再びの、春の始まり
文字数 9,873文字
目を開けると、眩しい光が飛び込んできて視界が真っ白になった。次第に空の青や鮮やかな緑色が滲んできて景色がはっきりと見えてくる。
ここは『双葉葵学院』の広大な庭園の一角だ。
「戻って……きた?」
夏のむし暑さは感じない。心地よい風は、ちょうど私が転校してきたばかりの四月の温度だ。
「夢じゃないよね。私、本当にここにいる……」
「――あっ」
後ろから聞こえてきた声に、私の体は硬直した。その声を私は知っている。
おそるおそる振り向くと、つぐみが立っていた。
「……つぐみ!」
「へ!? あ、はい、そうだけど……わわわっ!」
駆け寄り、つぐみの体をぎゅっと抱きしめる。柔らかな髪と、細くてしなやかな手足の感触。何にも変わらない、元のままのつぐみだ。
「つぐみ、いる、良かった……ちゃんとここに……」
「えーっと、大丈夫? もしかして、今日来るって転校生さんかな。迷子になってたの?」
つぐみは、いきなり飛び込んできた私の頭をなでてくれた。
「双葉葵、広いからね。一緒にいこ、職員室まで送ってくよ」
「……はい」
「名前、教えてもらってもいいかな」
「四ノ宮美硝、です」
「みすず、さん。みすず、みすず……あ、なんか不思議と呼びやすい気がする、なんてね」
きゅっと口角をあげるつぐみの笑顔を見て、胸の奥から嬉しさが溢れて出しそうになる。
「はじめまして、わたしは如月つぐみ。よろしくね、美硝」
つぐみがまっすぐ手を伸ばしてくれた。私はまた泣き出しそうになるのを必死で抑えてその手を握った。
――本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいか。
私は神様の言葉を何度も頭のなかで繰り返した。
つぐみを本当に、心の底から救いたい。二度とつぐみを苦しませたくなんかない。
そのために、私は『舞手』として必死に練習した。元の世界で一度経験したことの繰り返しだから、皆についていくことができた。
それでも、もう失敗は許されない。もう二度と。
私は、絶対につぐみを助けるんだ――と、夏までの日々の全てを舞に賭けた。
なのに、私は。
神様の前で再び『祓神楽』を舞った時、私は震えていた。
恐怖と焦りと、それを抑えこもうとした緊張が指先を強ばらせ、また失敗してしまった。
「や、だよ、これは……なに? わた、し、痛い、熱い、いたいいたいあっ」
「――つぐみ!」
「なにが、ねえ、みすず、どして……どうして」
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい!」
「くっ……うう……み、すず」
「もうこれ以上苦しませないから、ごめんなさい、ごめん、つぐみ……必ず助けるから……っ!」
「や……おいて……いか……ない……で」
つぐみの体があの恐ろしい黒い影に呑み込まれる前に、私は金平糖を噛み砕く。
闇の中にまっさかさまに落ちてゆくほんの一瞬前、絶望に染まるつぐみの眼差しが見えた気がした。
これが、私の一度めの失敗――。
『二度目』
私は再び春に戻り、二度目の『繰り返し』の世界へやってきた。
はじめましてと微笑むつぐみを見て、何度も泣きそうになり、抱きしめそうになった。
でも私は同じ過ちを繰り返してしまった自分を許せなかった。
自分を罰するように、夏の最後の日に向けて舞の練習に集中し続けた。
「ねえ、美硝。聞いてもいい?」
「……うん」
私とつぐみの夏は、また同じ終着点についた。
私たちはともに『裏』の舞手に選ばれて、『御水祭り』の日を迎えた。本番用の巫女装束をまとい祓神楽の舞台に立った時、つぐみは私をじっと見つめていた。
「美硝は、こうやって舞手に選ばれて良かったと思ってる? 嬉しいって思ってる?」
「……それは」
思いがけない問いかけに驚いて、私は答えることができなかった。
「美硝、一緒に練習している間ずっと苦しそうだった」
「平気だよ。きっとそう見えるだけだと思うから」
「……ずっと言えなかったんだけど、わたしね」
つぐみが何かを言おうとした時、神楽舞の始まりを告げる音が鳴り響いた。
「つぐみ、行こう。最後までちゃんと舞い終えたらゆっくり話そう」
「……うん」
「ごめんね」
「いいよ、後でも。こっちこそ急にごめん」
その時――私は、微笑むつぐみの顔が、私の知っている笑顔と違うと気づけなかった。
『祓神楽』が始まって、表の舞が終わり、扇を神楽鈴に持ち替えた瞬間だった。
「いや! やっぱりできない」
つぐみが神楽鈴を落とし、その場にしゃがみこんだ。
「やだ、やだ、怖い、やっぱりできないよ……ねえ美硝、わたし、ずっと怖い夢を見てたの。神楽舞を最後まで踊ったら、わたしがわたしでなくなるような」
「……っ!」
つぐみは私に何度もごめんなさいと、小さな声で呟き続けていた。
「どうしてだろ、わたし、なんで……怖くて、からだ動かなくて」
「つぐみ、どうしたの」
私も神楽鈴を置き、つぐみのそばにしゃがんで細い肩を抱き寄せた。
怯えて震えるつぐみの眼差しは、わたしの知るつぐみではない。
「もしかして――覚えているの?」
「う、ああ、う」
つぐみのまとう巫女装束の端に青い炎が滲んで見え、あっという間に異形化が始まった。
「こわ、い、嫌、いやだ、こんなの、いや、やっぱり夢じゃ、なかった」
「私のせいなの、つぐみ。私があなたを――あっ」
もう両腕が真っ黒に染まったつぐみが、私を強く突き飛ばした。
「うああう、や、だ、みな、いで……み、す、ず」
どんなに泣いても叫んでも、この悲劇を止められないことはわかっている。
私は金平糖を口に含んだ。
時間が巻き戻り、苦しむつぐみは消えてゆく。私が消してゆくのだ。
「つぐみ、あなたは繰り返す世界ごとに少しずつ違うの? 私は……何人ものつぐみを消しているの? ねえ、つぐみ」
『三度目』
本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか。
神様が私に告げた言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
助けたいに決まってる。そのために私は、何度も春に戻った。金平糖を噛み砕き、繰り返し――三度めの夏。
私は最後まで祓神楽を舞いきった。
でも、つぐみは違った。最初のあの日の私のように、最後に神楽鈴を取り落としてしまったのだ。舞を終えた私は、燃え盛る青い炎に包まれ絶叫した。
「あ、ああ……あああああ!」
次に指先から強烈な痛みが駆け上ってくる。痛みに耐えかねて声をあげようにも、体中が痙攣してもうかすれ声すら出ない。
代わりに響いてきたのは、つぐみの悲鳴だった。
「いや、あ、いやあああああああ!」
巫女装束のつぐみが、私のほうを見て恐怖に顔をひきつらせている。
なんとかこの場から逃げようとしているが、腰が立たないようだった。
待って、つぐみ――と腕を伸ばした時、私は気づいた。
「どうして、何が起こってるの、美硝、どうしたの、あ、あああ」
涙を浮かべたつぐみの瞳の中に映る私は、耳元まで避けた真っ赤な口を開け、つぐみを見ていた。つぐみのほうへと伸びる私の手も、すでに消し炭みたいに真っ黒で、一本一本の指が十数センチ以上に伸びて折れ曲がっている。
「痛い、いや、あああ、助けて……! 誰か、だれ、か……っ!」
異形化した私の手がつぐみの肩に触れ、こきりと小枝を踏んだような感触が伝わってくる。つぐみから離れようとしても、もう私は自分の意志で自分の体を動かせなかった。
「あ、ああああああっ!」
私に首を噛み砕かれたつぐみは、真っ赤な血を噴き出しながら倒れ、大きく痙攣していた。それもやがて途絶えひゅうひゅうと空気の漏れる音だけが聞こえてくる。つぐみは恐怖にひきつった顔のまま、息絶えた。
私が、つぐみを殺したのだ。
「ねえ、つぐみ」
血だまりのなかに倒れるつぐみに、私は声にならないまま呟いた。
「最初の夏と同じことをしちゃった、私。ひとりで祓神楽を踊る罰、こんなに苦しかったのね。ごめんね。あなたは今どこにいるの? ねえ、今ここにいるつぐみは、誰?」
《もう踊るのを止めるか、愚かな舞手よ》
神様の声が、私に届く。
《人でないものとなれば、何もかも忘れられるぞ――それともまだわれに挑むか》
私は頷いた。
《まこと愚かよ、ではもう一度舞うがよい》
鼻先に何かが触れた。ころんと、一粒の金平糖が転がり落ちてきた。
つぐみの血の匂いにまみれた口を開け、私は金平糖を含んだ。
「次のつぐみは、このことを覚えているのかな」
私は、今まで出会った、少しずつ違うつぐみのことを思い出した。
繰り返す世界の記憶が、つぐみのなかに断片的に残っているような気がしてならない。
「ごめんね、もう苦しくはない? 怖がらせてごめんね、次は……次こそちゃんと……」
光を失ったつぐみの瞳はずっと――私のほうを見つめていた。
『四度目』
私は、また何も始まっていない穏やかな春の時間のなかに戻ってきた。
校舎の片隅に私は佇んでいた。生徒たちが教室へ向かってまばらに歩いていく姿が見える。何度も目にした、なにげない朝の光景だった。
「あっ……」
軽やかに走ってゆく誰かの背中がみんなつぐみに見えて、私は思わず手を伸ばしそうになる。
「つぐみ……待って……」
うわごとのように声が零れ、私は自分の口を押さえた。
もう忘れたの――ほんの少し前の、恐怖にひきつったまま死んだつぐみの眼差しを。
私はこれまで三度もつぐみを救えず、苦しませ、消し去ったのだ。
「ああああああっ!」
私は叫び、握りしめた手を地面に打ちつけた。
「また、またわた、し、あなたを、あなたを……どうして、どうしてなの、ねえ! どうしてっ!! どうしたらいいの!」
拳に小石が突き刺さり血が流れだしても、私は止めなかった。
こんな痛み、絶望のなかで息たえたつぐみに比べれば償いになんてならない。
何度、時を戻して頑張っても、そのたびにつぐみに苦しい思いをさせている。
私がどんなに頑張っても、つぐみの中に残った繰り返しの記憶がある限り、最後まで一緒に舞うことなんてできないのかもしれない。
「もう、ぜったい、わた、し――のこと、きっとゆるして、くれな――」
「どうして泣いているの」
柔らかな手が、私の背中をさすった。
それが四度目のつぐみで、彼女は優しくて、朗らかで、この『繰り返し』が始まる前のつぐみにそっくりだった。私は本当に久しぶりに……笑うことができた。今度こそ、と心の底から願った。今度こそ、このつぐみを、私は傷つけたくない。
また夏がやってきて、私とつぐみは『祓神楽』の舞台に立った。
表の舞は無事に成功し、裏の舞も最後の振りまでたどりついた。それでも私は気を緩めず、神楽鈴をぎゅっと握りしめて舞続けた。
「ねえ、美硝。ずっとこうしたかったの」
「えっ」
突然、つぐみがそう呟きながら神楽鈴をすっと前に突き出し、その手を開いた。
神楽鈴はゆっくりと落ちていくのを、つぐみは微笑みながら見つめている。
「……どうして」
「何故かわからないの。でも美硝のことを……あなたを許さないってずっと思ってた」
「覚えて、いたの」
「わからない、でも、許せない。許せなかったの。苦しくて痛くて……っ」
つぐみの巫女装束の袖に、青い炎が宿る。
また神様の罰が始まったのだ。つぐみは青い炎に包まれながら、泣いていた。
「わかんないよ、どうして? わたし、どうしてあなたを――」
「いいの。つぐみは悪くないよ。全部、私のせい。私を許さなくていい」
「ねえ、ほんとに、ずっと……み、すず……」
つぐみの手が何かを言いたげに私のほうへと伸びてくる。
だけど私は、その手を取らなかった。
そんな資格、私にはない。
何度もつぐみを苦しめている私が彼女の手を取り、ほんの一瞬でも許された気持ちになんてなっちゃいけない。
「さようなら、つぐみ。苦しくなる前に、終わらせるから、ね」
ガラス瓶から、金平糖をつまんで取り出す。からん、と空しい音が鳴った。
私は、つぐみを救いたい。本当にずっとそう思ってる。
でも――私はきっとそこから、どんどん遠ざかっている。
『五度目』
五度目の春に戻ってきた私は、もうどうしていいのかわからなかった。
教室の片隅で俯く転校生を、つぐみはすごく心配して、優しい言葉をいくつもかけてくれた。一緒にお昼を食べようかとか、練習しようとか――彼女が人懐っこい笑みを浮かべるたびに、胸がつぶれそうなほど切なかった。
「ねえ、美硝さん。わたし、美硝って呼んでもいい? あ、もちろん逆もね」
「えっ」
七月まであと少しという頃、練習場に向かう廊下で、つぐみが唐突にそう言った。
「つぐみって呼んでみてほしいの」
「……どうして」
「あ、すっごい理由とかじゃなくてね。なんだか不思議な距離感だなって思ってたんだ。そういうのなくなったらいいなって思って」
「不思議って、何かあったり……した?」
「何かとかじゃないよ。美硝さんといると、幼馴染と一緒にいるみたいな気持ちになるなあって。わ、なんかこういう言い方気持ち悪いかな」
「ううん。そんなことない」
「良かった。でもね、同じくらい……美硝さんが遠くにいる感じもするの。こんなに近くにいるのにどうしてなんだろうっていうくらい」
つぐみは立ち止まり、少し恥ずかしそうにはにかんでいた。
「思い切って聞いちゃおうかな。美硝さん、もしかしてわたしのこと……苦手?」
「そんなわけないよっ」
思わず出てしまった大声に、私は口元を覆ってつぐみに背中を向けた。
「……ご、ごめんなさい」
「謝らないで、だって今のわたしが変な質問したから」
「違うの、苦手なんかじゃない。そんなわけないよ、だってつぐみは……」
本当に優しいから――と、私はその言葉を呑み込んだ。
その優しさに、私は触れていいのだろうか。
どれだけ舞を練習して失敗しなくなっても結末は変わらなかった。心の底からつぐみを救いたいと思っていても、何かが歪んでしまっている気がする。
「……良かったあ、いまね、わたしのこと、つぐみって呼んでくれた」
振り向くと、つぐみが目の端に涙をいっぱいためて佇んでいた。
「ど、どうしたの」
「わたし、ずっと美硝さ……美硝に嫌われてるのかなって思ってた」
「そうじゃないの、本当に。私、つぐみを嫌ったりなんてしないわ」
「うん。わたしね、そんなことを考えてた自分にちょっと怒ってるよ」
涙を指先でぬぐい、つぐみは唇の端をきゅっとあげる笑顔を見せてから私を強く抱き寄せた。
「ごめんなさい、美硝。もう変な質問なんてしないよ。夏まで一緒に頑張ろう」
「……うん。ありがとう」
つぐみの心臓の音が、制服ごしに伝わってくる。
私はその音を聞きながら、涙を必死にこらえた。
歪みの正体に朧げに気付いたのは、その五度目の夏だ。
それは、つぐみの優しさだった。
『祓神楽』の舞台で、私の持つ祓神楽の紐が唐突に切れた。それでも私は舞を止めず、そのまま踊り続けた。もしこの選択が間違いであったとしても、神の罰を受けるのは私だ。その時はつぐみを傷つける前に消えようと心に誓っていた。
「美硝、わたしの鈴を使って……!」
つぐみは私の神楽鈴の紐が切れていることに気付き、自分の鈴を差し出した。私のことを思ってとった行動が、つぐみに神の罰を与えた。
“神様、わたしを殺して――”
つぐみは自分が異形化するとわかった時、そう叫んだ。
その願いは叶い、つぐみは命を奪われ……美しい亡骸となって私の前に横たわっている。
《また、やってきたのか》
真っ暗な闇のなか、そこだけ光る水飛沫に浮かぶ翁の面が私に囁き続ける。
神様の声に、私は力なく返事をした。
「――はい」
《お前も自分の愚かさがわかってきたであろう》
「私のせいだったんですね……」
涙が流れえば、どれほど楽だったろう。だけど私の目からは一粒の涙もこぼれなかった。
「私に優しくしたせいで、つぐみはまた死にました」
もしかしてわたしのこと、苦手――とつぐみに尋ねられた時、何も言わずにその場から立ち去ればよかったのだろうか。傷ついたつぐみは、私と最後に舞う時どんな選択をするのだろう。
「私と会わなかったら、つぐみは何度も死なずにすむけど、でも」
《ようやくわかってきたのか、ならばこの賭けから降りるか》
「いえ、やめません。私が望む結末はこんなじゃない」
繰り返しを止めて、私が消えてしまったら――最初の夏にいたつぐみはどうなるのだろう。
私は膝をおり、地面に横たわるつぐみを見つめた。私と同じ巫女装束をまとうつぐみの指先に触れると、もう冷たくなり始めていた。
「ごめんね、つぐみ」
私はつぐみの隣を歩いていた日々を思い出した。学校の廊下や雨の通学路。何気ない記憶が鮮やかにいくつも蘇る。ただそれが何度目のつぐみなのか、もうわからなかった。
「もう私の中の寂しさも悲しさも全部ここに置いていくね。どれも、つぐみを救わなかったから」
心が凍り付いてゆく。誰かに嫌われるのが怖くて、雨音のような耳鳴りが続いていた日々とは正反対のしんと静まり返った世界が私に訪れる。
「……つぐみ、優しくしてくれてありがとう。この先の世界でも、たぶんつぐみは優しくしてくれるよね、あなたはそういう人だもの」
私は開いたままだったつぐみの瞼を閉ざした。
「私、あなたを傷つけるかもしれない。優しくしてくれた気持ちを拒むかもしれない。そんな時は……私のことを嫌ってね。もういいの、もう優しさはたくさんもらったから」
わたしを殺して――そう呟いたつぐみの唇に私は触れた。
まだ柔らかさの残る、でも命を失った冷たい感触が指先に伝わってくる。
「だけどあなたにこんなことを言わせる未来なんて私が許せない。何人ものつぐみを苦しめて、そんな終わりを迎えさせる私を――私は許さない。だから、もう一度……いくね」
『六度目』
「四ノ宮美硝です、よろしくお願いします」
――六度目の春。
私が名前を言ったあと、一人の生徒がおずおずと手をあげながら言った。
「あの、“青様”もそのまま継続されるのでしょうか」
「はい。私が、舞います」
隣で答えようとしていた教師よりも早く、私は言った。
クラス中の誰もが、呆然と口を開いて私を見ている。窓際に座っていたつぐみもだ。
私は誰とも視線を交わらせず、静かに席につく。
「……あの、美硝さん。わたし、あなたと一緒で、舞手候補の」
「如月つぐみ。お名前は知っています」
「そ、そうなんだ! びっくりしたー、あの放課後に練習場に行くのが決まりなんだけど、良かったら一緒に行かない? 一伽も舞手候補だからみんなで……」
「大丈夫です。練習場の場所はもう覚えているから平気です」
「え……す、すごいね。転校する前から、ここのこと調べて来たんだね」
つぐみの優しさは、この世界でも変わりなかった。
でも、私はその優しさを受け流し続けた。私はつぐみに頼ることも、頼られることもしない。
彼女の心が揺れるたび――例えば私の為を思ったり、あるいは拒否したりするたびに――最後の日の失敗へ繋がる気がしたからだ。
だから私は、限りなくフラットに、この『繰り返しの世界』を揺るがさないようにした。
出来る限り誰とも話さす、ただ練習に打ち込む私のことを、誰かが“氷の女王”と呼んでいた。
その呼び名はなにも間違っていない。確かに私の心は、何度も凍り付いているから。
それでもつぐみは、私を受け入れてくれた。
七月、私にとって六度めの夏、私とつぐみは『祓神楽』の舞台に立った。つぐみの緊張が伝わってくるなか、私も唇を噛んで舞い続ける。
何度も頭の中に浮かぶ、これまでの結末を振り切りながら、『表』と『裏』の舞をついに舞いきった。隣を見ると、つぐみも私と同じ姿勢で立っている。
「……美硝さん。きれいだった」
「最後まで、踊れた」
「うん。最後まで。わたし、美硝さんと一緒に踊れて嬉しかった」
「やっと……終わったの……?」
つぐみが笑っている。口の端をきゅっと上げた、人懐っこい笑顔だ。
私の知っている、私に普通の世界をくれた、優しい笑顔。ずっと見たかったつぐみの顔だった。
「どうしたの、美硝さん。泣いてる。ほっとしちゃった?」
「……ううん。つぐみが笑ってくれたから、嬉しくてたまらなくて」
「えー、わたしってそんなにいつもムムって顔してたかなあ」
「いいえ。違うの。ごめんなさい」
私の涙を拭おうと、つぐみが手を伸ばしてきた。
柔らかな指先が私の頬にふれた瞬間――
「なんで、なんでなの!!」
つぐみの指が黒く染まった。
「全部、最後までちゃんと舞えたのに、どうして! どうして!!」
まただ。また、つぐみが黒い闇に呑まれてゆく。
「私のせいなの? つぐみが私にしてくれたことを嬉しいって思ったから? 神様どうして!」
つぐみの骨が砕ける音がした。
「最後まで舞えたのに、今度こそはうまくいくって、つぐみを救えるって思えたのに――!」
あの笑顔が、手が、真っ暗に穢されてゆく。
「やっぱり私が……ここに……こなければ……良かったの、最初からここに……」
私は、神様に願うことを間違ったのかもしれない。
最初から何も始まらなければ。私という舞手候補が、つぐみのいる世界にいなければ。
そうしたら、つぐみは救われるのだろうか。
「……ごめん……なさい……つぐみ」
「美硝、さん」
「……っ!」
「わたし、知ってる気がする……美硝さん、は、優しくて、本当はね……すぐ泣いちゃう人なのかなって……」
「つぐみ……だめ、どうしてつぐみなの……私を、これなら私を……!」
異形と化したつぐみの腕が、私の腹部を貫いた。
全身の力が抜けて、私の体はつぐみの腕に寄りかかるように傾いた。肺から溢れてきた血が気道をのぼり、ごぼっと音をたてて口から流れ落ちる。
つぐみはそんな私を、まだつぐみのまま(傍点)の眼差しで見つめていた。
「このまま……つぐみに食べられて……つぐみと同じものになれないかな……そうしたら、ね、つぐみ……寂しくはない、かな……」
私にはつぐみを救うことはできない。
どんなに強く願っても、いつもこの結末に辿りついてしまう。
「何度も、何人ものあなたを絶望させる私の願いに……意味なんてあるのかな……」
もう体に力が入らない。
本当は声すら出ていないのかもしれない。
ずっと、ずっと前。つぐみに友達になろうと言われたあの日よりも前の、教室の片隅で消えそうになっていた私みたいだ。
もう前に進む力は残っていない。
ただ、消えてなくなりたいと――私はそう、願っていた。
「美硝さん。わたしは大丈夫だよ、だから行って」
「……つぐみ?」
「今までのわたしが、怖かったのも苦しかったのも、怒っていたことも本当。全部わたしだった、でもまだ他にもあるの、他のわたし」
「つぐみ、あなた私のことを――」
「きっと、本当の美硝さんを探しているわたしが、いるから」
「私のせいで、また嫌な記憶を重ねてしまうの――?」
「嫌なんかじゃないよ。待ってるね、わたしも変わるよ、頑張るね」
「……うん」
「きっと、新しいわたしが美硝さんを探しているから、最後まで」
「……ごめんなさい」
「美硝さん、違う……ごめんなさいじゃなくて……ほら」
「――もう一回」
つぐみは頷くと、私の体を貫いていた腕を自ら引きちぎった。
反動で地面に崩れた私の手元に、ガラス瓶が転がり落ちてきた。
私は力の限りをふりしぼり、最後の金平糖を拾って――噛み砕いた。
ここは『双葉葵学院』の広大な庭園の一角だ。
「戻って……きた?」
夏のむし暑さは感じない。心地よい風は、ちょうど私が転校してきたばかりの四月の温度だ。
「夢じゃないよね。私、本当にここにいる……」
「――あっ」
後ろから聞こえてきた声に、私の体は硬直した。その声を私は知っている。
おそるおそる振り向くと、つぐみが立っていた。
「……つぐみ!」
「へ!? あ、はい、そうだけど……わわわっ!」
駆け寄り、つぐみの体をぎゅっと抱きしめる。柔らかな髪と、細くてしなやかな手足の感触。何にも変わらない、元のままのつぐみだ。
「つぐみ、いる、良かった……ちゃんとここに……」
「えーっと、大丈夫? もしかして、今日来るって転校生さんかな。迷子になってたの?」
つぐみは、いきなり飛び込んできた私の頭をなでてくれた。
「双葉葵、広いからね。一緒にいこ、職員室まで送ってくよ」
「……はい」
「名前、教えてもらってもいいかな」
「四ノ宮美硝、です」
「みすず、さん。みすず、みすず……あ、なんか不思議と呼びやすい気がする、なんてね」
きゅっと口角をあげるつぐみの笑顔を見て、胸の奥から嬉しさが溢れて出しそうになる。
「はじめまして、わたしは如月つぐみ。よろしくね、美硝」
つぐみがまっすぐ手を伸ばしてくれた。私はまた泣き出しそうになるのを必死で抑えてその手を握った。
――本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいか。
私は神様の言葉を何度も頭のなかで繰り返した。
つぐみを本当に、心の底から救いたい。二度とつぐみを苦しませたくなんかない。
そのために、私は『舞手』として必死に練習した。元の世界で一度経験したことの繰り返しだから、皆についていくことができた。
それでも、もう失敗は許されない。もう二度と。
私は、絶対につぐみを助けるんだ――と、夏までの日々の全てを舞に賭けた。
なのに、私は。
神様の前で再び『祓神楽』を舞った時、私は震えていた。
恐怖と焦りと、それを抑えこもうとした緊張が指先を強ばらせ、また失敗してしまった。
「や、だよ、これは……なに? わた、し、痛い、熱い、いたいいたいあっ」
「――つぐみ!」
「なにが、ねえ、みすず、どして……どうして」
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい!」
「くっ……うう……み、すず」
「もうこれ以上苦しませないから、ごめんなさい、ごめん、つぐみ……必ず助けるから……っ!」
「や……おいて……いか……ない……で」
つぐみの体があの恐ろしい黒い影に呑み込まれる前に、私は金平糖を噛み砕く。
闇の中にまっさかさまに落ちてゆくほんの一瞬前、絶望に染まるつぐみの眼差しが見えた気がした。
これが、私の一度めの失敗――。
『二度目』
私は再び春に戻り、二度目の『繰り返し』の世界へやってきた。
はじめましてと微笑むつぐみを見て、何度も泣きそうになり、抱きしめそうになった。
でも私は同じ過ちを繰り返してしまった自分を許せなかった。
自分を罰するように、夏の最後の日に向けて舞の練習に集中し続けた。
「ねえ、美硝。聞いてもいい?」
「……うん」
私とつぐみの夏は、また同じ終着点についた。
私たちはともに『裏』の舞手に選ばれて、『御水祭り』の日を迎えた。本番用の巫女装束をまとい祓神楽の舞台に立った時、つぐみは私をじっと見つめていた。
「美硝は、こうやって舞手に選ばれて良かったと思ってる? 嬉しいって思ってる?」
「……それは」
思いがけない問いかけに驚いて、私は答えることができなかった。
「美硝、一緒に練習している間ずっと苦しそうだった」
「平気だよ。きっとそう見えるだけだと思うから」
「……ずっと言えなかったんだけど、わたしね」
つぐみが何かを言おうとした時、神楽舞の始まりを告げる音が鳴り響いた。
「つぐみ、行こう。最後までちゃんと舞い終えたらゆっくり話そう」
「……うん」
「ごめんね」
「いいよ、後でも。こっちこそ急にごめん」
その時――私は、微笑むつぐみの顔が、私の知っている笑顔と違うと気づけなかった。
『祓神楽』が始まって、表の舞が終わり、扇を神楽鈴に持ち替えた瞬間だった。
「いや! やっぱりできない」
つぐみが神楽鈴を落とし、その場にしゃがみこんだ。
「やだ、やだ、怖い、やっぱりできないよ……ねえ美硝、わたし、ずっと怖い夢を見てたの。神楽舞を最後まで踊ったら、わたしがわたしでなくなるような」
「……っ!」
つぐみは私に何度もごめんなさいと、小さな声で呟き続けていた。
「どうしてだろ、わたし、なんで……怖くて、からだ動かなくて」
「つぐみ、どうしたの」
私も神楽鈴を置き、つぐみのそばにしゃがんで細い肩を抱き寄せた。
怯えて震えるつぐみの眼差しは、わたしの知るつぐみではない。
「もしかして――覚えているの?」
「う、ああ、う」
つぐみのまとう巫女装束の端に青い炎が滲んで見え、あっという間に異形化が始まった。
「こわ、い、嫌、いやだ、こんなの、いや、やっぱり夢じゃ、なかった」
「私のせいなの、つぐみ。私があなたを――あっ」
もう両腕が真っ黒に染まったつぐみが、私を強く突き飛ばした。
「うああう、や、だ、みな、いで……み、す、ず」
どんなに泣いても叫んでも、この悲劇を止められないことはわかっている。
私は金平糖を口に含んだ。
時間が巻き戻り、苦しむつぐみは消えてゆく。私が消してゆくのだ。
「つぐみ、あなたは繰り返す世界ごとに少しずつ違うの? 私は……何人ものつぐみを消しているの? ねえ、つぐみ」
『三度目』
本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか。
神様が私に告げた言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
助けたいに決まってる。そのために私は、何度も春に戻った。金平糖を噛み砕き、繰り返し――三度めの夏。
私は最後まで祓神楽を舞いきった。
でも、つぐみは違った。最初のあの日の私のように、最後に神楽鈴を取り落としてしまったのだ。舞を終えた私は、燃え盛る青い炎に包まれ絶叫した。
「あ、ああ……あああああ!」
次に指先から強烈な痛みが駆け上ってくる。痛みに耐えかねて声をあげようにも、体中が痙攣してもうかすれ声すら出ない。
代わりに響いてきたのは、つぐみの悲鳴だった。
「いや、あ、いやあああああああ!」
巫女装束のつぐみが、私のほうを見て恐怖に顔をひきつらせている。
なんとかこの場から逃げようとしているが、腰が立たないようだった。
待って、つぐみ――と腕を伸ばした時、私は気づいた。
「どうして、何が起こってるの、美硝、どうしたの、あ、あああ」
涙を浮かべたつぐみの瞳の中に映る私は、耳元まで避けた真っ赤な口を開け、つぐみを見ていた。つぐみのほうへと伸びる私の手も、すでに消し炭みたいに真っ黒で、一本一本の指が十数センチ以上に伸びて折れ曲がっている。
「痛い、いや、あああ、助けて……! 誰か、だれ、か……っ!」
異形化した私の手がつぐみの肩に触れ、こきりと小枝を踏んだような感触が伝わってくる。つぐみから離れようとしても、もう私は自分の意志で自分の体を動かせなかった。
「あ、ああああああっ!」
私に首を噛み砕かれたつぐみは、真っ赤な血を噴き出しながら倒れ、大きく痙攣していた。それもやがて途絶えひゅうひゅうと空気の漏れる音だけが聞こえてくる。つぐみは恐怖にひきつった顔のまま、息絶えた。
私が、つぐみを殺したのだ。
「ねえ、つぐみ」
血だまりのなかに倒れるつぐみに、私は声にならないまま呟いた。
「最初の夏と同じことをしちゃった、私。ひとりで祓神楽を踊る罰、こんなに苦しかったのね。ごめんね。あなたは今どこにいるの? ねえ、今ここにいるつぐみは、誰?」
《もう踊るのを止めるか、愚かな舞手よ》
神様の声が、私に届く。
《人でないものとなれば、何もかも忘れられるぞ――それともまだわれに挑むか》
私は頷いた。
《まこと愚かよ、ではもう一度舞うがよい》
鼻先に何かが触れた。ころんと、一粒の金平糖が転がり落ちてきた。
つぐみの血の匂いにまみれた口を開け、私は金平糖を含んだ。
「次のつぐみは、このことを覚えているのかな」
私は、今まで出会った、少しずつ違うつぐみのことを思い出した。
繰り返す世界の記憶が、つぐみのなかに断片的に残っているような気がしてならない。
「ごめんね、もう苦しくはない? 怖がらせてごめんね、次は……次こそちゃんと……」
光を失ったつぐみの瞳はずっと――私のほうを見つめていた。
『四度目』
私は、また何も始まっていない穏やかな春の時間のなかに戻ってきた。
校舎の片隅に私は佇んでいた。生徒たちが教室へ向かってまばらに歩いていく姿が見える。何度も目にした、なにげない朝の光景だった。
「あっ……」
軽やかに走ってゆく誰かの背中がみんなつぐみに見えて、私は思わず手を伸ばしそうになる。
「つぐみ……待って……」
うわごとのように声が零れ、私は自分の口を押さえた。
もう忘れたの――ほんの少し前の、恐怖にひきつったまま死んだつぐみの眼差しを。
私はこれまで三度もつぐみを救えず、苦しませ、消し去ったのだ。
「ああああああっ!」
私は叫び、握りしめた手を地面に打ちつけた。
「また、またわた、し、あなたを、あなたを……どうして、どうしてなの、ねえ! どうしてっ!! どうしたらいいの!」
拳に小石が突き刺さり血が流れだしても、私は止めなかった。
こんな痛み、絶望のなかで息たえたつぐみに比べれば償いになんてならない。
何度、時を戻して頑張っても、そのたびにつぐみに苦しい思いをさせている。
私がどんなに頑張っても、つぐみの中に残った繰り返しの記憶がある限り、最後まで一緒に舞うことなんてできないのかもしれない。
「もう、ぜったい、わた、し――のこと、きっとゆるして、くれな――」
「どうして泣いているの」
柔らかな手が、私の背中をさすった。
それが四度目のつぐみで、彼女は優しくて、朗らかで、この『繰り返し』が始まる前のつぐみにそっくりだった。私は本当に久しぶりに……笑うことができた。今度こそ、と心の底から願った。今度こそ、このつぐみを、私は傷つけたくない。
また夏がやってきて、私とつぐみは『祓神楽』の舞台に立った。
表の舞は無事に成功し、裏の舞も最後の振りまでたどりついた。それでも私は気を緩めず、神楽鈴をぎゅっと握りしめて舞続けた。
「ねえ、美硝。ずっとこうしたかったの」
「えっ」
突然、つぐみがそう呟きながら神楽鈴をすっと前に突き出し、その手を開いた。
神楽鈴はゆっくりと落ちていくのを、つぐみは微笑みながら見つめている。
「……どうして」
「何故かわからないの。でも美硝のことを……あなたを許さないってずっと思ってた」
「覚えて、いたの」
「わからない、でも、許せない。許せなかったの。苦しくて痛くて……っ」
つぐみの巫女装束の袖に、青い炎が宿る。
また神様の罰が始まったのだ。つぐみは青い炎に包まれながら、泣いていた。
「わかんないよ、どうして? わたし、どうしてあなたを――」
「いいの。つぐみは悪くないよ。全部、私のせい。私を許さなくていい」
「ねえ、ほんとに、ずっと……み、すず……」
つぐみの手が何かを言いたげに私のほうへと伸びてくる。
だけど私は、その手を取らなかった。
そんな資格、私にはない。
何度もつぐみを苦しめている私が彼女の手を取り、ほんの一瞬でも許された気持ちになんてなっちゃいけない。
「さようなら、つぐみ。苦しくなる前に、終わらせるから、ね」
ガラス瓶から、金平糖をつまんで取り出す。からん、と空しい音が鳴った。
私は、つぐみを救いたい。本当にずっとそう思ってる。
でも――私はきっとそこから、どんどん遠ざかっている。
『五度目』
五度目の春に戻ってきた私は、もうどうしていいのかわからなかった。
教室の片隅で俯く転校生を、つぐみはすごく心配して、優しい言葉をいくつもかけてくれた。一緒にお昼を食べようかとか、練習しようとか――彼女が人懐っこい笑みを浮かべるたびに、胸がつぶれそうなほど切なかった。
「ねえ、美硝さん。わたし、美硝って呼んでもいい? あ、もちろん逆もね」
「えっ」
七月まであと少しという頃、練習場に向かう廊下で、つぐみが唐突にそう言った。
「つぐみって呼んでみてほしいの」
「……どうして」
「あ、すっごい理由とかじゃなくてね。なんだか不思議な距離感だなって思ってたんだ。そういうのなくなったらいいなって思って」
「不思議って、何かあったり……した?」
「何かとかじゃないよ。美硝さんといると、幼馴染と一緒にいるみたいな気持ちになるなあって。わ、なんかこういう言い方気持ち悪いかな」
「ううん。そんなことない」
「良かった。でもね、同じくらい……美硝さんが遠くにいる感じもするの。こんなに近くにいるのにどうしてなんだろうっていうくらい」
つぐみは立ち止まり、少し恥ずかしそうにはにかんでいた。
「思い切って聞いちゃおうかな。美硝さん、もしかしてわたしのこと……苦手?」
「そんなわけないよっ」
思わず出てしまった大声に、私は口元を覆ってつぐみに背中を向けた。
「……ご、ごめんなさい」
「謝らないで、だって今のわたしが変な質問したから」
「違うの、苦手なんかじゃない。そんなわけないよ、だってつぐみは……」
本当に優しいから――と、私はその言葉を呑み込んだ。
その優しさに、私は触れていいのだろうか。
どれだけ舞を練習して失敗しなくなっても結末は変わらなかった。心の底からつぐみを救いたいと思っていても、何かが歪んでしまっている気がする。
「……良かったあ、いまね、わたしのこと、つぐみって呼んでくれた」
振り向くと、つぐみが目の端に涙をいっぱいためて佇んでいた。
「ど、どうしたの」
「わたし、ずっと美硝さ……美硝に嫌われてるのかなって思ってた」
「そうじゃないの、本当に。私、つぐみを嫌ったりなんてしないわ」
「うん。わたしね、そんなことを考えてた自分にちょっと怒ってるよ」
涙を指先でぬぐい、つぐみは唇の端をきゅっとあげる笑顔を見せてから私を強く抱き寄せた。
「ごめんなさい、美硝。もう変な質問なんてしないよ。夏まで一緒に頑張ろう」
「……うん。ありがとう」
つぐみの心臓の音が、制服ごしに伝わってくる。
私はその音を聞きながら、涙を必死にこらえた。
歪みの正体に朧げに気付いたのは、その五度目の夏だ。
それは、つぐみの優しさだった。
『祓神楽』の舞台で、私の持つ祓神楽の紐が唐突に切れた。それでも私は舞を止めず、そのまま踊り続けた。もしこの選択が間違いであったとしても、神の罰を受けるのは私だ。その時はつぐみを傷つける前に消えようと心に誓っていた。
「美硝、わたしの鈴を使って……!」
つぐみは私の神楽鈴の紐が切れていることに気付き、自分の鈴を差し出した。私のことを思ってとった行動が、つぐみに神の罰を与えた。
“神様、わたしを殺して――”
つぐみは自分が異形化するとわかった時、そう叫んだ。
その願いは叶い、つぐみは命を奪われ……美しい亡骸となって私の前に横たわっている。
《また、やってきたのか》
真っ暗な闇のなか、そこだけ光る水飛沫に浮かぶ翁の面が私に囁き続ける。
神様の声に、私は力なく返事をした。
「――はい」
《お前も自分の愚かさがわかってきたであろう》
「私のせいだったんですね……」
涙が流れえば、どれほど楽だったろう。だけど私の目からは一粒の涙もこぼれなかった。
「私に優しくしたせいで、つぐみはまた死にました」
もしかしてわたしのこと、苦手――とつぐみに尋ねられた時、何も言わずにその場から立ち去ればよかったのだろうか。傷ついたつぐみは、私と最後に舞う時どんな選択をするのだろう。
「私と会わなかったら、つぐみは何度も死なずにすむけど、でも」
《ようやくわかってきたのか、ならばこの賭けから降りるか》
「いえ、やめません。私が望む結末はこんなじゃない」
繰り返しを止めて、私が消えてしまったら――最初の夏にいたつぐみはどうなるのだろう。
私は膝をおり、地面に横たわるつぐみを見つめた。私と同じ巫女装束をまとうつぐみの指先に触れると、もう冷たくなり始めていた。
「ごめんね、つぐみ」
私はつぐみの隣を歩いていた日々を思い出した。学校の廊下や雨の通学路。何気ない記憶が鮮やかにいくつも蘇る。ただそれが何度目のつぐみなのか、もうわからなかった。
「もう私の中の寂しさも悲しさも全部ここに置いていくね。どれも、つぐみを救わなかったから」
心が凍り付いてゆく。誰かに嫌われるのが怖くて、雨音のような耳鳴りが続いていた日々とは正反対のしんと静まり返った世界が私に訪れる。
「……つぐみ、優しくしてくれてありがとう。この先の世界でも、たぶんつぐみは優しくしてくれるよね、あなたはそういう人だもの」
私は開いたままだったつぐみの瞼を閉ざした。
「私、あなたを傷つけるかもしれない。優しくしてくれた気持ちを拒むかもしれない。そんな時は……私のことを嫌ってね。もういいの、もう優しさはたくさんもらったから」
わたしを殺して――そう呟いたつぐみの唇に私は触れた。
まだ柔らかさの残る、でも命を失った冷たい感触が指先に伝わってくる。
「だけどあなたにこんなことを言わせる未来なんて私が許せない。何人ものつぐみを苦しめて、そんな終わりを迎えさせる私を――私は許さない。だから、もう一度……いくね」
『六度目』
「四ノ宮美硝です、よろしくお願いします」
――六度目の春。
私が名前を言ったあと、一人の生徒がおずおずと手をあげながら言った。
「あの、“青様”もそのまま継続されるのでしょうか」
「はい。私が、舞います」
隣で答えようとしていた教師よりも早く、私は言った。
クラス中の誰もが、呆然と口を開いて私を見ている。窓際に座っていたつぐみもだ。
私は誰とも視線を交わらせず、静かに席につく。
「……あの、美硝さん。わたし、あなたと一緒で、舞手候補の」
「如月つぐみ。お名前は知っています」
「そ、そうなんだ! びっくりしたー、あの放課後に練習場に行くのが決まりなんだけど、良かったら一緒に行かない? 一伽も舞手候補だからみんなで……」
「大丈夫です。練習場の場所はもう覚えているから平気です」
「え……す、すごいね。転校する前から、ここのこと調べて来たんだね」
つぐみの優しさは、この世界でも変わりなかった。
でも、私はその優しさを受け流し続けた。私はつぐみに頼ることも、頼られることもしない。
彼女の心が揺れるたび――例えば私の為を思ったり、あるいは拒否したりするたびに――最後の日の失敗へ繋がる気がしたからだ。
だから私は、限りなくフラットに、この『繰り返しの世界』を揺るがさないようにした。
出来る限り誰とも話さす、ただ練習に打ち込む私のことを、誰かが“氷の女王”と呼んでいた。
その呼び名はなにも間違っていない。確かに私の心は、何度も凍り付いているから。
それでもつぐみは、私を受け入れてくれた。
七月、私にとって六度めの夏、私とつぐみは『祓神楽』の舞台に立った。つぐみの緊張が伝わってくるなか、私も唇を噛んで舞い続ける。
何度も頭の中に浮かぶ、これまでの結末を振り切りながら、『表』と『裏』の舞をついに舞いきった。隣を見ると、つぐみも私と同じ姿勢で立っている。
「……美硝さん。きれいだった」
「最後まで、踊れた」
「うん。最後まで。わたし、美硝さんと一緒に踊れて嬉しかった」
「やっと……終わったの……?」
つぐみが笑っている。口の端をきゅっと上げた、人懐っこい笑顔だ。
私の知っている、私に普通の世界をくれた、優しい笑顔。ずっと見たかったつぐみの顔だった。
「どうしたの、美硝さん。泣いてる。ほっとしちゃった?」
「……ううん。つぐみが笑ってくれたから、嬉しくてたまらなくて」
「えー、わたしってそんなにいつもムムって顔してたかなあ」
「いいえ。違うの。ごめんなさい」
私の涙を拭おうと、つぐみが手を伸ばしてきた。
柔らかな指先が私の頬にふれた瞬間――
「なんで、なんでなの!!」
つぐみの指が黒く染まった。
「全部、最後までちゃんと舞えたのに、どうして! どうして!!」
まただ。また、つぐみが黒い闇に呑まれてゆく。
「私のせいなの? つぐみが私にしてくれたことを嬉しいって思ったから? 神様どうして!」
つぐみの骨が砕ける音がした。
「最後まで舞えたのに、今度こそはうまくいくって、つぐみを救えるって思えたのに――!」
あの笑顔が、手が、真っ暗に穢されてゆく。
「やっぱり私が……ここに……こなければ……良かったの、最初からここに……」
私は、神様に願うことを間違ったのかもしれない。
最初から何も始まらなければ。私という舞手候補が、つぐみのいる世界にいなければ。
そうしたら、つぐみは救われるのだろうか。
「……ごめん……なさい……つぐみ」
「美硝、さん」
「……っ!」
「わたし、知ってる気がする……美硝さん、は、優しくて、本当はね……すぐ泣いちゃう人なのかなって……」
「つぐみ……だめ、どうしてつぐみなの……私を、これなら私を……!」
異形と化したつぐみの腕が、私の腹部を貫いた。
全身の力が抜けて、私の体はつぐみの腕に寄りかかるように傾いた。肺から溢れてきた血が気道をのぼり、ごぼっと音をたてて口から流れ落ちる。
つぐみはそんな私を、まだつぐみのまま(傍点)の眼差しで見つめていた。
「このまま……つぐみに食べられて……つぐみと同じものになれないかな……そうしたら、ね、つぐみ……寂しくはない、かな……」
私にはつぐみを救うことはできない。
どんなに強く願っても、いつもこの結末に辿りついてしまう。
「何度も、何人ものあなたを絶望させる私の願いに……意味なんてあるのかな……」
もう体に力が入らない。
本当は声すら出ていないのかもしれない。
ずっと、ずっと前。つぐみに友達になろうと言われたあの日よりも前の、教室の片隅で消えそうになっていた私みたいだ。
もう前に進む力は残っていない。
ただ、消えてなくなりたいと――私はそう、願っていた。
「美硝さん。わたしは大丈夫だよ、だから行って」
「……つぐみ?」
「今までのわたしが、怖かったのも苦しかったのも、怒っていたことも本当。全部わたしだった、でもまだ他にもあるの、他のわたし」
「つぐみ、あなた私のことを――」
「きっと、本当の美硝さんを探しているわたしが、いるから」
「私のせいで、また嫌な記憶を重ねてしまうの――?」
「嫌なんかじゃないよ。待ってるね、わたしも変わるよ、頑張るね」
「……うん」
「きっと、新しいわたしが美硝さんを探しているから、最後まで」
「……ごめんなさい」
「美硝さん、違う……ごめんなさいじゃなくて……ほら」
「――もう一回」
つぐみは頷くと、私の体を貫いていた腕を自ら引きちぎった。
反動で地面に崩れた私の手元に、ガラス瓶が転がり落ちてきた。
私は力の限りをふりしぼり、最後の金平糖を拾って――噛み砕いた。