神様に捧げる舞を踊る人
文字数 6,575文字
――しゃらん。
「この鈴の音――白昼夢を見る時に聞こえてくるやつだ」
つぐみは恐る恐る目を開け、鈴の音がする方へと走り出した。
玉砂利の敷き詰められた小道から外れ、いつのまにか頭上を木々が覆う薄暗い場所へたどり着いていた。つぐみはむせかえるほどの緑の匂いにくらくらしながら、辺りを見回した。
「これって、夢のなか……じゃないよね」
〈ああああああっ!〉
いきなり誰かの泣き叫ぶ声が響きわたり、つぐみは身をすくめる。
〈また、またわた、し、あなたを、あなたを〉
叫び声の主は、数メートル先にいた。つぐみの同じ制服を着た、長い髪の女の子。
〈どうして、どうしてなの、ねえ! どうしてっ!! どうしたらいいの!〉
女の子は地面に崩れ落ち、何度も地面に拳を振り降ろしている。
〈もう、ぜったい、わた、し――のこと、きっとゆるして、くれな――〉
慟哭は途切れず、細い背中が激しく上下している。
なぜか彼女が叫ぶたび、悲しみや怒りといった激しい感情がつぐみの体中に響きわたる。
まるで自分が泣き叫んでいるように感じられて、胸の奥が痛くて苦しかった。
「どうしたの?」
彼女の背中に触れようと伸ばしたつぐみの手は――するりと空を切る。
「えっ?」
すぐそこにあったはずの彼女の姿が、掻き消えていた。
「早く、こっちだから」
突然、後ろから声がした。
「えっ」
さっきまで目の前で泣いていた女の子と同じ、長い黒髪。
でも彼女とは違う。背中を震わせて泣いていた女の子とは印象が正反対だ。
感情を読み取らせない切れ長の瞳が、少し段の付いた前髪の向こうからつぐみを捉えている。
「如月つぐみ。転校生でしょう?」
長いまつ毛の影が、表情をより神秘的に見せる。
整った輪郭とシャープな鼻筋という、少しばかりきつそうな印象を和らげているのは、花弁のような唇だった。
「は、はい。そう、です」
美少女。頭に浮かんだその三文字に気を取られ、つぐみの返事はワンテンポ遅れた。
「『四神選抜』はもうすぐ始まるわ。こっちよ」
「でも待って、今そこに――あれ、あの子、どこにいったの?」
「誰もいないわ。ここにいたのはあなただけ」
つぐみがもう一度足元を見下ろしたが、草の上に人がいた痕跡すらなかった。
「まさか、あれも白昼夢? わたし、どうしたんだろ……」
「もう時間がない、急ぐから走るわ」
ぎゅっと、手首を掴まれた。
彼女は黙ったままつぐみの手を引き駆けだした。
「あの、あなた、もしかして」
「四ノ宮 美硝 。同じクラス」
「やっぱりそうだったんだ!」
氷の女王。
クラスメイトたちにそう呼ばれるほどに、誰とも交わらない、口数の少ない美しい生徒。
一伽の話しは大げさでなく、美硝にぴったり当てはまっている。
つぐみは走りながら、美硝の横顔をまじまじと見つめた。
「やっぱりって、どういう意味」
「一伽がきっと神様に選ばれるならこの人だって言っていて。美硝さんを見たら、そうだなって納得したから」
美硝の髪の上を、緑の葉からこぼれる光が流れおちてゆく。つぐみは息を整え、言った。
「これから神様に捧げる舞を踊る人、選ぶんですよね」
美硝の指先がぴくんと震え、走るスピードが落ちて――やがて足が止まった。
「あなたはどうしてここに来たの」
「それは、従姉妹の代わりにって頼まれて……」
「本当?」
美硝にまっすぐ見据えられ、つぐみはどきりとした。
「なんだか不思議、美硝さんの前だとなにも秘密に出来ない気持ちになる」
「……そう」
「あ、怖いとかイヤだなとかじゃないですからね! なんかもっと神聖な気持ちかも」
つぐみの言葉に、美硝はかすかに苦笑した。
「わたし、たぶん――特別になれるのかもしれないってことを感じてみたかったんです。百年以上前からずっと同じことを繰り返してるとか、誰かが選ばれる意味とか、そんな特別な何かを見てみたくて」
「どうして?」
「たぶん、笑っちゃうような話なんですけど」
美硝に見つめられると、なぜか何でも話せるような気になった。
「わたしきっとこの先、何かの特別になれることなんてないと思ったから。高校二年になって、この先の未来がどんなのかなって想像したときに何も思い浮かばなかった」
誰にも口にしたことない、恥ずかしさがぐるぐると巻かれた本当の気持ちだ。
「何の為に生きてるのとか、本当にわたしがいる意味ってあるのかなとか……でもそれを確かめる勇気もなくて。だから一瞬だけでも特別になれるかもしれない、ここに来ちゃったんです」
自分の頬が真っ赤になっているのがわかるほど、熱くなっている。
つぐみは大げさに両手を目の前で降って、恥ずかしさを振り払った。
「ってなし、今のなしです! わたし、初めて会ったばっかりなのに何言ってんだろ。今のは忘れてください!!」
「忘れないわ」
「いじわる言わないでください……っ」
「つぐみ、あなたも忘れないで」
「……え?」
「神様に捧げる舞というのは、少し違う。本当は赦しを乞うために踊るの」
*
美硝はそれきり黙ったまま、またつぐみの手を握り走り出した。
鬱蒼とした林を抜けてしばらくすると、庭園が途切れ、『四神選抜』が行われる“奥の泉”にたどりついた。わずかに傾斜した、テニスコートが二面ほどすっぽり収まるほどの広さの泉。その周りには校内アナウンスで集まった生徒たちが整列して並んでいる。
対岸は深い林に面していて、背の高い柳の木が何重もの枝が水面すれすれまで垂らし、まるで長いひげの老人が泉を覗きこんでいるように見えた。
「つぐみさん、ああ良かった! 本当にごめんなさい!」
どんと背中に衝撃が走り、つぐみが後ろを見ると一伽がぎゅっと抱きついていた。
一伽は額をつぐみの背中に押し付け、申し訳なさで顔をあげられないようだ。
「つぐみさんのこと置いていってしまいました……叱ってください、なんでいつも私……」
「わたしが道を間違えちゃったんだよ。でも、美硝さんがここまで案内してくれたから」
「み、美硝さんが? ほんとですか!?」
つぐみが振り返ると、さっきまで手を引いてくれた美硝の姿がない。
辺りを見回すと、美硝はいつの間にかクラスの列の最後尾にそっと並んでいたようだ。
「……本当だよ。わわっ」
ざあっと風が吹いて、たくさんの生徒たちのスカートが翻った。
泉の周りがにわかにざわめいた時――その音が鳴り響いた。
しゃらん。
ざわめきを消したのは、一振りの鈴の音だった。
百人以上いる生徒たちの吐息すら感じられないほどの静けさ。
つぐみも無意識に息を呑んでいた。
泉のほとりに立つ巨大な柳がたおやかにしなる。青々と茂る枝の奥から、すっと白い腕が現れた。
鈴はその手が握っていた。
棒状の持ち手に、複数の鈴が三段に分かれて付いている神楽鈴だ。
緋袴の上に真っ白な千早をまとった巫女装束の生徒が二人。
先を歩きながら鈴を振る生徒は一房の桜、後ろに続く生徒は白い五弁の花と緑の葉を象った橘の頭飾りを付けていた。
彼女たちが一歩進むたび、鈴が鳴らされる。
ゆっくりと泉の縁に並んで立つ頃に、つぐみはようやく深い息を吐くことができた。
巫女装束の二人はまっすぐ前を見据え、同時に宣言した。
「桜の名、橘の名、本日より新たな四神にお仕えいたします」
声が泉に響き渡る。
空を映すばかりだった水面が、わずかに揺れたように見えた。
四神――放送アナウンスで耳にした『四神選抜の儀』がいよいよ始まるのだ。
神様に捧げる舞を踊る人を、決める。そんな非現実さを信じてしまえるほど、つぐみは目の前で始まった儀式の気迫に呑み込まれた。
「これより、泉に問いかける」
桜と橘を戴く二人は向き合うと、紐のついた真っ白な布を互いの頭に結わえた。
布の部分がちょうど顔の前に垂れかかり、二人とも前がほとんど見えない様子だ。
わざと顔をおおった状態で、桜と橘の二人は足元に置かれた桐箱を手に取り、泉の淵ぎりぎりまで進む。
「四神にふさわしき名をここに」
二人が水面のほうへと箱を突き出しひっくり返す。中からこぼれた十数枚の紙片が泉へと落ちてゆく。紙片はしばらくたゆたった後、すっと水底に吸い込まれていった。
他の生徒たちと同じく、つぐみはこの不思議な現象に圧倒されていた。
泉のほとりに立っていた二人が、膝をつく。そして顔を覆う布を外すと、水面に向かって礼をした。
すると、ぷくぷく湧き上がる小さな泡とともに紙片が一枚戻ってきた。
橘の飾りを付けた生徒が手を伸ばし、紙片をすくいあげる。目をこらしてみると、そこには家紋らしきマークが浮かび上がっている。
「『朱雀 』に、宇賀神瑠璃 」
名前が読み上げられると、一年生のクラスのほうにざわめきが広がった。
一人の生徒が前に出る。
一年生の彼女の黒目がちで丸くて大きな瞳は、何かを射抜くような激しさを感じさる。胸をそらせまっすぐ立つ姿は、周りにいる同級生たちとは対照的に落ち着いて見えた。
再び紙片が浮かび上がってくる。続いて読み上げられたのは――
「『玄武 』に、霜鳥一伽 」
「うそっ!」
一伽だった。つぐみは一伽があげた驚きの声をすぐそばで聞いた。
さっきの一年生の子よりも動揺しているようだ。
つぐみは小さな声で一伽に囁いた。
「一伽、おめでとう。これに選ばれるってすごいんでしょ」
「う、うん。ありがとう……でも、この後……どうしよう……」
クラスメイトたちも次々と一伽におめでとうと囁いている。どの声も素直に祝福していて、一伽の人柄の良さを表していた。
「次――『白虎 』に四ノ宮 美硝 」
しんとした静寂が再び訪れ、美硝が一歩前に出る。その横顔には喜びも驚きも浮かんでいない。美硝が見せた感情らしきものは、ゆっくりとした瞬きだけ。
ただそれだけなのに、走者がスタートラインに立ったような緊張感が周りに広がってゆく。
ああ、とつぐみはやけに納得した。
特別なものに選ばれる、それはこういう瞬間のことなんだ。
先に呼ばれた瑠璃や一伽の時とは違う、運命とか宿命とかそんな言葉が似合ってしまう光景。
古い泉、巫女装束の二人、水底から紙が浮かび上がり名を呼ばれる――仰々しい『四神選抜』なんて言葉さえ、美硝がただそこに立っていることで納得させられてしまう。
――つぐみ。
美硝の声が聞こえた気がして、つぐみはふと顔をあげた。
誰もが舞手候補の最後の一人の名が浮かび上がるのを待ちかね、泉を見つめている。
なのに、美硝だけがつぐみのほうをじっと見ているのだ。
「――『青龍 』、如月 つぐみ」
「えっ?」
沈黙、のちに大きなざわめき。
最後に名前を呼ばれたのは、つぐみだった。
一伽に小さく手招きされて、つぐみは前に出た。
頭がくらくらする。あの一年生の子に向けられたものとも、祝福された一伽とも、やはりと思わせる美硝への羨望とも違う視線。
どうして――?
突然やって来た『身代わりの転校生』が何故選ばれるのだと、百人以上の眼差しと囁きがつぐみに問いかけてきている。
どうして私が選ばれたの? 本当にわたしは特別ななにかに、なれるの?
誰より大きく叫びたかったのは、つぐみ自身だった。
*
「本日から、あなたがたの指導役を務めます、天羽恭子 です」
「同じく真宮寺緋音 と申します」
『四神選抜』の儀式を終え、つぐみ、一伽、瑠璃、美硝の四人は校舎の一角にある部屋に集められた。教室とは違い、椅子や机は並んでおらず、がらんとした部屋だ。
そしてつぐみたちの前に立つのは、儀式で巫女装束をまとっていた二人。
制服に着替えた二人は、生徒たちから『橘 の君 』『桜 の君 』と呼ばれる上級生だった。去年の舞手を務めた生徒で、三年生に進級した後は新たな舞手候補者の指導をする。
橘の君こと天羽恭子は、身長の高さと、この学院の生徒にしては珍しいショートカットが特徴的だった。もう一人、桜の君である真宮寺緋音は、口元にずっと微笑みを浮かべる柔らかな印象の持ち主だ。
この人たち、立っているだけでなんだか違う。
まっすぐな背中と、きれいな曲線を描きながら伸びる足。立ち姿が真っ白な百合みたいに見えて、つぐみはほうっと息を吐きだした。
「恭子さん、いきなり指導するなんて言うから、みなさん緊張してはるわ」
「じゃあ、緋音にまかせるよ。たぶん最初はそっちのほうがいいと思う」
「ふふ、じゃあ、みなさんも自己紹介してもらいましょうか。一年生さんもいるし、そちらの、如月さんのお家の……」
「如月つぐみです」
「そうそう、つぐみさん。つぐみさんは今日ここに来はったばかりやしねえ。それじゃ、一年生さんからやってもらいましょか」
桜の君の話し方は、今まで聞いた誰よりも京都っぽい抑揚だった。
「一年二組、宇賀神瑠璃です。『朱様 』に選んでいただけたこと、心より光栄に思います。一年は私だけですが、気を緩めず頑張ります」
一度もつまることなく話す瑠璃の姿に、つぐみはぽかんと口を開きそうになった。下級生とは思えないどころか、こんなにしっかりと話す子を見るのはほとんど初めてだ。
「霜鳥一伽と申します。『玄様 』という、こんな大きなお役目をお任せいただけるなんて思っていませんでした。水を護る霜鳥家のご縁なのかもしれません。どうぞよろしくお願いします」
「一伽さんのお家は、水をお祀 りしているものね。頼もしいなあって思ってますわ」
「そ、そんな……はい、頑張ります!」
桜の君の言葉にほんのり顔を赤くする一伽の横で、つぐみはぽかんと口を開くばかりだ。
水を護る家柄とか、ちょっと変わった――青龍、白虎、朱雀に玄武。四神の頭につく色の名前からとった呼び名にいちいち驚いているのはつぐみだけ。
『双葉葵学院』の生徒にとっては、あたりまえのやりとりのようだ。
「では、次は『白様 』の……」
「四ノ宮美硝です。よろしくお願いします」
美硝は短くそう言って礼をした。やはり何を思っているのか全然わからない。
やっぱりきれいだな。冷たい感じはするけど、ちっとも不機嫌そうになんて見えない。不思議な人だ。美硝の髪が肩先から背中に流れ落ちるのを見ていたら、鼻先がむずむずする。
つぐみは気恥ずかしさをごまかすように俯いた。
「美硝さんが選ばれて、とても嬉しいわ。ぜひ他のみなさんを引っ張ってあげてね。それでは最後に、どうぞ」
つぐみの番が来てしまった。
最後なうえに、美硝という美少女のすぐ後。ため息をこぼしたいのをぐっとこらえて、つぐみは顔を上げた。
「き、如月つぐみ、です。今日ここに来たばかりで、本当、何もわからないことばかりで」
つぐみは一度息を吸い込んだ。
「どうして選ばれたのか、まだわからないんだけど……よろしくお願いします!」
今度は声も裏返らず、ちゃんと言えた。
心配そうだった桜の君も、全員を見守るように頷いていた橘の君もほっとしている。
つぐみが皆と同じく礼をして、一息ついた時――
「つぐみ先輩は」
瑠璃にいきなり名前を呼ばれて、つぐみの体はぎゅっと強ばった。
「は、はいっ」
「どうしてここにいらっしゃったんですか」
「それは、その……家の事情があって」
「先輩は、どうして選ばれたんですか」
「――えっ?」
瑠璃の瞳の中に、戸惑うつぐみの姿が囚われていた。
「この鈴の音――白昼夢を見る時に聞こえてくるやつだ」
つぐみは恐る恐る目を開け、鈴の音がする方へと走り出した。
玉砂利の敷き詰められた小道から外れ、いつのまにか頭上を木々が覆う薄暗い場所へたどり着いていた。つぐみはむせかえるほどの緑の匂いにくらくらしながら、辺りを見回した。
「これって、夢のなか……じゃないよね」
〈ああああああっ!〉
いきなり誰かの泣き叫ぶ声が響きわたり、つぐみは身をすくめる。
〈また、またわた、し、あなたを、あなたを〉
叫び声の主は、数メートル先にいた。つぐみの同じ制服を着た、長い髪の女の子。
〈どうして、どうしてなの、ねえ! どうしてっ!! どうしたらいいの!〉
女の子は地面に崩れ落ち、何度も地面に拳を振り降ろしている。
〈もう、ぜったい、わた、し――のこと、きっとゆるして、くれな――〉
慟哭は途切れず、細い背中が激しく上下している。
なぜか彼女が叫ぶたび、悲しみや怒りといった激しい感情がつぐみの体中に響きわたる。
まるで自分が泣き叫んでいるように感じられて、胸の奥が痛くて苦しかった。
「どうしたの?」
彼女の背中に触れようと伸ばしたつぐみの手は――するりと空を切る。
「えっ?」
すぐそこにあったはずの彼女の姿が、掻き消えていた。
「早く、こっちだから」
突然、後ろから声がした。
「えっ」
さっきまで目の前で泣いていた女の子と同じ、長い黒髪。
でも彼女とは違う。背中を震わせて泣いていた女の子とは印象が正反対だ。
感情を読み取らせない切れ長の瞳が、少し段の付いた前髪の向こうからつぐみを捉えている。
「如月つぐみ。転校生でしょう?」
長いまつ毛の影が、表情をより神秘的に見せる。
整った輪郭とシャープな鼻筋という、少しばかりきつそうな印象を和らげているのは、花弁のような唇だった。
「は、はい。そう、です」
美少女。頭に浮かんだその三文字に気を取られ、つぐみの返事はワンテンポ遅れた。
「『四神選抜』はもうすぐ始まるわ。こっちよ」
「でも待って、今そこに――あれ、あの子、どこにいったの?」
「誰もいないわ。ここにいたのはあなただけ」
つぐみがもう一度足元を見下ろしたが、草の上に人がいた痕跡すらなかった。
「まさか、あれも白昼夢? わたし、どうしたんだろ……」
「もう時間がない、急ぐから走るわ」
ぎゅっと、手首を掴まれた。
彼女は黙ったままつぐみの手を引き駆けだした。
「あの、あなた、もしかして」
「四ノ
「やっぱりそうだったんだ!」
氷の女王。
クラスメイトたちにそう呼ばれるほどに、誰とも交わらない、口数の少ない美しい生徒。
一伽の話しは大げさでなく、美硝にぴったり当てはまっている。
つぐみは走りながら、美硝の横顔をまじまじと見つめた。
「やっぱりって、どういう意味」
「一伽がきっと神様に選ばれるならこの人だって言っていて。美硝さんを見たら、そうだなって納得したから」
美硝の髪の上を、緑の葉からこぼれる光が流れおちてゆく。つぐみは息を整え、言った。
「これから神様に捧げる舞を踊る人、選ぶんですよね」
美硝の指先がぴくんと震え、走るスピードが落ちて――やがて足が止まった。
「あなたはどうしてここに来たの」
「それは、従姉妹の代わりにって頼まれて……」
「本当?」
美硝にまっすぐ見据えられ、つぐみはどきりとした。
「なんだか不思議、美硝さんの前だとなにも秘密に出来ない気持ちになる」
「……そう」
「あ、怖いとかイヤだなとかじゃないですからね! なんかもっと神聖な気持ちかも」
つぐみの言葉に、美硝はかすかに苦笑した。
「わたし、たぶん――特別になれるのかもしれないってことを感じてみたかったんです。百年以上前からずっと同じことを繰り返してるとか、誰かが選ばれる意味とか、そんな特別な何かを見てみたくて」
「どうして?」
「たぶん、笑っちゃうような話なんですけど」
美硝に見つめられると、なぜか何でも話せるような気になった。
「わたしきっとこの先、何かの特別になれることなんてないと思ったから。高校二年になって、この先の未来がどんなのかなって想像したときに何も思い浮かばなかった」
誰にも口にしたことない、恥ずかしさがぐるぐると巻かれた本当の気持ちだ。
「何の為に生きてるのとか、本当にわたしがいる意味ってあるのかなとか……でもそれを確かめる勇気もなくて。だから一瞬だけでも特別になれるかもしれない、ここに来ちゃったんです」
自分の頬が真っ赤になっているのがわかるほど、熱くなっている。
つぐみは大げさに両手を目の前で降って、恥ずかしさを振り払った。
「ってなし、今のなしです! わたし、初めて会ったばっかりなのに何言ってんだろ。今のは忘れてください!!」
「忘れないわ」
「いじわる言わないでください……っ」
「つぐみ、あなたも忘れないで」
「……え?」
「神様に捧げる舞というのは、少し違う。本当は赦しを乞うために踊るの」
*
美硝はそれきり黙ったまま、またつぐみの手を握り走り出した。
鬱蒼とした林を抜けてしばらくすると、庭園が途切れ、『四神選抜』が行われる“奥の泉”にたどりついた。わずかに傾斜した、テニスコートが二面ほどすっぽり収まるほどの広さの泉。その周りには校内アナウンスで集まった生徒たちが整列して並んでいる。
対岸は深い林に面していて、背の高い柳の木が何重もの枝が水面すれすれまで垂らし、まるで長いひげの老人が泉を覗きこんでいるように見えた。
「つぐみさん、ああ良かった! 本当にごめんなさい!」
どんと背中に衝撃が走り、つぐみが後ろを見ると一伽がぎゅっと抱きついていた。
一伽は額をつぐみの背中に押し付け、申し訳なさで顔をあげられないようだ。
「つぐみさんのこと置いていってしまいました……叱ってください、なんでいつも私……」
「わたしが道を間違えちゃったんだよ。でも、美硝さんがここまで案内してくれたから」
「み、美硝さんが? ほんとですか!?」
つぐみが振り返ると、さっきまで手を引いてくれた美硝の姿がない。
辺りを見回すと、美硝はいつの間にかクラスの列の最後尾にそっと並んでいたようだ。
「……本当だよ。わわっ」
ざあっと風が吹いて、たくさんの生徒たちのスカートが翻った。
泉の周りがにわかにざわめいた時――その音が鳴り響いた。
しゃらん。
ざわめきを消したのは、一振りの鈴の音だった。
百人以上いる生徒たちの吐息すら感じられないほどの静けさ。
つぐみも無意識に息を呑んでいた。
泉のほとりに立つ巨大な柳がたおやかにしなる。青々と茂る枝の奥から、すっと白い腕が現れた。
鈴はその手が握っていた。
棒状の持ち手に、複数の鈴が三段に分かれて付いている神楽鈴だ。
緋袴の上に真っ白な千早をまとった巫女装束の生徒が二人。
先を歩きながら鈴を振る生徒は一房の桜、後ろに続く生徒は白い五弁の花と緑の葉を象った橘の頭飾りを付けていた。
彼女たちが一歩進むたび、鈴が鳴らされる。
ゆっくりと泉の縁に並んで立つ頃に、つぐみはようやく深い息を吐くことができた。
巫女装束の二人はまっすぐ前を見据え、同時に宣言した。
「桜の名、橘の名、本日より新たな四神にお仕えいたします」
声が泉に響き渡る。
空を映すばかりだった水面が、わずかに揺れたように見えた。
四神――放送アナウンスで耳にした『四神選抜の儀』がいよいよ始まるのだ。
神様に捧げる舞を踊る人を、決める。そんな非現実さを信じてしまえるほど、つぐみは目の前で始まった儀式の気迫に呑み込まれた。
「これより、泉に問いかける」
桜と橘を戴く二人は向き合うと、紐のついた真っ白な布を互いの頭に結わえた。
布の部分がちょうど顔の前に垂れかかり、二人とも前がほとんど見えない様子だ。
わざと顔をおおった状態で、桜と橘の二人は足元に置かれた桐箱を手に取り、泉の淵ぎりぎりまで進む。
「四神にふさわしき名をここに」
二人が水面のほうへと箱を突き出しひっくり返す。中からこぼれた十数枚の紙片が泉へと落ちてゆく。紙片はしばらくたゆたった後、すっと水底に吸い込まれていった。
他の生徒たちと同じく、つぐみはこの不思議な現象に圧倒されていた。
泉のほとりに立っていた二人が、膝をつく。そして顔を覆う布を外すと、水面に向かって礼をした。
すると、ぷくぷく湧き上がる小さな泡とともに紙片が一枚戻ってきた。
橘の飾りを付けた生徒が手を伸ばし、紙片をすくいあげる。目をこらしてみると、そこには家紋らしきマークが浮かび上がっている。
「『
名前が読み上げられると、一年生のクラスのほうにざわめきが広がった。
一人の生徒が前に出る。
一年生の彼女の黒目がちで丸くて大きな瞳は、何かを射抜くような激しさを感じさる。胸をそらせまっすぐ立つ姿は、周りにいる同級生たちとは対照的に落ち着いて見えた。
再び紙片が浮かび上がってくる。続いて読み上げられたのは――
「『
「うそっ!」
一伽だった。つぐみは一伽があげた驚きの声をすぐそばで聞いた。
さっきの一年生の子よりも動揺しているようだ。
つぐみは小さな声で一伽に囁いた。
「一伽、おめでとう。これに選ばれるってすごいんでしょ」
「う、うん。ありがとう……でも、この後……どうしよう……」
クラスメイトたちも次々と一伽におめでとうと囁いている。どの声も素直に祝福していて、一伽の人柄の良さを表していた。
「次――『
しんとした静寂が再び訪れ、美硝が一歩前に出る。その横顔には喜びも驚きも浮かんでいない。美硝が見せた感情らしきものは、ゆっくりとした瞬きだけ。
ただそれだけなのに、走者がスタートラインに立ったような緊張感が周りに広がってゆく。
ああ、とつぐみはやけに納得した。
特別なものに選ばれる、それはこういう瞬間のことなんだ。
先に呼ばれた瑠璃や一伽の時とは違う、運命とか宿命とかそんな言葉が似合ってしまう光景。
古い泉、巫女装束の二人、水底から紙が浮かび上がり名を呼ばれる――仰々しい『四神選抜』なんて言葉さえ、美硝がただそこに立っていることで納得させられてしまう。
――つぐみ。
美硝の声が聞こえた気がして、つぐみはふと顔をあげた。
誰もが舞手候補の最後の一人の名が浮かび上がるのを待ちかね、泉を見つめている。
なのに、美硝だけがつぐみのほうをじっと見ているのだ。
「――『
「えっ?」
沈黙、のちに大きなざわめき。
最後に名前を呼ばれたのは、つぐみだった。
一伽に小さく手招きされて、つぐみは前に出た。
頭がくらくらする。あの一年生の子に向けられたものとも、祝福された一伽とも、やはりと思わせる美硝への羨望とも違う視線。
どうして――?
突然やって来た『身代わりの転校生』が何故選ばれるのだと、百人以上の眼差しと囁きがつぐみに問いかけてきている。
どうして私が選ばれたの? 本当にわたしは特別ななにかに、なれるの?
誰より大きく叫びたかったのは、つぐみ自身だった。
*
「本日から、あなたがたの指導役を務めます、
「同じく
『四神選抜』の儀式を終え、つぐみ、一伽、瑠璃、美硝の四人は校舎の一角にある部屋に集められた。教室とは違い、椅子や机は並んでおらず、がらんとした部屋だ。
そしてつぐみたちの前に立つのは、儀式で巫女装束をまとっていた二人。
制服に着替えた二人は、生徒たちから『
橘の君こと天羽恭子は、身長の高さと、この学院の生徒にしては珍しいショートカットが特徴的だった。もう一人、桜の君である真宮寺緋音は、口元にずっと微笑みを浮かべる柔らかな印象の持ち主だ。
この人たち、立っているだけでなんだか違う。
まっすぐな背中と、きれいな曲線を描きながら伸びる足。立ち姿が真っ白な百合みたいに見えて、つぐみはほうっと息を吐きだした。
「恭子さん、いきなり指導するなんて言うから、みなさん緊張してはるわ」
「じゃあ、緋音にまかせるよ。たぶん最初はそっちのほうがいいと思う」
「ふふ、じゃあ、みなさんも自己紹介してもらいましょうか。一年生さんもいるし、そちらの、如月さんのお家の……」
「如月つぐみです」
「そうそう、つぐみさん。つぐみさんは今日ここに来はったばかりやしねえ。それじゃ、一年生さんからやってもらいましょか」
桜の君の話し方は、今まで聞いた誰よりも京都っぽい抑揚だった。
「一年二組、宇賀神瑠璃です。『
一度もつまることなく話す瑠璃の姿に、つぐみはぽかんと口を開きそうになった。下級生とは思えないどころか、こんなにしっかりと話す子を見るのはほとんど初めてだ。
「霜鳥一伽と申します。『
「一伽さんのお家は、水をお
「そ、そんな……はい、頑張ります!」
桜の君の言葉にほんのり顔を赤くする一伽の横で、つぐみはぽかんと口を開くばかりだ。
水を護る家柄とか、ちょっと変わった――青龍、白虎、朱雀に玄武。四神の頭につく色の名前からとった呼び名にいちいち驚いているのはつぐみだけ。
『双葉葵学院』の生徒にとっては、あたりまえのやりとりのようだ。
「では、次は『
「四ノ宮美硝です。よろしくお願いします」
美硝は短くそう言って礼をした。やはり何を思っているのか全然わからない。
やっぱりきれいだな。冷たい感じはするけど、ちっとも不機嫌そうになんて見えない。不思議な人だ。美硝の髪が肩先から背中に流れ落ちるのを見ていたら、鼻先がむずむずする。
つぐみは気恥ずかしさをごまかすように俯いた。
「美硝さんが選ばれて、とても嬉しいわ。ぜひ他のみなさんを引っ張ってあげてね。それでは最後に、どうぞ」
つぐみの番が来てしまった。
最後なうえに、美硝という美少女のすぐ後。ため息をこぼしたいのをぐっとこらえて、つぐみは顔を上げた。
「き、如月つぐみ、です。今日ここに来たばかりで、本当、何もわからないことばかりで」
つぐみは一度息を吸い込んだ。
「どうして選ばれたのか、まだわからないんだけど……よろしくお願いします!」
今度は声も裏返らず、ちゃんと言えた。
心配そうだった桜の君も、全員を見守るように頷いていた橘の君もほっとしている。
つぐみが皆と同じく礼をして、一息ついた時――
「つぐみ先輩は」
瑠璃にいきなり名前を呼ばれて、つぐみの体はぎゅっと強ばった。
「は、はいっ」
「どうしてここにいらっしゃったんですか」
「それは、その……家の事情があって」
「先輩は、どうして選ばれたんですか」
「――えっ?」
瑠璃の瞳の中に、戸惑うつぐみの姿が囚われていた。