転校生だった、春の始まり

文字数 6,676文字

 私は、転校生だった。
 記憶のなかのこの街はいつも雨だった気がする。
 それは私のせいだ。ざあざあと雨音のような耳鳴りがしていたのは、転校してくるよりもずっと前からだ。
 私は自分の思っていることをうまく口にできず、他人が何を考えているのかをすぐに察することが苦手だった。暗いとか、何を考えているのかわからないとか、気持ち悪いとか――ひそひそと自分の名前を誰かが呟いていることに気付いた時から耳鳴りが始まった。
 陰口が聞こえなくなったことに少しだけ安心したけれど、私は誰とも話せなくなった。
 冬を過ぎたら、春がやってきたら、何かが変わるかもしれないと思っていた。でも、私の耳鳴りが止まなかった。
 桜が咲いて、新しい学年になって――私は制服に袖を通すのが怖くて仕方なかった。
 そんな四月の始め、私に思いがけないある機会が転がり込んできた。
 京都のお嬢様学校に通う従姉妹が事故にあい、彼女の代わりに転校してきてくれないかと言われたのだ。
 従姉妹は、その学校の伝統行事『祓神楽』の舞手候補のひとりに選ばれていたらしい。
 たまたま従姉妹と同い年で――どこか遠くへ行きたかった私は、伯母からの相談にすぐさま頷き返して転校した。

   *

 四月も半ばをすぎ、桜が散り切る季節。
 教室のなかの“異物”になってしまった私は、ただ“普通”になりたくて京都へやってきた。

「四ノ宮美硝さんです。今日からこのクラスに編入なさいます」
「よろしく……お願いします……」

 黒板に書かれた私の名前を見て、目の前にいる生徒たちがはっとしている。
彼女たちは、私がここへ来た理由を知っているのだろう。
 私は四ノ宮家――つい数日前までこの『双葉葵学院』に通っていた、同じ苗字の従姉妹の身代わりに転校した。

「先生、青様のお引継ぎも……美硝さんがされるんでしょうか」

 気の強そうな子が、ぱっと手をあげて質問した。教室にいる他の子たちも気になって仕方ないといった様子で私を見ている。

「あの……」
「そうですよ。“四神選抜”は一度しか行えませんから。皆さん、四ノ宮さんのお力になってさしあげてね」

 口ごもっていた私を見かねて、先生が口早に答える。
 私は小さく一礼し、指さされた自分の席についた。

「美硝さん、大丈夫? お顔の色が少し悪いような気がします」
「へ、平気……です」
「そう? 私、霜鳥一伽と申します。このクラスの――」

 緊張のせいかいつもより耳鳴りがひどくて、彼女の声が途中からほとんど聞こえなくなる。私はろくに返事もできないまま、顔を伏せてしまった。

「……ごめんなさい、なんでもないんです」

 教室の空気がぴりり、と震えている気がした。
 私は背が高めであまり愛想がよいとは言えない顔立ちだ。おまけに従姉妹みたいに舞をきちんと習ったこともない。見た目も中身も従姉妹と正反対の私に投げかけられるのは、きっとたくさんの好奇心のかたまりだろう。
 まだ四月なのに、湿度が高いせいか空気がは重く、長く伸ばした髪の内側に熱がこもって暑くて仕方なかった。

 ――ここでなら、私は普通になれるかな。
 ――私がいてもいいって世界に変えられるのかな。

「チャイム、鳴ったよ」
「……え」

 指先にくすぐったさを感じて顔をあげると、一人の女の子が机の横にしゃがんでこちらを見ていた。

「よかった。手、そんなに冷たくなってないね」
「あの」

 知らない間に、彼女の指先が私の手に触れている 。

「緊張すると指まで冷たくなって、倒れちゃう人もいるんだって」
「……大丈夫、です」
「わたし、如月つぐみ。さっき話しかけてた一伽と、それから美硝さんと一緒なの」
「一緒?」
「うん。舞手の候補者。学校のこととか、舞手の決まり事とかはたぶん一伽のほうが説明上手だと思うけど――よろしくね」

 如月つぐみの人懐っこい瞳が私をまっすぐ見つめている。
 だけど、私はまだちゃんと顔をあげるのが怖くて、ずっと俯いたままだった。
 私がやっと顔をあげられたのは、五月。
 息をするたび、新緑の匂いが胸いっぱいに広がるころだった。



「みーすずさんっ」

 とん、と机の端に細い指先が現れた。

「き、さらぎ、さん」
「うわぁ!」

 驚いた私が立ち上がった拍子に、机の前でしゃがんでいたつぐみが床にしりもちをついた。

「ご、ごめんなさいっ……! あの、どこかぶつけましたか」
「大丈夫、てかごめん! 驚かせちゃったのはわたしのほう!」

 私の手を取り立ち上がったつぐみは、はにかんだ顔を見せてからぺこりと頭を下げた。
 放課後を迎えた教室に残っていた数人の生徒たちは、そんなつぐみのことを見て微笑んでいる。つぐみはお嬢様だらけの生徒たちのなかでは、すごく普通寄りの子だった。

「あの、すぐに練習にいく支度しますね」

 放課後、舞手候補に選ばれた生徒は練習場に集まるのが日課だ。

「いいよ、そんなに急がなくて」
「……?」
 
 ペンケースやノートを鞄につめこんでいる私の手を、つぐみがぽんぽんと優しく叩いた。

「今日ね、一伽と瑠璃ちゃんがどうしても家の用事で早く帰んなきゃいけないんだって。先輩たちは練習お休みにしていいって言ってたけど」
「そうなんですね。じゃあ今日はまっすぐ家に――」
「どうする?」
「えっ?」
「二つ考えがあってね。そのいち、一緒に帰って途中で寄り道などをする。そのに、ちょっとだけ自主練して、しかるのち一緒に帰って寄り道をする」
「いち、に……?」

 まるで別の国の言葉を聞いているように頭の中が混乱して、私の目はまん丸になる。

「え。だめですか、ちょっといきなりすぎましたか」
「だめとかじゃなくて……あの、ちょっとわからなくて……私、放課後に練習以外でなにか、誰かとするのって今までなくて」

 しどろもどろな答えしかできず、なんだかやけに恥ずかしくなってしまった。
 気まずい沈黙が数秒流れたあと、つぐみが突然私の手を強く握りしめた。

「じゃあ、そのに、でいきます」
「ちょ……待って、如月さん、あっ」
「実は最初から、そのにの方にしちゃおうかなって思ってた」

 つぐみは空いているほうの手で、ポケットから小さな鍵を取り出してにこりと笑い、そのまま走り出した。



 つぐみがポケットから取り出したのは、練習場の鍵だった。
 息をきらせながら扉を開けたつぐみが先に入り、私を小さく手招きする。いつもなら指導役の先輩や、舞手候補の一伽と瑠璃が一緒だが、今日は私とつぐみのふたりきりだ。

「とりあえず、柔軟と基本でもやろうか」
「は、はいっ」

 教室の片隅に荷物を置き、私とつぐみは手足をほぐした。
 転校してきてから一カ月、私も、他の皆も毎日ずっとこうやって放課後を過ごしている。

「一、二、三、四――」

 柔軟を終え、今度はつぐみのカウントに合わせながら、神楽舞の基本の動きをなぞる。
つぐみの声はよく通って、室内の隅々まで響く。
 私はそんな風に声を出したことなんてなかったから、少し苦手だった。 

「あっ……」

 わずかに体の重心がずれたと思った時にはもう遅く、バランスを崩した左足を無様に突き出してしまった。

「……ごめんなさい」
「大丈夫、もう一回最初からやってみようか」
「はい」

 間違わないようにと集中したけれど、私はその後も何度か失敗して、つぐみにカウントを繰り返させてしまった。

「如月さん、何回も本当にごめんなさい」
「大丈夫だよ、でも今日は練習おしまいにしようか」

 つぐみは一度大きく伸びをしてから床に座りこみ、自分のすぐ横をぽんぽんと叩いた。

「いいん……ですか?」
「だって自主練だもの。それよりほら、美硝さんも座って!」

 そう言われてやっと、私はつぐみが隣に座ってというサインを送っていたのだと気づいた。私はそんな簡単なことがすぐわからず、顔がかっと熱くなり、つぐみた叩いた場所より少しだけ離れて腰を下ろした。

「ふふふ、ちょっと遠いよ。てか、わたしがそっち行ったらいいのかな」
「あ、あの」

 私が距離をあけたぶんを、つぐみはあっさり詰めてきた。
 膝があたりそうになって、私はスカートの裾をぎゅっと握る。

「わたしたち、いつも一緒でしょ」
「えっ――」
「練習、四人でやるし。瑠璃ちゃん以外はクラスも一緒だしね」

 あ。いつも一緒って――それは四人でという意味だったのか。
 自分の誤解が恥ずかしくて、また体の内側の熱があがる。

「こうして二人になれるタイミングがあったら言おうと……ううん、言わなきゃって思ってることがあってね。だから一伽たちがいないって聞いたとき、絶対今日だって思ったの」
「なんでしょうか」

 びくん、と体が強ばる。
 誰かが私に何かを言う――私にとって、それはとても怖いことだ。嫌われているか、からかわれるか、その両方のときもあった。心臓が勢いよくはねて、全身を流れる血の音が聞こえてくるようにすら感じられる。

「ごめんなさいって、言わなくていいよ。だって美硝さん、何も悪くないもん」

 一瞬、私はつぐみの言葉が理解できなかった。
 その時の私は、ぱくぱくと口を開いて、酸欠の金魚みたいな顔になっていた気がする。
 恥ずかしくて苦しくて、今すぐここから消えてなくなりたい。
けど、その願いはかなわないので、私は思い切り顔を下に向け床を見つめた。

「でも私、みんなについていけなくて、迷惑かけているから」
「失敗しちゃうのは仕方ないけど、それって悪いことじゃないでしょ。美硝さんサボってるわけじゃないし。すっごく真面目にやってるの知ってる」
「――でも」
「ごめんなさいってもう言わなくていい……けど、言いそうになったら、わたしに“もう一回!”って言うの……とかどうかな」
「……」
「なんでかっていうとね――美硝さん」

 私の心臓はまだスピードを落としてくれない。

「あのね、わたしと一緒に練習してほしい」
「……えっ」
「神楽舞はふたりで踊るものって、知ってるでしょ」
「は、はい」
「だから、わたしと――」

 つぐみは四人の舞手候補のなかでも、一番早く舞を覚え、美しく踊った。
 私は初めてつぐみが基本の舞を披露したときの、柔らかな体のしなりや、繊細な指先の動きを覚えている。桜の花びらが光のなかで舞っているみたいで、本当にきれいだった。
 そんなつぐみが、どうして私なんかと――胸の奥で、心がぎゅっと縮む音がした。

「私があんまりに踊れないからですか」

 夏までに二人一組で踊る舞を完璧に覚えなければいけないのに、私は基礎すらうまくできない。もう半月以上練習しているのに、重心を上手く取れず、ふらふらとよろけて壁に手をついてしまう時もある。

「このままじゃ夏までにとても間に合わないから、ですか」
「そんなの、考えたことなかった」

 きょとんと私を見返すつぐみの顔は、心の底から驚いているようだった。

「わたし、美硝さんが舞うの見てきれいだなあって思ったから」

 今度は私が驚く番だ。

「どこが、だって私は……」
「背が高くて手も足も長いでしょ、それから髪がきれいなところ。舞で回る時にね、美硝さんの髪はきらきら光って見えるんだ」
「私、そんなじゃないです。如月さんと違いすぎる。きれいでも、頑張っても……ない、皆のなかで一番、踊れないから……」
「わたし、本当にきれいだなって、この人と踊りたいなって思ったんだよ」

 まっすぐ私を見つめているつぐみが、嘘つきだなんて思えない。
 だけど私は、きれいだと褒められた自分のことを信じられなかった。

「わかった。うん。そうだよね、まだ美硝さんは転校してきたばっかりで――」
「……?」
「わたしのこと、何にも知らないんだもん! 怪しいよね、わたし。わかる。だってすっごくいきなりで、なれなれしいよね!」
「き、さらぎ、さん?」

 つぐみは私の手をぎゅっと握って立ち上がった。

「だから知って、わたしのこと。美硝さんがわたしと踊りたいって、ちゃんと思ってほしいから!」
「待って、ねえ、あの――」



 鞄を抱えて学校を後にしたつぐみは、私を引っ張ったまま六角通りと呼ばれる通りをどんどん進んだ。しばらく歩いた先に、古い町屋作りの大きな和菓子屋が見えてくる。

「最初にいった、そのに、の話覚えてる?」
「寄り道……?」
「うん。ここのお店、すごく気に入ってるの。季節ごとに味が変わる寒天ゼリーがあるんだよ。一緒に食べよう」
「えっ、お店見るだけじゃなくって、如月、さんっ」

 返事を待たないまま、つぐみは頷いて店の奥にあるテーブル席へと向かった。
 私はつぐみと向いあわせに座り、つぐみと同じものを頼んだ。こんな風に同級生と寄り道をしたことなんて初めてで、私の頭の中は真っ白になっていた。

「もしかして、校則違反にならないかなって心配してる?」
「や、そ、そんなじゃなくて」
「大丈夫だよ、先輩たちも時々ここに来てるし。うちの学校の校則ってちょっと変で、品位を失わなければいいんだって」
「……たしかにここのお店、すごく昔からあるっぽい、ですね」
「うん。それに美味しい」

 ちょうどその時、私とつぐみが頼んだ抹茶の寒天ゼリーが運ばれてきた。

「五月に一緒に来られて良かった」
「どうしてですか?」
「六月は、梅酒の蜜だから怒られちゃうかもしれない」

 つぐみはスプーンでゼリーをひとすくい口に含んで、満足そうに頷いている。おずおずと私も食べ始めた頃、つぐみは人懐っこい笑みを浮かべてから、話し始めた。

「それでは、本題を始めます。如月つぐみという……えーと、わたしがどういう子なのか、知ってください」

 それからつぐみは、自分のこと――どんな子供で、何が好きで、自分がした失敗や、嬉しかった思い出とか――を私に聞かせた。リズミカルなつぐみの口調は心地よくて、私は相槌を打ちながら可笑しなエピソードたちに思わず引き込まれていった。

「でね、大好きすぎてずっと抱っこしてた猫に引っかかれた傷が顔にできて。三本ギャッとここにだよ」

 つぐみが指で頬を斜めになぞり、困ったように眉を寄せる。

「学校で噂になったの、京都で一番のお嬢様を決める戦いでついた傷だって」
「……ふふ」
「あ。笑ってくれた。わあ、美硝さんそんな風に笑うんだね」
「えっ、笑っちゃ……いけなかった話、なんですか」
「ううん、違う違う! やっと笑ってくれたって良かったあ。さっきのでわたしの話ぜーんぶ出しちゃったから」
「……どうして、私が笑うのが、そんなに」
「だって、フツーに友達になりたかったんだ。練習も大事だけど、こうやってどうでもいい話して、笑ったりするの」

 つぐみが、きゅっと唇の端をあげて微笑んでいる。
 普通の友達。笑いあって、何気ない話のできる普通。
 私には眩しくて遠くて、そこに行きたいと望んだ世界だ。

「あっ……」

 私は、ずっと鳴り続けていた耳鳴りが止んでいたことに気付いた。
 つぐみは、私のなかに降り続ける雨を止めてくれたのだ。
 お店のなかで雑談をかわす見知らぬ誰かの声、通りを行きかう雑踏、街に溢れているたくさんの音が私の耳に飛び込んでくる。

「どうしたの、美硝さん。えっ泣かないで、わたし、何か……ヘンなこと言っちゃったかな」

 つぐみが驚いた声をあげて、私の頬に手を伸ばしてきた。
 はっと自分の目元に触れてみると、涙で濡れている。

「ごめんなさい、急になんだか……あっ」

 私はつぐみに言われたことを思いだした。

「もう一回……は、こういうとき使うの、変ですよね」
「うん、ちょっとだけタイミング、違うかな」
「ふ、ふふふ」
「あ、また笑ってくれた」

 私は涙をぬぐって残っていたゼリーを全部食べ、ひと呼吸おいてからつぐみをまっすぐ見つめた。声が震えないように、きゅっと喉に力をこめる。

「明日から――一緒にがんばっても、いいですか」
「うん。一緒だよ、わたしたち。一緒にがんばろ」

 ありがとう、とうまく言えなくて、私はこくこくと頷き返した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み