今日で、全部。
文字数 7,293文字
七月に入ってすぐ、梅雨が明けた。
季節は驚くほど一瞬で夏に変わり、街全体が祭の準備の雰囲気に包まれてゆく。
舞手候補の私たちにとっても、七月は駆け抜けるような速さで時間がすぎていった。
十日に行われた生徒たちの前のお披露目会。そして『御水洗い』の前、真夜中に行われる『祓神楽』の舞手を決める儀式。
私とつぐみは『裏』の舞手に選ばれた。
春から夏までの『舞手』としての日々はもうすぐ終わる。
私はそのために、従姉妹の代わりにここに来たから――
*
『御水祭り』の日。
朝から天気が上々で、青空に積乱雲がどんどん背を伸ばしている。
私とつぐみは少しだけ早く起きて、学校まで一緒に行く約束をした。
涼しい風が通り抜けてゆく鴨川沿いの遊歩道を、並んで歩く。さらさらと流れる水音と、遠くで鳴く蝉の声が私たちを包んでいた。
「つぐみ、どうしたの。さっきからずっと黙ってる」
「……ん、なんでもない」
「なんでもなくないよ、どうしたの」
つぐみは歩みを止めて、私の手を握った。
その指先はやっぱり冷たくて、でも、心地よかった。
「今日が本番だから、緊張してる?」
「ううん。緊張はしてるけど……でも大丈夫」
何度も練習したから、とつぐみに頷いてみせる。
初めて全員で舞を合わせられた日から今日まで、私たちはずっと練習を重ねてきた。
ぎこちなかった私の舞姿も、先輩たちに認められた。
だから緊張はしても、逃げ出してしまいたくなるような気持にはならなかった。
「でも美硝。美硝の指、いつもよりちょっと冷たい」
「ほんと?」
「わかるよ。だから思ってること、言ってみてほしいんだ」
「……今、言っていいか迷ってた」
「今だから、だよ」
つぐみがもう一度、ぎゅっと私の手を握ってくれる。
「今日で、全部おしまいになるのかなって……」
言葉がつまってうまく話せない。
「私が双葉葵に来たのは、舞手の従姉妹の身代わりだった。でも舞手の私は、今日で終わるから」
それでもつぐみは、黙ったまま私の声に耳を傾け続けてくれた。
「舞手じゃなくなった私は、どうすればいいかな」
私は、つぐみが話していた琥珀の話を思い出した。
消えてしまうものを、永遠に閉じ込めて残しておけるものの話。
「夏が過ぎても、私……つぐみと一緒にいられるかな」
ふいに涙が一粒こぼれ落ちた。
つぐみは指先でそっと私の頬をぬぐって、一歩前へと踏み出した。
「わたしがあそこまで飛べたら、美硝とずっと一緒にいられる」
つぐみが指さしたのは、川の真ん中に置かれた平たい飛び石だ。
いつもなら子供でも飛べるほどの間隔で並んでいて、何度かジャンプすれば川を渡る事ができた。だけど今日は少しだけ水嵩が高く、いくつかの飛び石が沈んでいた。
「えっ、待ってつぐみ、危ないよ! 怪我したらどうするの」
「信じてて!」
あっという間に、つぐみは走り出してしまった。
朝日を受けてきらきらと光る水面の上を、つぐみが高く跳ねた。
飛び石に足をつくたびに、弓なりにしなったつぐみの体が川面を飛び越えてゆく。
つぐみの指や髪や、爪先が、私には光って見えた。
「ほら、来れたよ!」
川の真ん中の、一番大きな石の上でつぐみが手を振っていた。
「美硝もおいでよ」
「私にも行けるかな」
「うん。ねえ美硝、たぶん美硝のほうがわたしより高く飛べるはずだよ」
私はつぐみに頷いて、地面を踏み切る。
二度、三度と石の間を飛び、背中で髪が波打つたび身が竦んではっと息を呑んだ。
最後はまっすぐ伸びたつぐみの腕に飛び込んで、私はつぐみと同じ場所に立った。
「ほら、来れた」
「……うん」
二人で空を見上げると、どんどん青色が深くなっていった。
「美硝、心配しなくていいよ」
つぐみがぽつんと呟いた。
「今日が終わって、夏が過ぎて、秋がやってきても何も変わらないよ」
「……つぐみ」
「舞手じゃなくなっても、美硝は美硝だもん。ここにいても、もし元の学校に戻っても、一緒だよ。誰も美硝のこと、忘れたりしない」
つぐみは少しはにかんで、飛び石の上でしゃがんだ。
「わたしは神様じゃないから、美硝の願い事叶えてあげられないけどさ」
つぐみは川面を流れてきた葉っぱをすくいあげて、器用に切り目をいれてゆく。
その葉っぱを折りたたんで出来上がったのは、小さな舟だった。
「おまじないなら知ってるよ。美硝の不安な気持ち、ここにふーって吹きかけてみて」
言われた通りに私は息を吹きかける。
すると、つぐみは葉っぱの舟を水の中に放った。舟はゆらゆらとたよりなく揺れながら流れて、数メートル先で水面に消えていった。
「ほら、美硝の不安消えちゃった」
「……沈没しちゃったじゃない」
「そうとも言うけど」
つぐみがぷっと唇を尖らせたから、私はつい声をあげて笑ってしまった。
「美硝って、そんな風にも笑うんだね」
「えっ、変かな」
「ううん。良かった」
つぐみが指先だけ水面につけて微笑んた。
「舟、ちゃんと美硝の不安を乗せていってくれたんだね」
*
私たちは桜の君や橘の君と学校で合流して、祭りの行われる神社に向かった。
そこの控室で舞手は一人ずつ本番用の巫女装束に着替える。
今まで練習で着ていた装束よりも飾りが多くて、それぞれ一人ずつお手伝いの人がついても着替えるのに三十分以上かかってしまう。
衣装を着た後、最後の仕上げの口紅を引くために私は鏡を覗きこんでいた。
渡された薄紅を唇にぽんぽんとあてていた時、控室の扉が静かに開いた。
「やっぱり美硝の髪、黒くて長いのうらやましいな」
振り向くと、耳元で銀の頭飾りが揺れる。
しゃらん、と繊細な音が鳴って、その向こうにつぐみが立っていた。
「わたしも着替え終わったんだあ、どうかな」
つぐみがくるっと一回りして見せた。
「素敵。口紅は塗らないの?」
「あっ、忘れてたかも」
「いそがないと、もうすぐ私たちは移動だよ」
「ありがと……あっ、そうだ」
つぐみが私の目の前で手のひらを開いた。そこには金平糖の入った小さなガラス瓶が乗っていた。あの、神様の水で作られたという、願いが叶う金平糖だ。
つぐみの指先は、ガラス瓶を強く握りしめていたせいか、仄かにピンクに染まっている。
「これ、美硝にあげる。昨日、お店の前通った時にやっと見つけたんだ。最後の一個だった」
「……いいの?」
「うん。わたしはいっぱいお願いごとしたし、わりと叶ったから。次は美硝の番だね」
「つぐみ――」
控室に戻ろうとしたつぐみに、伝えたいことがいっぱいあった。
ありがとう、も言いたかったし。
最後まで一緒に舞おうとも言いたかった。
あの日、一緒に踊ろうと言ってくれたから、私は。
私はきっと、今日を迎えられたんだよ。
でも、どれもうまく言葉にできなかった。
「本番、頑張ろうね」
つぐみが小さく手を振って、扉の向こうに消えた。
神楽舞が終わったら、つぐみが好きだといっていた甘いものを一緒に食べに行こう。
一伽も瑠璃も、一緒に行ってくれるだろうか。
その時はもっとたくさん話せるはず。たぶん、きっと。
金平糖を胸元にしまって、私は『祓神楽』を舞う時を迎えた。
*
私とつぐみ、『裏』の舞手が舞うのは、神社の一番奥まった場所にある神域だった。
立入禁止になっているその場所は、このあたり一帯を流れる清流の源で、地下水の湧き出す小さな泉がある。その泉の中に建てられた板間の舞台の上で、私とつぐみは神楽舞の始まりを待っていた。
祭り囃子も遠くからわずかに聞こえてくるばかりで、辺りはしんと静まり返っている。
「もうすぐ、始まるね」
「……うん」
神楽の調べが、風に乗って届き始める。
私とつぐみが舞う時間がやってきた。
「いくよ」
「はい」
小さく囁きながら視線を交えた後、私もつぐみもまっすぐ前を向いた。何度も練習した『祓神楽』の本番が始まる。私は全身の血が一瞬にして冷たくなり、体が震えるのを感じた。
いつもは付けていない額飾りの重みに頭がぐらりと傾いてしまう。
それでも体は自然と、音に合わせて振りをなぞっていった。
一巡、二巡、私は幾度とつぐみと向き合い、背中合わせになり、扇を振り舞い続けた。
最後に扇をくるりとまわし、床に置く。
ここからは、たった一度しか練習できなかった『裏』の舞手だけの振りだ。
私とつぐみは神楽鈴を持ち、ゆっくりと鳴らす。
どこかへと届いているはずの、高く澄んだ鈴の音が広がってゆく。
――もうすぐ舞が終わってしまう。
視界に飛び込んでくるつぐみの舞姿は、今まで練習で見たどのつぐみよりも美しく、触れてしまったらすぐに消えてしまうのではないかと思ってしまうほど現実離れしていた。
まるで夢を見ているような浮遊感を振り払い、私は一巡、二巡、と頭のなかで舞の振りをなぞり続ける。
鈴の音が鳴るたびに、私とつぐみの時間は少なくなってゆく。
夏がすぎて、秋が訪れ、冬を感じるようになっても何も変わらない。
でも、つぐみ。
ふいに目の端が熱くなる。
こんなに特別な、一緒の時間はもう戻ってこないよね。
くるりと円を描き、背中合わせになり離れる。
その振りのようにつぐみとの距離が開いて、消えてしまう。
まっすぐ前を向いて舞続けるつぐみと、一瞬視線が交わった。
ずっと――。
ずっとこうやって、一緒に過ごせれば。
「あっ……」
ぱっと目の前が真っ白になり、私は視線を上げた。
空を真横に切り裂く太い稲光が、頭上に広がっている。
それは真っ白な大きな龍が、怒りにまかせ長い尾を乱暴に振り降ろしているようだった。
なぜかそれを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
間髪おかずに、体に響くほどの轟音が鳴り渡る。
思わず目を閉じたわずかなタイミングに、指先がすべり……
しゃらん。
私の手から、神楽鈴が落ちていった。
「ごめんな……さいっ……!」
私はすぐさま膝をおり、神楽鈴へと手を伸ばした。
「……つぐみ」
顔をあげると、つぐみは舞を続けていた。
白い巫女装束を翻らせ、光を受けて輝く神楽鈴をかざすつぐみは、とてもきれいだった。
私は瞬きすら忘れて、つぐみの舞を見つめていた。
――大丈夫、だよ。美硝、大丈夫。
つぐみの唇がかすかに動いて、そう言っていた。
決して視線を落とさず、その言葉どおりつぐみは舞を最後まで踊りきった。
『裏』の舞の終わりを告げる動き――神楽鈴を足元に置こうと、つぐみが膝を折った時だった。
「……えっ?」
しゃらん。
少しも揺らしていないのに、神楽鈴が鳴った。
私たちがいる舞台の上に薄くはっている水が、奇妙な模様を描いた。
ぶるぶると、地面の底からの振動を伝えるように波うっている。
「な、なに、これ――地震、なの?」
さっきまで足元にあったはずの、板張りの舞台が見えない。
私とつぐみは、いつの間にか暗い闇を映した底なし泉の上に立っていた。
「ここ……どこなの? つぐみ、大丈夫?」
地面についていた手を少しだけ上げた時、私は気づいた。
泉の底から、巨大で真っ黒な何かが蠢きながらこちらに向かって浮かび上がろうとしている。
「つぐみっ!」
私は立ち上がりつぐみに駆け寄ろうとした。
「……いやっ!」
「つぐみ……! なに、なにが……ああ」
つぐみが青い炎に呑まれていた。
私は金縛りにあったみたいに、指先ひとつ動かせず、ただそれ(傍点)を見ているしかなかった。
すると、炎を消そうと必死で腕を振り払っていたつぐみが、突然その動きを止めた。
「つぐみ……!?」
つぐみの指先から、真っ黒な百足のようなモノが何匹も飛び出し、柔らかな腕を這い上っていた。私は信じられない光景を前に、言葉を失った。
「いや、いや、いやあっ!」
ざわざわと百足の細かな足が這うたびに腕から血が流れ、つぐみは絶叫していた。
血が流れた場所には、呪われたような黒い紋様が浮かび上がっている。
やがてそれは腕から全身に広がり、つぐみは悲鳴をあげながら真っ黒に染まってゆく。
小さな赤い飛沫が、私の額をぴしゃっと濡らした。生温かで鉄臭い、鮮やかな赤。
私と同じ、人の体の中に流れる赤い血だ。
「やめて、やめ、て、もうやめて――ッ!」
ぼきぼきぼき、と不気味な音が聞こえた。
私の手を取ってくれた、柔らかくて細いつぐみの五本の指が外側に向けて折れ曲がり、蠢いていた。
「どうして、どうして、どうして、どうして」
悲鳴の合間に聞こえる、骨が折れる音は次第に大きくなる。
ばきり、ばきりと、足や背骨といった太い骨が砕け、伸びあがり、つぐみの頭はもう私の背よりも高い場所にあった。
大好きだった、私をいつだって勇気づけてくれたつぐみの指先の手。
私をつれて、どこへでも軽やかに駆けだしていった細い足。
その全部が、真っ黒な気味の悪い蟲たちに呑み込まれた。
「苦しい、わた、し、どう、して、ドウシテ、ねえ、タスケテ」
つぐみは異形化した長い腕を伸ばして、私を見おろしている。
首から上だけはまだ、つぐみのままだった。だけどあの人懐っこい丸い瞳は、光を失っていた。
――つぐみ。
私は全身の力を振り絞って、つぐみのほうに手を伸ばした。
「クルシイ、寂しイ、哀しい、眩しい――眩しい、眩しい」
つぐみの白目に赤い斑点が浮き上がり、広がってゆく。
なだらかな頬を、一筋の真っ赤な涙が流れ落ちた。
「マブシイ、タベタイ、煩イ、消したい、ケシタイ――」
ごおおおおお、と低く濁った叫び声が響く。
いやだよ。美硝、美硝のこと、わたし、傷つけたくないのに。
「……う、ぐ、つぐみ……あああっ!」
鋭い爪をもったつぐみの腕に肩を貫かれ、私の体は軽々と後方へと弾き飛ばれた。
「つぐみぃいいいい!」
体を引き裂かれるよりも痛い、深い絶望に打ちのめされながら、私は意識を失った。
*
私は、暗闇のなかに倒れていた。やっぱり体は動かない。ここがどこなのか、現実なのか夢なのかすら、わからなかった。
さらさらと水の流れ落ちて来る音が聞こえてきて、そちらのほうに頭を向ける。
少し離れた場所が仄かに光っていた。
目をこらしてみると、光の正体はどこからともなく流れ落ちてくる小さな滝の白い水飛沫だった。
《驕れる舞手よ、一人で舞う意味を知らなかったのか》
「……だ……れ」
滝の中から、ぬっと何かが現れた。
深いシワの刻まれた、翁の面。
細く切れ目の入った目玉の部分は空洞になっているのに、なぜか鋭い視線を感じる。
《われは神。古都の穢れを呑む水の神》
翁の面の口元が動くたびに、カチカチという不気味な音とともに低い声が響いた。
《お前らは都の穢れを祓う扉を開く鍵よ》
《ふたり揃ってやっと人の器として形を保てるものを、ひとりで出来ると驕ったか――見よ、愚かな舞手よ。これは罪の穢れをまとった異形ぞ》
つぐみだったモノが、翁の面の下を流れる水の中でもがき苦しんでいる。
ごあああ、とつぐみの声とは全く違う獣じみた咆哮に、体がすくんだ。
「神様、どうか、どうかつぐみを元に戻してあげて!」
一瞬、間をおいて神様が私に応えた。
《傲慢な娘よ、われに願いをたてるというのか》
「……私のせいだから、つぐみがこんなになったのは私が失敗したから……なんでもします!」
《笑わせてくれるな、お前が全てを成せるなどとは到底思えぬ》
「お願いします、教えてください!! 何をすれば、願いを……叶えてくれますか」
《われは小娘の願いなど叶えるものか》
「――そんな」
《だが、その愚かさを楽しむのも一興だ。お前は己の魂を賭けられるか》
「はい」
《では、賭けをしよう。小娘よ、われを満足させよ》
「……神様を満足させる?」
《本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか》
「本当に決まってます!」
かかか、とあざけ笑う声が響く。
《われとの賭けにのるか、小娘よ。面白い! ならばそれを、見せてみよ。お前の持つ俗世のものの数だけ機会をやろうか》
「俗世のもの――」
ばしゃんと水音が鳴った。
つぐみのくれた金平糖のガラス瓶が顔のすぐそばに転がっている。
フタが外れて中身がこぼれ、瓶の中には七粒しか残っていなかった。
《七度、お前は時を繰り返すことができる。それまでにわれを満足させよ》
「……必ず、助けます。お願いします、つぐみを元に戻してあげてください」
《これは賭けよ。われを満足させればお前の勝ち。できなければ負け。神との賭けに負ければお前の魂は永遠に救われぬ。お前もつぐみも、二度と人の世には戻れぬのだ》
永遠に救われない。それは異形と化してのたうちまわっているつぐみよりも重く苦しい罰なのだろうか。
「構いません」
《酔狂よ、何度も何度も愚かに踊れ、暇つぶしにはちょうど良いわ》
……神様の水で作られているから、願い事が叶うんだって。
そう言いながら笑っていたつぐみの顔を思い出した。
これから先に私が行く場所がどこで、何が待ち受けているのかはわからない。失敗してしまう可能性のほうがはるかに高いのは、わかってる。
それでも私は、行く。
金平糖を手のひらに乗せ、口に含んだ。
コリリ、と噛み砕いた瞬間、目の前が真っ暗になって……記憶が途切れた。
季節は驚くほど一瞬で夏に変わり、街全体が祭の準備の雰囲気に包まれてゆく。
舞手候補の私たちにとっても、七月は駆け抜けるような速さで時間がすぎていった。
十日に行われた生徒たちの前のお披露目会。そして『御水洗い』の前、真夜中に行われる『祓神楽』の舞手を決める儀式。
私とつぐみは『裏』の舞手に選ばれた。
春から夏までの『舞手』としての日々はもうすぐ終わる。
私はそのために、従姉妹の代わりにここに来たから――
*
『御水祭り』の日。
朝から天気が上々で、青空に積乱雲がどんどん背を伸ばしている。
私とつぐみは少しだけ早く起きて、学校まで一緒に行く約束をした。
涼しい風が通り抜けてゆく鴨川沿いの遊歩道を、並んで歩く。さらさらと流れる水音と、遠くで鳴く蝉の声が私たちを包んでいた。
「つぐみ、どうしたの。さっきからずっと黙ってる」
「……ん、なんでもない」
「なんでもなくないよ、どうしたの」
つぐみは歩みを止めて、私の手を握った。
その指先はやっぱり冷たくて、でも、心地よかった。
「今日が本番だから、緊張してる?」
「ううん。緊張はしてるけど……でも大丈夫」
何度も練習したから、とつぐみに頷いてみせる。
初めて全員で舞を合わせられた日から今日まで、私たちはずっと練習を重ねてきた。
ぎこちなかった私の舞姿も、先輩たちに認められた。
だから緊張はしても、逃げ出してしまいたくなるような気持にはならなかった。
「でも美硝。美硝の指、いつもよりちょっと冷たい」
「ほんと?」
「わかるよ。だから思ってること、言ってみてほしいんだ」
「……今、言っていいか迷ってた」
「今だから、だよ」
つぐみがもう一度、ぎゅっと私の手を握ってくれる。
「今日で、全部おしまいになるのかなって……」
言葉がつまってうまく話せない。
「私が双葉葵に来たのは、舞手の従姉妹の身代わりだった。でも舞手の私は、今日で終わるから」
それでもつぐみは、黙ったまま私の声に耳を傾け続けてくれた。
「舞手じゃなくなった私は、どうすればいいかな」
私は、つぐみが話していた琥珀の話を思い出した。
消えてしまうものを、永遠に閉じ込めて残しておけるものの話。
「夏が過ぎても、私……つぐみと一緒にいられるかな」
ふいに涙が一粒こぼれ落ちた。
つぐみは指先でそっと私の頬をぬぐって、一歩前へと踏み出した。
「わたしがあそこまで飛べたら、美硝とずっと一緒にいられる」
つぐみが指さしたのは、川の真ん中に置かれた平たい飛び石だ。
いつもなら子供でも飛べるほどの間隔で並んでいて、何度かジャンプすれば川を渡る事ができた。だけど今日は少しだけ水嵩が高く、いくつかの飛び石が沈んでいた。
「えっ、待ってつぐみ、危ないよ! 怪我したらどうするの」
「信じてて!」
あっという間に、つぐみは走り出してしまった。
朝日を受けてきらきらと光る水面の上を、つぐみが高く跳ねた。
飛び石に足をつくたびに、弓なりにしなったつぐみの体が川面を飛び越えてゆく。
つぐみの指や髪や、爪先が、私には光って見えた。
「ほら、来れたよ!」
川の真ん中の、一番大きな石の上でつぐみが手を振っていた。
「美硝もおいでよ」
「私にも行けるかな」
「うん。ねえ美硝、たぶん美硝のほうがわたしより高く飛べるはずだよ」
私はつぐみに頷いて、地面を踏み切る。
二度、三度と石の間を飛び、背中で髪が波打つたび身が竦んではっと息を呑んだ。
最後はまっすぐ伸びたつぐみの腕に飛び込んで、私はつぐみと同じ場所に立った。
「ほら、来れた」
「……うん」
二人で空を見上げると、どんどん青色が深くなっていった。
「美硝、心配しなくていいよ」
つぐみがぽつんと呟いた。
「今日が終わって、夏が過ぎて、秋がやってきても何も変わらないよ」
「……つぐみ」
「舞手じゃなくなっても、美硝は美硝だもん。ここにいても、もし元の学校に戻っても、一緒だよ。誰も美硝のこと、忘れたりしない」
つぐみは少しはにかんで、飛び石の上でしゃがんだ。
「わたしは神様じゃないから、美硝の願い事叶えてあげられないけどさ」
つぐみは川面を流れてきた葉っぱをすくいあげて、器用に切り目をいれてゆく。
その葉っぱを折りたたんで出来上がったのは、小さな舟だった。
「おまじないなら知ってるよ。美硝の不安な気持ち、ここにふーって吹きかけてみて」
言われた通りに私は息を吹きかける。
すると、つぐみは葉っぱの舟を水の中に放った。舟はゆらゆらとたよりなく揺れながら流れて、数メートル先で水面に消えていった。
「ほら、美硝の不安消えちゃった」
「……沈没しちゃったじゃない」
「そうとも言うけど」
つぐみがぷっと唇を尖らせたから、私はつい声をあげて笑ってしまった。
「美硝って、そんな風にも笑うんだね」
「えっ、変かな」
「ううん。良かった」
つぐみが指先だけ水面につけて微笑んた。
「舟、ちゃんと美硝の不安を乗せていってくれたんだね」
*
私たちは桜の君や橘の君と学校で合流して、祭りの行われる神社に向かった。
そこの控室で舞手は一人ずつ本番用の巫女装束に着替える。
今まで練習で着ていた装束よりも飾りが多くて、それぞれ一人ずつお手伝いの人がついても着替えるのに三十分以上かかってしまう。
衣装を着た後、最後の仕上げの口紅を引くために私は鏡を覗きこんでいた。
渡された薄紅を唇にぽんぽんとあてていた時、控室の扉が静かに開いた。
「やっぱり美硝の髪、黒くて長いのうらやましいな」
振り向くと、耳元で銀の頭飾りが揺れる。
しゃらん、と繊細な音が鳴って、その向こうにつぐみが立っていた。
「わたしも着替え終わったんだあ、どうかな」
つぐみがくるっと一回りして見せた。
「素敵。口紅は塗らないの?」
「あっ、忘れてたかも」
「いそがないと、もうすぐ私たちは移動だよ」
「ありがと……あっ、そうだ」
つぐみが私の目の前で手のひらを開いた。そこには金平糖の入った小さなガラス瓶が乗っていた。あの、神様の水で作られたという、願いが叶う金平糖だ。
つぐみの指先は、ガラス瓶を強く握りしめていたせいか、仄かにピンクに染まっている。
「これ、美硝にあげる。昨日、お店の前通った時にやっと見つけたんだ。最後の一個だった」
「……いいの?」
「うん。わたしはいっぱいお願いごとしたし、わりと叶ったから。次は美硝の番だね」
「つぐみ――」
控室に戻ろうとしたつぐみに、伝えたいことがいっぱいあった。
ありがとう、も言いたかったし。
最後まで一緒に舞おうとも言いたかった。
あの日、一緒に踊ろうと言ってくれたから、私は。
私はきっと、今日を迎えられたんだよ。
でも、どれもうまく言葉にできなかった。
「本番、頑張ろうね」
つぐみが小さく手を振って、扉の向こうに消えた。
神楽舞が終わったら、つぐみが好きだといっていた甘いものを一緒に食べに行こう。
一伽も瑠璃も、一緒に行ってくれるだろうか。
その時はもっとたくさん話せるはず。たぶん、きっと。
金平糖を胸元にしまって、私は『祓神楽』を舞う時を迎えた。
*
私とつぐみ、『裏』の舞手が舞うのは、神社の一番奥まった場所にある神域だった。
立入禁止になっているその場所は、このあたり一帯を流れる清流の源で、地下水の湧き出す小さな泉がある。その泉の中に建てられた板間の舞台の上で、私とつぐみは神楽舞の始まりを待っていた。
祭り囃子も遠くからわずかに聞こえてくるばかりで、辺りはしんと静まり返っている。
「もうすぐ、始まるね」
「……うん」
神楽の調べが、風に乗って届き始める。
私とつぐみが舞う時間がやってきた。
「いくよ」
「はい」
小さく囁きながら視線を交えた後、私もつぐみもまっすぐ前を向いた。何度も練習した『祓神楽』の本番が始まる。私は全身の血が一瞬にして冷たくなり、体が震えるのを感じた。
いつもは付けていない額飾りの重みに頭がぐらりと傾いてしまう。
それでも体は自然と、音に合わせて振りをなぞっていった。
一巡、二巡、私は幾度とつぐみと向き合い、背中合わせになり、扇を振り舞い続けた。
最後に扇をくるりとまわし、床に置く。
ここからは、たった一度しか練習できなかった『裏』の舞手だけの振りだ。
私とつぐみは神楽鈴を持ち、ゆっくりと鳴らす。
どこかへと届いているはずの、高く澄んだ鈴の音が広がってゆく。
――もうすぐ舞が終わってしまう。
視界に飛び込んでくるつぐみの舞姿は、今まで練習で見たどのつぐみよりも美しく、触れてしまったらすぐに消えてしまうのではないかと思ってしまうほど現実離れしていた。
まるで夢を見ているような浮遊感を振り払い、私は一巡、二巡、と頭のなかで舞の振りをなぞり続ける。
鈴の音が鳴るたびに、私とつぐみの時間は少なくなってゆく。
夏がすぎて、秋が訪れ、冬を感じるようになっても何も変わらない。
でも、つぐみ。
ふいに目の端が熱くなる。
こんなに特別な、一緒の時間はもう戻ってこないよね。
くるりと円を描き、背中合わせになり離れる。
その振りのようにつぐみとの距離が開いて、消えてしまう。
まっすぐ前を向いて舞続けるつぐみと、一瞬視線が交わった。
ずっと――。
ずっとこうやって、一緒に過ごせれば。
「あっ……」
ぱっと目の前が真っ白になり、私は視線を上げた。
空を真横に切り裂く太い稲光が、頭上に広がっている。
それは真っ白な大きな龍が、怒りにまかせ長い尾を乱暴に振り降ろしているようだった。
なぜかそれを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。
間髪おかずに、体に響くほどの轟音が鳴り渡る。
思わず目を閉じたわずかなタイミングに、指先がすべり……
しゃらん。
私の手から、神楽鈴が落ちていった。
「ごめんな……さいっ……!」
私はすぐさま膝をおり、神楽鈴へと手を伸ばした。
「……つぐみ」
顔をあげると、つぐみは舞を続けていた。
白い巫女装束を翻らせ、光を受けて輝く神楽鈴をかざすつぐみは、とてもきれいだった。
私は瞬きすら忘れて、つぐみの舞を見つめていた。
――大丈夫、だよ。美硝、大丈夫。
つぐみの唇がかすかに動いて、そう言っていた。
決して視線を落とさず、その言葉どおりつぐみは舞を最後まで踊りきった。
『裏』の舞の終わりを告げる動き――神楽鈴を足元に置こうと、つぐみが膝を折った時だった。
「……えっ?」
しゃらん。
少しも揺らしていないのに、神楽鈴が鳴った。
私たちがいる舞台の上に薄くはっている水が、奇妙な模様を描いた。
ぶるぶると、地面の底からの振動を伝えるように波うっている。
「な、なに、これ――地震、なの?」
さっきまで足元にあったはずの、板張りの舞台が見えない。
私とつぐみは、いつの間にか暗い闇を映した底なし泉の上に立っていた。
「ここ……どこなの? つぐみ、大丈夫?」
地面についていた手を少しだけ上げた時、私は気づいた。
泉の底から、巨大で真っ黒な何かが蠢きながらこちらに向かって浮かび上がろうとしている。
「つぐみっ!」
私は立ち上がりつぐみに駆け寄ろうとした。
「……いやっ!」
「つぐみ……! なに、なにが……ああ」
つぐみが青い炎に呑まれていた。
私は金縛りにあったみたいに、指先ひとつ動かせず、ただそれ(傍点)を見ているしかなかった。
すると、炎を消そうと必死で腕を振り払っていたつぐみが、突然その動きを止めた。
「つぐみ……!?」
つぐみの指先から、真っ黒な百足のようなモノが何匹も飛び出し、柔らかな腕を這い上っていた。私は信じられない光景を前に、言葉を失った。
「いや、いや、いやあっ!」
ざわざわと百足の細かな足が這うたびに腕から血が流れ、つぐみは絶叫していた。
血が流れた場所には、呪われたような黒い紋様が浮かび上がっている。
やがてそれは腕から全身に広がり、つぐみは悲鳴をあげながら真っ黒に染まってゆく。
小さな赤い飛沫が、私の額をぴしゃっと濡らした。生温かで鉄臭い、鮮やかな赤。
私と同じ、人の体の中に流れる赤い血だ。
「やめて、やめ、て、もうやめて――ッ!」
ぼきぼきぼき、と不気味な音が聞こえた。
私の手を取ってくれた、柔らかくて細いつぐみの五本の指が外側に向けて折れ曲がり、蠢いていた。
「どうして、どうして、どうして、どうして」
悲鳴の合間に聞こえる、骨が折れる音は次第に大きくなる。
ばきり、ばきりと、足や背骨といった太い骨が砕け、伸びあがり、つぐみの頭はもう私の背よりも高い場所にあった。
大好きだった、私をいつだって勇気づけてくれたつぐみの指先の手。
私をつれて、どこへでも軽やかに駆けだしていった細い足。
その全部が、真っ黒な気味の悪い蟲たちに呑み込まれた。
「苦しい、わた、し、どう、して、ドウシテ、ねえ、タスケテ」
つぐみは異形化した長い腕を伸ばして、私を見おろしている。
首から上だけはまだ、つぐみのままだった。だけどあの人懐っこい丸い瞳は、光を失っていた。
――つぐみ。
私は全身の力を振り絞って、つぐみのほうに手を伸ばした。
「クルシイ、寂しイ、哀しい、眩しい――眩しい、眩しい」
つぐみの白目に赤い斑点が浮き上がり、広がってゆく。
なだらかな頬を、一筋の真っ赤な涙が流れ落ちた。
「マブシイ、タベタイ、煩イ、消したい、ケシタイ――」
ごおおおおお、と低く濁った叫び声が響く。
いやだよ。美硝、美硝のこと、わたし、傷つけたくないのに。
「……う、ぐ、つぐみ……あああっ!」
鋭い爪をもったつぐみの腕に肩を貫かれ、私の体は軽々と後方へと弾き飛ばれた。
「つぐみぃいいいい!」
体を引き裂かれるよりも痛い、深い絶望に打ちのめされながら、私は意識を失った。
*
私は、暗闇のなかに倒れていた。やっぱり体は動かない。ここがどこなのか、現実なのか夢なのかすら、わからなかった。
さらさらと水の流れ落ちて来る音が聞こえてきて、そちらのほうに頭を向ける。
少し離れた場所が仄かに光っていた。
目をこらしてみると、光の正体はどこからともなく流れ落ちてくる小さな滝の白い水飛沫だった。
《驕れる舞手よ、一人で舞う意味を知らなかったのか》
「……だ……れ」
滝の中から、ぬっと何かが現れた。
深いシワの刻まれた、翁の面。
細く切れ目の入った目玉の部分は空洞になっているのに、なぜか鋭い視線を感じる。
《われは神。古都の穢れを呑む水の神》
翁の面の口元が動くたびに、カチカチという不気味な音とともに低い声が響いた。
《お前らは都の穢れを祓う扉を開く鍵よ》
《ふたり揃ってやっと人の器として形を保てるものを、ひとりで出来ると驕ったか――見よ、愚かな舞手よ。これは罪の穢れをまとった異形ぞ》
つぐみだったモノが、翁の面の下を流れる水の中でもがき苦しんでいる。
ごあああ、とつぐみの声とは全く違う獣じみた咆哮に、体がすくんだ。
「神様、どうか、どうかつぐみを元に戻してあげて!」
一瞬、間をおいて神様が私に応えた。
《傲慢な娘よ、われに願いをたてるというのか》
「……私のせいだから、つぐみがこんなになったのは私が失敗したから……なんでもします!」
《笑わせてくれるな、お前が全てを成せるなどとは到底思えぬ》
「お願いします、教えてください!! 何をすれば、願いを……叶えてくれますか」
《われは小娘の願いなど叶えるものか》
「――そんな」
《だが、その愚かさを楽しむのも一興だ。お前は己の魂を賭けられるか》
「はい」
《では、賭けをしよう。小娘よ、われを満足させよ》
「……神様を満足させる?」
《本当(まこと)の意味でつぐみを救いたいと思うのか》
「本当に決まってます!」
かかか、とあざけ笑う声が響く。
《われとの賭けにのるか、小娘よ。面白い! ならばそれを、見せてみよ。お前の持つ俗世のものの数だけ機会をやろうか》
「俗世のもの――」
ばしゃんと水音が鳴った。
つぐみのくれた金平糖のガラス瓶が顔のすぐそばに転がっている。
フタが外れて中身がこぼれ、瓶の中には七粒しか残っていなかった。
《七度、お前は時を繰り返すことができる。それまでにわれを満足させよ》
「……必ず、助けます。お願いします、つぐみを元に戻してあげてください」
《これは賭けよ。われを満足させればお前の勝ち。できなければ負け。神との賭けに負ければお前の魂は永遠に救われぬ。お前もつぐみも、二度と人の世には戻れぬのだ》
永遠に救われない。それは異形と化してのたうちまわっているつぐみよりも重く苦しい罰なのだろうか。
「構いません」
《酔狂よ、何度も何度も愚かに踊れ、暇つぶしにはちょうど良いわ》
……神様の水で作られているから、願い事が叶うんだって。
そう言いながら笑っていたつぐみの顔を思い出した。
これから先に私が行く場所がどこで、何が待ち受けているのかはわからない。失敗してしまう可能性のほうがはるかに高いのは、わかってる。
それでも私は、行く。
金平糖を手のひらに乗せ、口に含んだ。
コリリ、と噛み砕いた瞬間、目の前が真っ暗になって……記憶が途切れた。