どうか神様、最後までちゃんと

文字数 5,703文字

 京都の春はあっという間に過ぎ去り、六月を迎えた京都は盆地特有の湿度の高い日が多くなる。つぐみにとってこの重く湿った空気は初めてで、日々を過ごすだけでもきつい。
 放課後、つぐみは練習場の扉を見つめながら大きなため息をこぼしていた。

「つぐみさん、つぐみさん?」
「はっ、ご、ごきげんようです、桜の君……」
「ふふふ、そんな無理して言葉遣いかえんでいいのに。むし暑いねえ、これ使って」
 
 桜の君が差し出した真っ白なハンカチを、つぐみは少し迷ってから受け取った。

「すみません、ちゃんと洗って返します」
「どうしたん? さっきから練習場に入らんと、ずっと扉の前に立ってたでしょ」
「ちょっとだけ、自分が情けなくって」

 四月の終わりに神楽(かぐら)(まい)の振りを見せられ、五月はまるまるその振りを覚えるのに必死になった。しかしつぐみだけが、最後まで一度も踊り切れてない。
 美硝(みすず)との差がどんどん広がっていく気がして、つぐみは放課後が近づくにつれ気が重くなった。

緋音(あかね)先輩、舞手って最後はわたしたちのなかから二人だけ選ばれるんですよね」
「そう……ね」
「それってどうやって選ばれるんですか。やっぱり上手な人からですか」
「それはねえ、教えられへんの」
「わたしと一緒に踊ってるせいで、美硝さんが選ばれないことってありますか」
「つぐみちゃん。舞手の候補はね、まずは四人の心が合わさってないとあかんの。心を鎮めて、自分がここにいるっていうのも忘れるくらいにね。選ばれるんはそれから」
「わたし、まだ一度も最後まで踊れてないんです」
「もしかしたら、今日が最初に踊れる日かもしれんよ? はよいこ」

 桜の君はつぐみの手を引きながら、練習場の扉を開けた。

「……あっ」

 美硝が、練習場の中央で舞っていた。
長い髪はゆるく結わえられ、美硝が体を傾けるたびにさらさら流れてゆく。
 スカートから見える足はしっかり床を踏んでいるが、重さを感じさせない。天井から見えない糸でつながれているのかと思わせるほど、美硝の足さばきは軽やかだ。
 美硝の体の周りにだけ涼しい風が吹いている気さえして、蒸した空気が一瞬で消えた。

「ほんま、きれいやね」
「……っ、失礼しました」
 
 つぐみと桜の君に気付いた美硝が、ぱっと姿勢を正した。

「今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 美硝が乱れていた髪をなおすと、窓から射しこむ光が髪の上を流れ落ちていった。ほのかな汗をまとった美硝は一層美しく見えて、つぐみは思わずその場に立ち尽くしてしまった。

「つぐみ」
「は、はいっ」
「前髪、少しだけ落ちてる。ほら」

 美硝がすっと腕を伸ばし、つぐみの前髪を留めるピンに触れた。

「ありがと……ございます」

 一カ月前、一度だけ一緒にお茶をした時、ほんの少し距離が縮んだかもしれない、とつぐみは思っていた。だけど美硝の態度はなにも変わらず、ただ真摯に練習に向き合う日々が続いている。

「……そうやね、瑠璃ちゃんは足の動きはもうできているから、あとは細かな手の表現かな」
「はい。普段の踊りと違う、両手の表現がどうしても納得いかなくて……」

 扉の向こうから橘の君と瑠璃(るり)の話し声が聞こえてきた。つぐみが扉のほうを見ると、ちょうど廊下で一緒になったのか、先輩たちの後ろに一伽(いちか)も続いて練習場に入ってくる。
 全員が揃った練習場を見渡して、橘の君は始まりの合図に手を打った。

「ごきげんよう。さあ、お披露目まであと一カ月。今日も気張っていきましょか」
「そしたら、今日も始めます」

 桜の君が号令をかけると、つぐみたちは練習場の中央に横並びになった。
 神楽舞の振りを覚えた五月半ば頃から、つぐみたちは四人で同時に舞う練習を始めた。
 古くさいデザインのCDデッキから、神楽舞の音楽が流れる。
 始めは一直線に並んでいた四人が、やがて二人一組に分かれ、円を描きながら離れた。
全体の動きはゆっくりしているが、一歩動くたびに両手を使った扇の動きも変わってゆく。

 ――次は、花。花の動きを両手で揃えて、左に踏み出す。

 教えられた四つの振りを終えると、自分の組んだ相手と向き合う形になる。

 ――風の動き、わたしは右下から。ちょうど美硝さんと逆になるんだ。

 笛の音が伸び、一歩踏み出す。くるりと体を回転させると、次は最も難しい振り。

 ――鳥が空を飛ぶような動きで……

「あっ!」

 手首を返して扇の向きを変える振りを、つぐみは逆向きに回してしまった。
 それだけならまだ立て直せたが、つられて踏み出す足も間違えた。足を踏み出す方向を一人でも間違えると、舞そのものが崩れてしまう。

「……すみません」

 四人の舞は中断された。四人での神楽舞の練習は途中から再開することはない。舞に込められた心が途切れてはならないからだ。

「じゃあ、もう一度頭から」
 
 橘の君がデッキのスイッチを押す。
 また頭から同じ舞だ。つぐみがテンポに遅れそうになると、桜の君が手拍子を打った。
 何度も繰り返される舞の練習を止めるのは、ほとんどつぐみだ。

 ――お願い、どうか何も間違わないで。

「もう一度、はい」

 ――どうしてここ、覚えていたのに。

「もう一度」

 ――どうか神様、最後までちゃんと踊らせてください、

 舞は最後の一巡に差し掛かっていた。あともう少しで踊りきれる。
集中力は途切れていない。頭の中で振りが途切れることもなく、息もあがっていない。

――美硝さんと一緒に、舞えるように――

 つぐみが強くそう願った瞬間、あの鈴の音が響いた。
 目の前が真っ白に光り、つぐみは一瞬にして何も見えなくなった。

「――つっ!」

 突然指先に痛みが走ってつぐみは顔をしかめる。
 はっとして目を開けたつぐみが次に見たのは、床に落ちる自分の扇だった。

「わたし、また失敗した……」
「いや、つぐみちゃん大丈夫!? 血ぃ出てるやん。扇で切ってしもうたん?」

 桜の君に言われるまで、つぐみは自分の指先から血が垂れていることに気付かなかった。

「わ、私バンソコ持ってます!」

 一伽は鞄のほうへ走っていって絆創膏を取り出し、すぐさまつぐみの指にくるんと巻いた。
 橘の君がリピート再生になっていたCDを止めて、皆に告げる。

「今日はここまでにしようか」

 心がいっきに重くなり、重力に引っ張られるようにつぐみはその場にしゃがんでしまった。

「ごめんなさい、わたしのせいです」

 膝の上に頭を乗せて、床だけを見ていた。今はとてもじゃないけど顔を上げられない。
 悔しくて、恥ずかしくて――そして自分の実力のなさに打ちのめされていた。

「つぐみさん、そんなん言わんといて。まだ練習する時間あるよ。できるよ」

 すぐそばで一伽の優しい声がした。
 きっとつぐみの横にしゃがみこんで言ってくれているのだろう。

「違うの、一伽。わたし――どうすればいいのか、わかんないんだよ」
「何、どしたん? わからへんとこ、あるん?」
「美硝さんに追いつきたいのに、わたし……そう思えば思うほど頭が真っ白になって」
「……つぐみさん」

 つぐみは膝を抱えたまま頭を横に振った。どんなに練習しても集中しても、美硝と同じように踊れるわけがない。そんな思いが自分の心の底にあって、あの鈴の音や白昼夢として出て来るのかもしれない。

「わたし、ちゃんと、追いつきたいよ、でもできないかもしれないって思ってる自分もいるの」
「そんなん、先輩も私も、美硝さんかてなんべんも教えるよ?」

 一伽が背中をなでてくれても、つぐみは顔をあげられないままでいた。

「――つぐみ先輩、顔をあげてください」

 瑠璃のひと声が、空気を変えた。つぐみが顔をあげると瑠璃は大きな目を潤ませていた。

「できないかもしれない、なんて思って、できるわけなんかありません!」

 一言ずつ区切ってはっきり響く瑠璃の声が、つぐみの心に突き刺さる。

「私……つぐみ先輩が羨ましかった。私は美硝先輩と踊りたかった。練習する先輩の舞姿、一度見ただけで憧れたんです。でも美硝先輩が決めたことだから、私は……」

 瑠璃の声は真剣で、誰も止めることなんてできなかった。

「だから、美硝先輩の横に立てるつぐみ先輩が……そんなこと言うの、許せない。つぐみ先輩、神楽舞を嘗めないでください。舞を……先輩は舞のこと、全然わかってない!」

 心臓をまっすぐ貫く強い言葉に、つぐみは答えられなかった。

「始まってしまえば、止められないんです! あの日名前を呼ばれた時から、もう、全部始まってるから、私たち行くしかないのに」

 瑠璃の目の端から、涙が一粒零れて落ちた。

 つぐみは立ち上がり、自分の手がわずかに震えていることに気付いた。特別になることの意味を――迷うことも戻ることも許されないことを、今やっとわかったのかもしれない。
瑠璃は溢れだす涙をぬぐいながら、両手で顔を覆った。泣きじゃくるのを我慢しているのか、瑠璃の細い肩は何度も上下していた。

「ごめん。瑠璃さんが泣くことなんて、何もない。ないよ、本当に」

 喉がうまく開かなくて、声がかすれた。

「本当に、そうなんだ。ずっと言えなかった。自分は特別になれるかもしれないなんて思って、でも実際にそうなれって言われたら怖かった。自分にできるなんて信じられなかった」
「……あやまらないで、くだ、さい……それは違うと……思います」
「瑠璃さんはひとつも間違ってない。わたし、できない自分に言い訳ばっかしてた」

 転校してきた日、自分の名前が呼ばれた意味を運命と呼んでいいのかはわからない。だけど、その日から確実に、何かが始まっていて、走り出さなきゃいけなかった。
 ……ずっとそれが怖くて、そんな気持ちが、あの不気味な白昼夢を呼んでいたのかな。
 つぐみは息を吐きだし、美硝のほうを見た。美硝もつぐみを見つめていた。
 ガラス越しに夕陽が射しこんできて、練習場の床や美硝の横顔を真っ赤に染まってゆく。

「えっ」
「……つぐみ先輩?」

 白い頬や肩が真っ赤に染まった美硝にただまっすぐ見つめられて……何故かその光景を、つぐみは知っていた。驚いたつぐみが視線を落とすと、自分の両手が真っ黒に染まっていた。ぼきぼきと骨が折れる嫌な音が指の内側から聞こえてくる。

「なに、これ、美硝……さ……」

〈……ガ……ココニ……コナケレバ〉

 雑音まじりに聞こえてきた苦し気な声に、つぐみの意識はぷつんと途切れた。



「……う……ん」

 柔らかな何かがまぶたの上をかすめていった。
 くすぐったさに目を開けると、ぼやけた視界の中に黒い髪が揺れている。誰かが自分の額に触れている――と思ったあたりで、つぐみは目を覚ました。

「み、みすずさ――わっ!」
「……痛い」

 つぐみが勢いよく上半身を起こしたせいで、ふたりの額がごつんと当たった。

「ご、ごごごめんなさい、ひ、冷やさないと、こ、氷」
「大丈夫だから。そのまま座っていて」

 つぐみが寝ていたのは、真っ白なカーテンに囲まれた保健室のベッドだった。美硝は立ち上がるとカーテンを開け、壁際に並んだ棚のほうに向かっていった。
 聞こえてくるのは美硝の足音だけで、保健室にはほかに誰もいないようだ。

「わたし、さっき練習場で……あれ、どうしたんだろ、目の前が暗くなってそれから」
「軽度の脳貧血だから、横になって休めば大丈夫だって先生が言ってた。今はどう?」

 美硝に言われて、つぐみは手足にぎゅっと力を入れたりゆっくり頭を動かしてみた。

「もう平気みたいです。あ、でもみんなどうしました!? 瑠璃さんは」
「大丈夫」
「さっきあんなに――わたし、瑠璃さんにあそこまで言わせちゃって」
「心配しなくていい」
「でも」
「どんなことがあっても、あなたは他の子と仲違いなんてしない」
 
あたりまえだと言わんばかりの美硝の口調に、つぐみは呆気に取られる。

「最初は微熱があったようだけど、もう下がってると思うわ」

 美硝が電子体温計を差し出してきた。

「一応、測っておいて。先生に言われたから」
「さっき、わたしのおでこ触ってたのって美硝さん?」
「ええ」

 体温計を脇にはさみながら、つぐみは自分の頬が火照っていることに気付いた。
 ピピピ、と電子音が鳴るまで、気まずい沈黙が流れた。

「……三十六度」
「良かったわ。帰りましょうか」
「美硝さん。わたしのこと、待っててくれたんですか」
「そうよ」

 短い返事に、つぐみはどきりとした。

「帰る方向が一緒だから」
「あ……そっか。そうですよね。す、すぐ支度します」

 つぐみはベッドから降りて髪やスカートの裾をなおした。鞄は一伽か美硝が持ってきてくれたのか、ひとそろい保健室の机の上に置かれている。

「もう、外だいぶ暗くなってる……」

 夏が近づくにつれ、夕方の時間は長くなる。それでも、つぐみが保健室で過ごしている間にすっかり日が落ち、窓の外には夜空が広がっていた。

「……っ」

 鞄を手に取ろうとした時、横に置いてあった扇が机から転がり落ちてしまった。
 つぐみは靴をはきなおしながら扇を拾い、瑠璃に投げかけられた言葉を思い出していた。絆創膏の巻かれた指先は、まだ少しだけ痛い。

「そんなにしたら、壊れる」
「……えっ、あ」

 つぐみの手に、美硝の指先が重なっている。
 知らず知らずのうちにぎゅっと握りしめていた扇が少し歪んでいた。

「もうひとつ」
「えっ……?」
「一緒に帰る理由はもうひとつあるの」
「何……ですか?」
「あなたの秘密を、教えてもらうためよ」
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