ふたりの時間
文字数 4,662文字
『御水祭り』の朝は、からりと晴れた青空が広がっていた。
気温はすでに高く、色とりどりの団扇が街のそこかしこでゆらゆら揺れている。
絞りの兵児帯を背中で揺らす小さな子供たちが、行きかう人たちの合間をすりぬけていく姿は金魚に似ていた。つぐみたちと同じ年の少女たちはもう少し慎ましやかに慣れない下駄を鳴らしていた。
祭りは双葉葵学院からちょうどまっすぐ西に向かった先、二手に分かれた鴨川の中心部分にある神社の末社で執り行われる。
そこには東西どちらからも橋を渡らなければ辿りつけない。川を渡ると背の高い針葉樹が鬱蒼と並んだ森が広がり、今まで流れていた汗が嘘のように引いていく。世界が変わったのだ、と思わされるほど空気が変わってしまう場所だ。
神社の中を流れる清流は、普段立入ることができない。幾本ものしめ縄がかけられたわずか三日間だけが人々に許された時間だ。
人はその神域から湧き出た清流に足をつけ、無病息災を願う。
祀られた神々は古都に集まる穢れを呑み込み、祓うと言う。
祓神楽は――神と人々の狭間で舞われる。
*
つぐみと美硝は神社の一番奥に佇んでいた。
そこは清流の源、地下水の湧き出す小さな泉がある場所。祭りの最中といえど立入禁止とされていて、泉へと続く道の入り口にあたる拝殿は固く閉ざされたまま。
裏の舞手として選ばれたつぐみと美硝の舞台はこの神聖な泉だ。
泉の水面とほぼ同じ高さに床が敷いてあり、足元を水に浸したまま舞わなければならない。
遠くからわずかに聞こえてくる祭り囃子、風が揺らす葉擦れとかすかな虫の鳴き声。ふたりきりのこの場所で聴こえてくるのはそれだけだった。
――一伽と瑠璃さんも、緊張しているだろうか。
表の舞手である一伽と瑠璃とは、朝、神社の控室で着替えをしたあとすぐに別れた。今は神社のなかにある神楽舞の舞台に立っているはずだ。
つぐみたちも今まで一度も袖を通したことがなかった本番用の装束を纏い、舞が始まる時間を待っている。
「美硝さん、やっぱりすごく似合うね」
つぐみが頭につけている冠飾りが、しゃらんと音をたてた。
冠は銀色の薄い短冊が何十枚と重なり合っていて、少し頭を傾けただけでも重心が変わってしまう。つぐみは出来るだけ小さく首を動かし、美硝のほうを向いた。
隣に立つ美硝の髪が、千早と呼ばれる真っ白な上衣の上で鮮やかに輝いている。
もしもわたしが神様だったら、美硝さんのような人に舞ってほしい。
そう思えるような神聖さが、美硝に宿っていた。
「……なに、そんなにずっと見て」
「ううん。なんでもない。あ、これって美硝さんの口癖だよね。すぐなんでもないって言うでしょ、美硝さん」
「そうだった?」
「うん。言うよ。ほんとはね、もっとなんでも言ってくれたらいいのにって思ってる」
「いいの。わたしはもう」
「美硝さん。今言おうか迷ってたんだけど、ね」
「……どうしたの」
「舞が終わったら一緒に金平糖を食べよう?」
美硝がはっと顔をあげ、つぐみを見つめた。
「前に一緒に行ったお店で、美硝さんがじっと見てたでしょ。神様の水を使った金平糖。わたし、買ってきたの。だから舞が終わったら、一緒に食べたいなって」
つぐみは精一杯、微笑んだ。そうすればきっと、美硝も少しは笑ってくれるような気がした。
「美硝さん、何か願い事、あるんでしょ?」
「つぐみは、いつもそんな風に笑うのね」
「えっ……?」
美硝の瞳から、涙が零れて落ちた。
つぐみがそれを拭おうと手を伸ばしたとき、神楽の調べが風に乗って届き始めた。
ついにつぐみと美硝が舞う時間がやってきた。
ふたりは最初の振りの立ち位置についた。遠くから響いてくる神楽の旋律に耳を澄ませ、その音に呼吸を合わせる。
深い木々に囲まれた泉の中の舞台で、ふたりは舞い始めた。
観客のいない、神様だけに見せる神楽舞――何度も練習を繰り返した振りなのに、つぐみは指先が痺れるほどの緊張を感じていた。
二本の扇を使い、この世にある美しいものを表す振り。
つぐみが練習で失敗し続けた、扇を指先でくるりと回す部分もなんとか乗り越えられた。
ああ、とつぐみは体が軽くなるのを感じた。指先の皮がむけて血が滲んだことも、皆の舞を何度も止めて悔しかったことも――全部、いま体の中に溶け込んでいった。このたった一瞬に、一伽や瑠璃や美硝、先輩たちと過ごした時間は向けられていたのだ。
つぐみは無心になって踊り続け、神楽舞は二巡めにさしかかった。二巡めは同じ振りを左右対称に踊りながら、互いの場所を交互に入れ替えなければいけない。
つぐみは、美硝を見た。美硝もつぐみと視線を交えた。
手の角度も、すれ違うタイミングも、全て同じ呼吸で重なり合う。
ふたりは一度も間違えず、鏡に映し合ったように『表』の舞を踊りきった。
ここから、わたしと美硝さんだけ、たった一度しか許されない『裏』の舞。
一度舞台の中央から離れ、扇を置き、神楽鈴を手にする。
みっちりと重い、本物の神楽鈴だ。踊りが始まるまでは音を鳴らさないように、ふたりは静かに神楽鈴を持ち上げる。
つぐみは自分の呼吸が浅くなっていることに気付き、気を引き締めた。
つぐみと美硝は舞台中央に並び立ち、顔を見合わせ頷いた。ここからは音楽も拍子もない。手に持つ鈴の音と、二人の呼吸だけで舞を合わせていかなければならない。
すうっと息を吸った後、二人は同時に手首をひねる。
しゃらん。
鳴り響く神楽鈴の音に、聞き覚えがあった。
……あの、白昼夢の――始まりの音?
つぐみは息を呑み、一瞬弛んだ集中力を取り戻した。
ここで失敗するわけにはいかない。もう舞は始まっている。
美硝と呼吸を合わせ、ゆっくりと足を踏み出し、神楽鈴を振る。
しゃらん、しゃらん。
時間がやけにゆっくりに感じられて、たった一度しか舞えないはずの『裏』の舞を延々と続けている気さえしてきた。
“穢れを天に還すことを神に赦してもらい、人にあらず神にあらず鍵となりて、
結界を開く役目を神楽舞にて果たす”
『祓神楽』のことを調べてくれた一伽が、ノートにそう書いていた。
……人にあらず神にあらず、鍵となりて――あれ、わたしたちのことなんだ。
つぐみと美硝は対をなし、ひと呼吸もずれることなく最後まで舞い続けた。
記憶していた『裏』の舞の最後のひと振りを終え、神楽鈴をそっと足元に置く。
それで全てが終わり、二人は『特別』な存在から解放される。
そのはずだったのに――つぐみの足元で、水面が揺れた。
舞の足さばきが作る波ではなく、水底の振動を伝えるような独特の泡が浮かびあがっている。
神楽鈴を置いたつぐみの指先が泡に触れたとたん――
「えっ……」
目の前が真っ暗になって、自分がどこにいるのかもわからない。
ただぽつんと、闇の中にたった一人立っていた。
見えるのは、自分のまとう巫女装束の袖がふわりと舞い上がる様子だけだ。
怖くなって、何か明るいものを探そうと辺りを見回した時、視界の隅でぼんやりと青い炎が見えた。それは、真っ白な千早――巫女装束の上衣の袖から浮かび上がっている。
炎はあっという間に千早を駆け上り、燃え広がった。
「……いやっ」
両手で振り払ってみたけれど、青い炎は消えなかった。
なぜか指先に触れた炎は氷よりも冷たく、指先に痛みが走った。
「えっ……?」
目の前に自分の手をかざして、指先を見る。
炎が爪に灯っていた。どれほど強く振り払っても炎は消えず、指先が真っ黒に染まり始める。
「いや、いや、いやあっ!」
黒くうごめくものが、爪の間から現れた。鉱物めいた光を宿したそれは百足に似ている。次から次へと生まれ出した黒い蟲は親指ほどの太さになり腕を登る。その足跡には赤黒い血が滲みだしていた。
「やめて、やめ、て、もうやめて――ッ!」
ぼきぼきぼき、と不気味な音が聞こえた。自分の指の骨が折れる音だった。
「どうして、どうして、どうして、どうして」
黒い蟲が這い上った痕は、赤黒いアザが呪いの紋様のように巻き付いていた。爪が剥がれ、骨を折りながら指の節と節の間が伸び始め、赤黒い両腕は人の形を完全に失っていった。
さらに黒い蟲たちの作るアザは胸へ広がり、やがて首に巻き付き始めた。
「苦しい、わた、し、どう、して、ドウシテ、ねえ、タスケテ」
熱い、と感じたのが、人として最後の感覚だったのかもしれない。
眼球の裏側が爆ぜるように痛み、視界が真っ赤に染まった。
「クルシイ、寂しイ、哀しい、眩しい――眩しい、眩しい」
真っ赤に染まった視界のなかに、誰かのシルエットが見えた。
その誰かが持つ耳障りな神楽鈴の金属音と、ゆらゆら揺れている白い布が煩わしい。
「マブシイ、タベタイ、煩イ、消したい、ケシタイ――」
低く濁った声が聞こえるたびに、自分の喉が震えているのを感じる。
まさか、と絶望が全身をかけめぐった。
――まさ、か、これは、わた、し、の、さけびごえ――
――わた、し、は、なに、に、なってしまった、の――?
異形と化した自分の腕を、足を、声を、つぐみは真っ赤に染まった目で見つめた。
心は――まだここにある。自分の名前を憶えているから。つぐみと呼んでくれた人がまだそばにいるはずだから。
美硝さん、どこ……?
もう自分の声は出ていないとわかっていても、必死に美硝の名を呼ぶ。
ほんの少し視界を動かすだけでも激痛が走るなか、つぐみはやっと美硝を見つけた。
ああ、美硝さん、いた、よかった……
全身の骨が砕け、人ならざるモノに変化したつぐみは、自分よりも背が高かったはずの美硝を見下ろしている。
巫女装束をまとった美硝は唇をきつく結んだまま、つぐみを見上げている。
美硝さんは、大丈夫、だったんだ……
ほっとした気持ちと同時に、つぐみはもう一つの感情に気付いた。
そんなの、違う――と思いたくても止められない思い。
食べてしまいたい。眩しい美しい美硝の魂を、一欠けらも残さず喰らいたい。
真っ黒な蟲に呑み込まれ、異形となったつぐみの魂は美硝を欲している。抗えないその欲望が湧き上がるたびにつぐみは自分の心が死んでゆくのを感じた。
あの夢は、わたしの未来、だったの……?
どうして、こんな未来のために、頑張っていたの、美硝さんは、知っていたの?
いやっ……いやだよ、わたし、そんなのは、いやだ……
蠢く黒い蟲を全身にまとい、異様に長い手足をもった人ならざるモノ。
そんなつぐみに見つめられても、美硝は一歩も退かなかった。
「ド……して……かミ……サま」
「――つぐみ」
美硝はゆっくりと腕を広げ、つぐみに触れた。
鱗のように固くなったつぐみの腕の皮膚がびきびきと剥がれ、幾匹もの細い蛇に変化した。蛇は美硝の腕に絡みつき、噛まれた傷口から呪いめいた紋様が広がっていく。
それでも、美硝はつぐみを離さなかった。
「やっと、わかった。つぐみ、大丈夫だよ。私はずっと一緒にいる。あなたと一緒。ひとりになんかさせない」
「み……ス……ず……」
「――私はあなたを、助けにきたの」
気温はすでに高く、色とりどりの団扇が街のそこかしこでゆらゆら揺れている。
絞りの兵児帯を背中で揺らす小さな子供たちが、行きかう人たちの合間をすりぬけていく姿は金魚に似ていた。つぐみたちと同じ年の少女たちはもう少し慎ましやかに慣れない下駄を鳴らしていた。
祭りは双葉葵学院からちょうどまっすぐ西に向かった先、二手に分かれた鴨川の中心部分にある神社の末社で執り行われる。
そこには東西どちらからも橋を渡らなければ辿りつけない。川を渡ると背の高い針葉樹が鬱蒼と並んだ森が広がり、今まで流れていた汗が嘘のように引いていく。世界が変わったのだ、と思わされるほど空気が変わってしまう場所だ。
神社の中を流れる清流は、普段立入ることができない。幾本ものしめ縄がかけられたわずか三日間だけが人々に許された時間だ。
人はその神域から湧き出た清流に足をつけ、無病息災を願う。
祀られた神々は古都に集まる穢れを呑み込み、祓うと言う。
祓神楽は――神と人々の狭間で舞われる。
*
つぐみと美硝は神社の一番奥に佇んでいた。
そこは清流の源、地下水の湧き出す小さな泉がある場所。祭りの最中といえど立入禁止とされていて、泉へと続く道の入り口にあたる拝殿は固く閉ざされたまま。
裏の舞手として選ばれたつぐみと美硝の舞台はこの神聖な泉だ。
泉の水面とほぼ同じ高さに床が敷いてあり、足元を水に浸したまま舞わなければならない。
遠くからわずかに聞こえてくる祭り囃子、風が揺らす葉擦れとかすかな虫の鳴き声。ふたりきりのこの場所で聴こえてくるのはそれだけだった。
――一伽と瑠璃さんも、緊張しているだろうか。
表の舞手である一伽と瑠璃とは、朝、神社の控室で着替えをしたあとすぐに別れた。今は神社のなかにある神楽舞の舞台に立っているはずだ。
つぐみたちも今まで一度も袖を通したことがなかった本番用の装束を纏い、舞が始まる時間を待っている。
「美硝さん、やっぱりすごく似合うね」
つぐみが頭につけている冠飾りが、しゃらんと音をたてた。
冠は銀色の薄い短冊が何十枚と重なり合っていて、少し頭を傾けただけでも重心が変わってしまう。つぐみは出来るだけ小さく首を動かし、美硝のほうを向いた。
隣に立つ美硝の髪が、千早と呼ばれる真っ白な上衣の上で鮮やかに輝いている。
もしもわたしが神様だったら、美硝さんのような人に舞ってほしい。
そう思えるような神聖さが、美硝に宿っていた。
「……なに、そんなにずっと見て」
「ううん。なんでもない。あ、これって美硝さんの口癖だよね。すぐなんでもないって言うでしょ、美硝さん」
「そうだった?」
「うん。言うよ。ほんとはね、もっとなんでも言ってくれたらいいのにって思ってる」
「いいの。わたしはもう」
「美硝さん。今言おうか迷ってたんだけど、ね」
「……どうしたの」
「舞が終わったら一緒に金平糖を食べよう?」
美硝がはっと顔をあげ、つぐみを見つめた。
「前に一緒に行ったお店で、美硝さんがじっと見てたでしょ。神様の水を使った金平糖。わたし、買ってきたの。だから舞が終わったら、一緒に食べたいなって」
つぐみは精一杯、微笑んだ。そうすればきっと、美硝も少しは笑ってくれるような気がした。
「美硝さん、何か願い事、あるんでしょ?」
「つぐみは、いつもそんな風に笑うのね」
「えっ……?」
美硝の瞳から、涙が零れて落ちた。
つぐみがそれを拭おうと手を伸ばしたとき、神楽の調べが風に乗って届き始めた。
ついにつぐみと美硝が舞う時間がやってきた。
ふたりは最初の振りの立ち位置についた。遠くから響いてくる神楽の旋律に耳を澄ませ、その音に呼吸を合わせる。
深い木々に囲まれた泉の中の舞台で、ふたりは舞い始めた。
観客のいない、神様だけに見せる神楽舞――何度も練習を繰り返した振りなのに、つぐみは指先が痺れるほどの緊張を感じていた。
二本の扇を使い、この世にある美しいものを表す振り。
つぐみが練習で失敗し続けた、扇を指先でくるりと回す部分もなんとか乗り越えられた。
ああ、とつぐみは体が軽くなるのを感じた。指先の皮がむけて血が滲んだことも、皆の舞を何度も止めて悔しかったことも――全部、いま体の中に溶け込んでいった。このたった一瞬に、一伽や瑠璃や美硝、先輩たちと過ごした時間は向けられていたのだ。
つぐみは無心になって踊り続け、神楽舞は二巡めにさしかかった。二巡めは同じ振りを左右対称に踊りながら、互いの場所を交互に入れ替えなければいけない。
つぐみは、美硝を見た。美硝もつぐみと視線を交えた。
手の角度も、すれ違うタイミングも、全て同じ呼吸で重なり合う。
ふたりは一度も間違えず、鏡に映し合ったように『表』の舞を踊りきった。
ここから、わたしと美硝さんだけ、たった一度しか許されない『裏』の舞。
一度舞台の中央から離れ、扇を置き、神楽鈴を手にする。
みっちりと重い、本物の神楽鈴だ。踊りが始まるまでは音を鳴らさないように、ふたりは静かに神楽鈴を持ち上げる。
つぐみは自分の呼吸が浅くなっていることに気付き、気を引き締めた。
つぐみと美硝は舞台中央に並び立ち、顔を見合わせ頷いた。ここからは音楽も拍子もない。手に持つ鈴の音と、二人の呼吸だけで舞を合わせていかなければならない。
すうっと息を吸った後、二人は同時に手首をひねる。
しゃらん。
鳴り響く神楽鈴の音に、聞き覚えがあった。
……あの、白昼夢の――始まりの音?
つぐみは息を呑み、一瞬弛んだ集中力を取り戻した。
ここで失敗するわけにはいかない。もう舞は始まっている。
美硝と呼吸を合わせ、ゆっくりと足を踏み出し、神楽鈴を振る。
しゃらん、しゃらん。
時間がやけにゆっくりに感じられて、たった一度しか舞えないはずの『裏』の舞を延々と続けている気さえしてきた。
“穢れを天に還すことを神に赦してもらい、人にあらず神にあらず鍵となりて、
結界を開く役目を神楽舞にて果たす”
『祓神楽』のことを調べてくれた一伽が、ノートにそう書いていた。
……人にあらず神にあらず、鍵となりて――あれ、わたしたちのことなんだ。
つぐみと美硝は対をなし、ひと呼吸もずれることなく最後まで舞い続けた。
記憶していた『裏』の舞の最後のひと振りを終え、神楽鈴をそっと足元に置く。
それで全てが終わり、二人は『特別』な存在から解放される。
そのはずだったのに――つぐみの足元で、水面が揺れた。
舞の足さばきが作る波ではなく、水底の振動を伝えるような独特の泡が浮かびあがっている。
神楽鈴を置いたつぐみの指先が泡に触れたとたん――
「えっ……」
目の前が真っ暗になって、自分がどこにいるのかもわからない。
ただぽつんと、闇の中にたった一人立っていた。
見えるのは、自分のまとう巫女装束の袖がふわりと舞い上がる様子だけだ。
怖くなって、何か明るいものを探そうと辺りを見回した時、視界の隅でぼんやりと青い炎が見えた。それは、真っ白な千早――巫女装束の上衣の袖から浮かび上がっている。
炎はあっという間に千早を駆け上り、燃え広がった。
「……いやっ」
両手で振り払ってみたけれど、青い炎は消えなかった。
なぜか指先に触れた炎は氷よりも冷たく、指先に痛みが走った。
「えっ……?」
目の前に自分の手をかざして、指先を見る。
炎が爪に灯っていた。どれほど強く振り払っても炎は消えず、指先が真っ黒に染まり始める。
「いや、いや、いやあっ!」
黒くうごめくものが、爪の間から現れた。鉱物めいた光を宿したそれは百足に似ている。次から次へと生まれ出した黒い蟲は親指ほどの太さになり腕を登る。その足跡には赤黒い血が滲みだしていた。
「やめて、やめ、て、もうやめて――ッ!」
ぼきぼきぼき、と不気味な音が聞こえた。自分の指の骨が折れる音だった。
「どうして、どうして、どうして、どうして」
黒い蟲が這い上った痕は、赤黒いアザが呪いの紋様のように巻き付いていた。爪が剥がれ、骨を折りながら指の節と節の間が伸び始め、赤黒い両腕は人の形を完全に失っていった。
さらに黒い蟲たちの作るアザは胸へ広がり、やがて首に巻き付き始めた。
「苦しい、わた、し、どう、して、ドウシテ、ねえ、タスケテ」
熱い、と感じたのが、人として最後の感覚だったのかもしれない。
眼球の裏側が爆ぜるように痛み、視界が真っ赤に染まった。
「クルシイ、寂しイ、哀しい、眩しい――眩しい、眩しい」
真っ赤に染まった視界のなかに、誰かのシルエットが見えた。
その誰かが持つ耳障りな神楽鈴の金属音と、ゆらゆら揺れている白い布が煩わしい。
「マブシイ、タベタイ、煩イ、消したい、ケシタイ――」
低く濁った声が聞こえるたびに、自分の喉が震えているのを感じる。
まさか、と絶望が全身をかけめぐった。
――まさ、か、これは、わた、し、の、さけびごえ――
――わた、し、は、なに、に、なってしまった、の――?
異形と化した自分の腕を、足を、声を、つぐみは真っ赤に染まった目で見つめた。
心は――まだここにある。自分の名前を憶えているから。つぐみと呼んでくれた人がまだそばにいるはずだから。
美硝さん、どこ……?
もう自分の声は出ていないとわかっていても、必死に美硝の名を呼ぶ。
ほんの少し視界を動かすだけでも激痛が走るなか、つぐみはやっと美硝を見つけた。
ああ、美硝さん、いた、よかった……
全身の骨が砕け、人ならざるモノに変化したつぐみは、自分よりも背が高かったはずの美硝を見下ろしている。
巫女装束をまとった美硝は唇をきつく結んだまま、つぐみを見上げている。
美硝さんは、大丈夫、だったんだ……
ほっとした気持ちと同時に、つぐみはもう一つの感情に気付いた。
そんなの、違う――と思いたくても止められない思い。
食べてしまいたい。眩しい美しい美硝の魂を、一欠けらも残さず喰らいたい。
真っ黒な蟲に呑み込まれ、異形となったつぐみの魂は美硝を欲している。抗えないその欲望が湧き上がるたびにつぐみは自分の心が死んでゆくのを感じた。
あの夢は、わたしの未来、だったの……?
どうして、こんな未来のために、頑張っていたの、美硝さんは、知っていたの?
いやっ……いやだよ、わたし、そんなのは、いやだ……
蠢く黒い蟲を全身にまとい、異様に長い手足をもった人ならざるモノ。
そんなつぐみに見つめられても、美硝は一歩も退かなかった。
「ド……して……かミ……サま」
「――つぐみ」
美硝はゆっくりと腕を広げ、つぐみに触れた。
鱗のように固くなったつぐみの腕の皮膚がびきびきと剥がれ、幾匹もの細い蛇に変化した。蛇は美硝の腕に絡みつき、噛まれた傷口から呪いめいた紋様が広がっていく。
それでも、美硝はつぐみを離さなかった。
「やっと、わかった。つぐみ、大丈夫だよ。私はずっと一緒にいる。あなたと一緒。ひとりになんかさせない」
「み……ス……ず……」
「――私はあなたを、助けにきたの」