになってない?」

 つぐみは自分の口から次から次へと溢れる言葉を止められなかった。

「わたしは美硝さんの邪魔をしてしまう自分がすごく怖い、頑張っても頑張っても結局はそうなるんじゃいかなってどこかで思ってて――」
「つぐみは、どうしたい?」
「――わたし、は」

 答えられずにいたつぐみの横で、美硝が足を踏み出した。
 美硝は川面のぎりぎりに立ち、川の中に点在する平たい飛び石を指さした。

「私はあなたと一緒に踊るって信じてる。あなたと、私自身を。ねえ、だから――飛んでみせようか」
「まさか、飛ぶって、これを!? ダメだよ、真ん中のとこすごく開いてるから、危ないよ」

 普段なら飛び石は等間隔で並んでいて、少しジャンプすれば川を渡る事ができる。だがここ数日の雨で水量が増しているせいか、飛び石のいくつかは水没していた。

「できるの。そうなるように未来を信じてるから」
「待って、だめ、美硝さんっ!」

 美硝は助走をつけるために、数歩下がった。
 次の瞬間、真っ白な膝がスカートから現れた。地面を疾走する影からつま先が離れる。
 美硝は、飛んだ。二度、三度。長い足を弓なりにしならせて、飛び石の上を跳ねた。

「ほら、ここまで来れた」

 川の中程にある、一番大きな飛び石の上で美硝は大きく伸びをした。
 練習場でも教室でも見たことのない、白い頬を上気させた美硝。
 つぐみは呆気にとられたまま、水面の上に立つ美硝を見つめていた。

「つぐみ、どうしたい?」

 張りのある声で、美硝は再び問いかける。

「私は私の信じる未来にしか行けない、でもそれはつぐみも一緒だから。つぐみがどうしたいか、聞かせてほしいの」

 まっすぐ足を延ばし石の上に立つ美硝。水面に反射している、ゆらゆらと揺らぐ美硝。
 つぐみは現実と虚像、ふたりの美硝の姿に目をやり、深く息を吸った。

「わたしは――美硝さんと一緒に踊りたい!」
「……っ!」
「最後までちゃんと、美硝さんの隣で――」

 一歩、二歩と下がり、つぐみも勢いよく地面を蹴り、体をのけぞらせた。
 美硝と同じように飛べるなんてわからない。それでも同じ場所へ向かって、つぐみは飛んだ。

「ひゃ、あ、わあああっ」
「……つぐみ!」

 美硝が両手を大きく広げ、弧を描きながら着地したつぐみをしっかりと抱きとめる。

「あ、あっあ、落ちちゃう、美硝さんも落ち、ちゃう!」
「――大丈夫」

 勢いがつきすぎた二人の体は、飛び石の上で傾き、今にも川のなかへ落ちそうになる。
 美硝はつぐみの背中に腕をまわし、強く体を引き寄せられた

「みす、ずさん?」
「ありがとう。つぐみ」

 触れ合った胸の奥の、美硝の心臓の音が伝わってくる。
 つぐみは、自分よりも速いそのリズムに驚いた。そっと美硝の背中に触れると、小さく震えていた。誰にも心を開かない氷の女王は、どこにもいない。つぐみが触れているのは、自分と同じクラスにいる、同じ年月を重ねてきたひとりの女の子だった。

「全部忘れて、夢のことなんか全部。みんな忘れていいの」
「できる、かな」
「私のために、なんてもう思わないで」
「でも、どうしたらいいかわからない、心が勝手にそう思っちゃうの」
「……ねえ、舟って作れる?」

 美硝は腕をほどき、ぽかんとしたまま首を傾けているつぐみを見つめた。

「折り紙とか、葉っぱを折って作るやつよ」
「あ! それなら子供の時に作ったことがあるけど、どうして?」
「作ってみてくれる?」

 美硝が胸元で両手を上に向ける。お椀を抱えるような手のひらの上にはもちろん何もない。

「って、折り紙も葉っぱもないよ」
「想像でいいから」

 からかうような口調でもない。つぐみは不思議に思いながら、折り紙を持っているふりをして、舟を作る手順を思い出しながら指を動かす。つぐみは想像の舟が乗っているように手のひらを軽く曲げ、美硝の前に差し出した。

「これで、いい……のかな」
「ちゃんとできたなら」
「できたと、思う。たぶん」
「それじゃ、私の手のひらに乗せてくれる?」

 つぐみは見えない舟をつまんで、美硝の手のひらの中に放り込んだ。
「忘れてしまいたいことをこの舟に吹きかけて、流すの」

 美硝は目を閉じると、ふっと手のひらの中に息を吹きかけた。

「今度は、あなたのばん。やってみて」

 つぐみも同じように目を閉じる。
 忘れたいこと――あの白昼夢や、美硝に追いつけないと嘆く自分の弱さ。
つぐみはそれらを思い浮かべ、ゆっくりと手のひらに息をふきかけた。

「できました」
「流しましょうか」
「美硝さんは、なにを舟に乗せたの、かな」

 美硝はわずかに目を伏せ、答えてはくれなかった。
 その場でしゃがんで、美硝は両手を水に浸した。水しぶきが指先から跳ねあがって白い尾を引き、やがてまた水の中に吸い込まれてゆく。つぐみはふと、体が軽くなった気がした。

「前にある人に教えてもらったおまじない。私、その時に心を空っぽにできたの。あなたは、どう?」

 ――あ。この人は。

 つぐみは美硝が柔らかく微笑むのを初めて見た。

 ――この人、こんな風に笑うんだ。
 ――美硝さんは、誰にこれを教わって、どんな気持ちを流したんだろう。

 長いまつ毛の影が頬の上でゆらいで、美硝の輪郭を淡くにじませる。
 手を伸ばしたら、たんぽぽの綿毛みたいに一瞬にして崩れてしまいそうな優しさ。

「美硝さん、わたし」

 つぐみは美硝の笑顔を見て、心の奥から湧き上がる気持ちに気付いた。

「わたしのこと、選んでくれてありがとう。きっと最後まで一緒に踊ります」

 自分でも驚くほど強い願いだった。

「私も、同じよ。全部忘れて、最初から――」

 ほんの一瞬、美硝の微笑みのなかに悲しそうな色が混ざっていたような気がした。



 それから三日、つぐみは熱を出して学校を休んだ。
 氷嚢を頭に乗せうなされながら眠っていても、不思議とあの恐ろしい夢は見なかった。
 全部忘れて、と言ってくれた美硝の言葉。一瞬だけ体が軽くなった不思議な感覚。
 自分のなかで何かが変わった、と感じていた。
 熱が下がり、三日ぶりに制服に袖を通しながら、つぐみはあることを試そうと心に決めた。

 昼休み。二年生の教室が並ぶ校舎棟のなかを、瑠璃が走っていた。

「あの、すみません……い、一伽先輩」
「えっ、瑠璃ちゃん!? どうしたん、二年の教室来るなんて、珍しいねえ」
「今日からつぐみ先輩が来てはるって聞いたので、あの」
「うんうん、今朝から登校してはるよ。すっかり元気やってんけど……あら」

 一伽は教室をぐるりと見渡し、首を傾げる。

「お昼ご一緒しよって誘おうって思っててんけど。つぐみさん、どこいかはったんやろ」
「美硝先輩は知ってらっしゃらないですよね」
「……たぶん。美硝さん、お昼はいつも教室にいてはらへんし」

 つぐみは昼休みになってすぐ、教室から飛び出した。
 手に持っているのは、お弁当ではなく練習用の扇。二ヶ月通ったぶん、校舎や庭園の位置もだいぶ覚えている。つぐみは、昼休みにあまりに人気がなさそうで、地面が平らな場所を思い浮かべた。

「……やっぱこのあたりかな」

 校舎から少し離れた庭園は、手入れの行き届いた松や椿が植えられ、緑で溢れている。
玉砂利の敷き詰められた小道を抜け、朱塗りの小さな橋や小川を超えると整えられた芝生が広がる一画があった。心地よい場所だったが、日当たりが良すぎるのとベンチがないせいで、昼食時には生徒の姿は見当たらない。

「うん、誰もいない。広さも、いいかな」

 つぐみは靴を脱ぎ、素足になって芝生の上に立った。

「わたしは、できる……きっと。きっと何かが変わった」

 両手に扇を持ち、舞の最初の立ち位置につく。本当なら二人一組になり、舞手候補四人全員で舞う練習だ。つぐみは目を閉じ、隣にいる美硝を、一伽と瑠璃を思い浮かべる。

「――始めます」

 音楽はないから、つぐみは一、二、と自分でカウントしながら舞い始めた。

「ゆっくり回って、美硝さんと向き合う」

 両手に持った扇で表すのは、この世にある美しいもの。
 花や鳥、風と月を、腕を振り下ろす速さや角度で描く。振りはどんどん早く複雑になってゆく。目を閉じたまま、つぐみは一人で舞い続けた。

「指先の力は抜いて、でも集中して――」

 舞の区切り、一番の難関は扇を指先にかけくるくると廻すところだ。つぐみはいつもそこで失敗していた。

「できない自分を他の誰かや、美硝さんと比べるのはもうやめる」

 美硝がそばで踊っている姿を思い浮かべても、舞を邪魔するような恐ろしい夢の断片はもう見えない。
 わたしは、あの白昼夢をもう見ないんだ――と、つぐみは目を開けた。
 眩しい昼の光と、柔らかな濃紺のシルエットがふたつ、つぐみの視界に飛び込んできた。

「……つぐみ先輩」
「瑠璃、さん!」
「つぐみさん、このまま最後まで、もう一巡。終わったらお弁当もあるよ」

 つぐみを探していた一伽と瑠璃が、そっとつぐみの舞に加わっていた。
 神楽舞の二巡目は、二人一組の舞手が鏡写しのように相手の動きをなぞって踊るもの。
 一伽と瑠璃が、つぐみが――くるりと身を翻す。

「……!」

 美硝が、立っていた。ここまで走ってきたのかずいぶん息があがっている。少し乱れた髪すら気にせず、美硝はすぐさま靴を脱ぎすてつぐみの正面に立った。

「つぐみはそのままでいい」

 舞の姿勢をとったとたん、美硝の呼吸はすうっと整える。
 まるで最初からそこにいたかのように、美硝は舞の輪に溶け込み、つぐみと向き合った。

「美硝さん、わたしもう……怖い夢を見なくなった」

 つぐみが小さく呟くと、美硝は頷いて見せる。
 雨上がりの空気の匂いがつぐみの鼻先をかすめた。
 ゆっくりと体を傾け、右足を少しだけ前に出し、腕を水平に伸ばす。同じ動きを繰り返していくうちに、つぐみは自分の頭の中から言葉が消え去っていることに気付いた。

 ――あ。わたしの体、覚えてる。体が勝手に動いてる。

額から流れる汗や、腕の奥がじんと熱くなるような痛みですら少し心地よかった。

「一……二……」

 神楽舞は二巡めの最後の振りに差し掛かり、つぐみと美硝は互いに向き合って同じタイミングでくるりと扇を回した。

「……三、四……」
「はい。つぐみ、終わったわ」
「……やった! やった、わたしやっと、全部できた!」

つぐみは美硝の両手をぎゅっと掴んで、その場で飛び跳ねる。
 苦笑しながらも、美硝はつぐみの気がすむまで手を離さなかった。

「最後まで、できたねえ。うちちゃんと見てたよ! つぐみさん、いっこも間違ってなかった」
「うん、できた。まだ一回だけだけど……ね」
「つぐみ先輩、あの!」

 つぐみの前に飛び出してきた瑠璃が、深々と頭を下げる。

「ごめんなさいっ!」
「わたしも、ごめん!」

 同時にそう言いあって、つぐみと瑠璃は顔を見合わせた。

「先輩、さきに謝らないでください……」
「ほとんど同じだったよ、いま」
「いえ、一瞬だけ先輩が先でした、だからもう一回ちゃんと謝ります」
「い、いーよ、大丈夫! 瑠璃さんのごめん、ちゃんとしてた、わたしのよりしっかりしてた」

 瑠璃はふふっと噴き出した後、ほっと肩の力を抜いた。

「でも、もう一度ごめんなさいって言わせてください、先輩。私は先輩と同じだったんです。私、一度だけ……もうできないって神楽舞から逃げたことがあるんです」
「瑠璃さんが? ほんとに?」

 つぐみも、隣で聞いていた一伽も驚きを隠せなかった。

「小学校の頃、自分が一番上手に舞えると思ってました。でも初めて自分よりもすごくきれいな舞を踊る子にあったとき……何もかも嫌になって、その子と一緒に踊る舞台から逃げました」

 瑠璃から気負ったような緊張感が消え、等身大のひとつ年下の子が、自分の言葉で気持ちを投げかけてくれていた。

「私、もう一度、心からすごいと思える人と一緒に踊りたかったんです。それが、美硝先輩でした。だからつぐみ先輩が、できないかもしれないって思う気持ちはすごくわかって」

 瑠璃は胸元でぎゅっと自分の手を握り締めた。

「先輩の舞うことが辛いって気持ちが、あの頃の私に似ていて、余計に許せなくて――でも、先輩は逃げませんでした。今日、先輩が踊っているのを見て、すごく嬉しかった……です」
「瑠璃さん!」
「は、はい……えっ、きゃ」

 つぐみは瑠璃の背中に手をまわし、抱き寄せた。固く握られていた瑠璃の手が開き、とまどいながらつぐみの肩のあたりに添えられる。

「び、びっくりしますから、先輩、そういうの、いきなりは」
「ご、ごめん、なんかすごくわたしも嬉しくなって」

 真っ赤になった瑠璃から体を離し、つぐみは自分の胸元で腕をまっすぐ突き出し手のひらを開いた。

「……な、なんでしょか、つぐみ先輩、これは何の合図?」
「あー、お嬢様学校じゃハイタッチなんてあんまりしないか。えーっと、皆でわたしの手のひらを、パンっって叩いてみてほしいんだ、じゃあ瑠璃さんから」
「は、はいっ、こうですよね」

 瑠璃がつぐみの手のひらを軽く打つ。一伽もその後に続いた。

「あ、わたしとだけじゃなくて、全員でぐるーっと回るんだ」

 美硝が細くて長い指を開くさまは、白い花が咲く時みたいだった。
 小気味良い音が次々と芝生の上に響いてゆく。

「ねえ、美硝さん」

 つぐみは隣に並んだ美硝に囁いた。

「なに?」
「なんだか三日前と何もかも違う感じがする――体の一番外側の殻が消えてなくなったみたいに軽いよ。あのおまじない、教えてくれてありがとう」

 美硝は答えるかわりに、つぐみの手をぱん、と打つ。
 心が繋がる感触がした。
 次々と続くハイタッチの音に、つぐみは吐息を漏らす。
 胸の奥から続いているリボンがあって、今までは風に吹かれてそれぞれ違う場所を向いてなびいていた。きっとみんな違う色のリボン。そのリボンがつむじ風に巻かれたようにひとつの場所に集まる、そんな感じが――胸に広がってゆく。
 なんてきれいな音だろう。
 つぐみは手のひらに伝わる心地よい音に瞳を閉じる。
 鼻先をくすぐる風に、かすかな夏の匂いが混じり始めていた。
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