わたしの願いごと

文字数 6,237文字

 神楽舞のお披露目が終わって三日後――七月十三日。
 夏休みも間近の週末、舞手候補者は他の生徒たちが帰ったあとも、学院に残るようにと言われた。厳格なお嬢様でも、『双葉葵学院』の名のもとなら外泊が許され、つぐみたちは校内の一角にある離れで夜を迎えた。

「今から“奥の泉”に向かいます。足元も暗いから気を付けて」

 桜の君の後をついて、つぐみたちは春に『四神選抜』を行った泉へとたどりついた。
 誰もいない、しんと静まり返った夜の泉は、昼間とは全く違う姿だった。
 風もなくぴたりと静まった水面は夜空を映し、まるで真っ黒な紙の上に銀の粉を巻いたようだ。近くに立つと、どちらが空でどちらが地上かわからなくなってしまう。
 どこまでも底なしに見える泉のほとりに立った桜の君が、緊張感を含む声で言った。

「今日ここで教えるのは、最後の一振り。祓神楽の舞は、今まで教えた振りだけやないの」
「それを踊れた人が、祓神楽の舞手になれるのですか?」

 瑠璃の質問に、桜の君は頭を横に振る。だがそれ以上は何も答えず、押し黙ってしまった。沈黙のなか、橘の君が抱えていた木箱を開けて何かを取り出す――中身は神楽鈴だった。

「先輩、祓神楽の舞に鈴は使ってなかったはずやないですか」
「それもね、ちゃんと説明する。でも今、あなたたちがここに来た意味はたったひとつやからよく聞いて。私と緋音が今から見せる舞をなぞって見せてほしいの。でも手本の舞を見せるのは一度だけ。あなたたちがそれをなぞるのも一度だけ。たった一度しかやってはだめ」

 橘の君の真剣な声に、つぐみの背中にぞっと寒気が走った。
 一伽や瑠璃や美硝も同じく顔をこわばらせている。
 
「では、始めます」

 桜の君と橘の君が、横並びになった。胸元の高さで開いた右手に神楽鈴、その持ち手から伸びる長い紐を左手に絡めている。

「……あれ、あの鈴鳴らない」

 一伽が言う通り、桜の君たちの持つ神楽鈴は音のならない偽物だ。
 手本の舞は扇を使った今までのものと違い、ゆったりとしたテンポだった。
 すり足で体の向きを変え、トンと床を踏む。まるで足元に見えない紋様を描いているような動きだ。

「あれを一度で覚えて、練習できるのもたった一度……」

 つぐみの口から思わず声が零れた。一伽も瑠璃も同じ思いなのか瞬きもせず舞を見ている。緊張と不安で胸がいっぱいになったつぐみは、ほんの一瞬、美硝のほうに視線を傾けた。

 ――あっ

 美硝は、つぐみを見ていた。

 ――美硝さん、またこの目をしている。

 時々美硝が見せる、どこか寂しそうな苦しげな眼差しの理由は何なのだろう。薄いガラスで仕切られた向こう側にいるみたいに、隣に立っていても美硝の心はどこか遠くにある。

「もう、夏は始まってると思う?」

 美硝の囁きはつぐみにしか聞こえなかった。
 つぐみが聞き返そうとした時、桜の君と橘の君が揃って床を大きく床を踏み込む音が響いた。

「次はあなたたちの番。泉の浅瀬に足を浸して舞ってちょうだい」
 言われた通りにつぐみたちは靴を脱ぎ、素足になった。
 音の鳴らない神楽鈴を渡され、四人は泉の浅瀬に進み並んで立つ。水はちょうど足首のあたりまでの深さだ。
 夏の気配を含んだ湿った空気のせいで、首を一筋の汗が流れていく。なのに、水は恐ろしく冷たく、足首から先だけが別の世界に連れていかれてしまったようだ。
 ぱぁん、と桜の君が手を打ち、舞を始めよという合図が鳴り響いた。
 同時に、つぐみの両手が自然と持ち上がってゆく。
 つぐみは自分のなかで何かが弾けたのを感じていた。
 鈴を鳴らすタイミングや、重心の取り方――どう舞えばいいかという思いから、どんどん解き放たれ、体が軽くなってゆく。まるで魂が体から離れていくような浮遊感だった。

……あれ、わたしいま、どこにいるの?

 ふと、つぐみはすぐそばで舞っている美硝たちが見えないことに気付いた。風の音も、足を浸していた水の感触さえない。
 舞ながらつぐみはあたりを見回した。頭上にも、足元にも、澄み切った夜空に浮かぶ満天の星空が広がっている。今見ているものが現実なのか、自分がどこに立っているのか、つぐみはそれすらわからず恐ろしくなった。

 ……わたし、舞えていたかな。ちゃんと、ちゃんと……

 しゃらんと、幽かな音が鈴の音が聞こえ、つぐみの意識は途切れた。



「――み、つぐみ!」

 まぶたがほのかに温かい。
 つぐみがはっと目を開けると、美硝の細く長い指が自分の頬を包んでいる。

「みすず、さん、あれ? ここは」
「さっきと同じ、学校のなか」

 つぐみの足元で、泉の水面が揺れていた。

「わたし、誰もいなくなって、一人で舞う夢を見てた……?」
「私も同じ」

 美硝は手のひらを緩く握り、つややかな指でつぐみの頬を撫でた。

「夜空に投げ出されたみたいで、なんだか怖かった……あっ」

 手に持っていた神楽鈴の紐が切れて、水面に浮いている。

「美硝さんのも?」
「そうね。一緒よ」

 一伽と瑠璃も、やはり茫然と佇んでいた。
 つぐみがその手元に目をやると、ふたりの神楽鈴の紐は切れていない。

「みなさん、お疲れ様でした」

 桜の君の声で、四人はやっと現実に戻ったように顔をあげた。
 その隣で橘の君がつぐみたち全員を見まわし、表情を緩めた。

「これで私たちが『祓神楽』の舞手に教えることは全て終わりました。つまりあなたがたはこの時から『舞手』になります」
「あなたがたって、それは」

 つぐみが驚きに声をあげた。
 祓神楽の舞手は、四人の候補者の中から二人(傍点)選ばれる。
 その二人は祭りで舞を披露し、次の年の新たな候補者の指導者になる――つまり選ばれなかった残りの二人が神楽を舞うことはない。
 そう思っていたのはつぐみだけではないようで、一伽も隣で目を丸くしていた。

「先輩、『舞手』は私たちのなかから二人だけ選ばれるんじゃないんですか」
「舞手は四人、あなたたち全員が、『祓神楽』を舞う。この秘密を皆に明かすのも、今日の儀式の時まで許されない決まりやの――ごめんね」
「でも、お祭りの時に四人で舞っている『祓神楽』なんて見たことないです! 私、小さい時から何度も見てましたけど、そんなのなかったはず」

 瑠璃は抑えきれない驚きをそのまま桜の君にぶつけていた。

「そうよ。四人で舞うことはない。今までにたった一度も、ないわ。瑠璃ちゃんは間違ってない。これは秘密にしなあかんこと……って、そう言ったよね」
「今日ここで決めたのは、『祓神楽』の舞手として、表と裏、どっちを踊るのにふさわしいかってこと。みんなが知っている、祭りの舞台で舞うのが表(傍点)の舞手なんだ。私と緋音は去年、表の舞手に選ばれた」
「だから、こうして今年も舞うことを教えられるんよ。でも裏(傍点)の舞手は違うの。一度しか踊ってはだめ。神様に赦しを乞うための特別な舞をたった一度だけ、誰にも見られたらあかんの」
 
 皆の前で踊る『表』の舞手は、人々と神を楽しませるため。
 『裏』の舞手は神の前で赦しを乞うために踊る。その舞はたった一度しか踊ることを許されない。本当の意味での祓神楽は、『裏』の舞手が誰にも知られず神の前で踊ることだった。

「たとえ練習でも、本番と同じように踊っちゃいけないってことか……」

 つぐみはようやく、音の鳴らない偽物の鈴を渡された意味がわかった。
 たとえ練習であっても、『祓神楽』を最後まで舞うのは一度しか許されないからだ。

「うちらも去年、ここで初めて教えられたんよ。舞手候補に選ばれた生徒だけにずっと伝わっていく秘密」

 桜の君がつぐみと美硝のほうへ歩み寄り、二人が持っていた神楽鈴の紐が切れているのを確認した。

「つぐみちゃん、美硝さん。あなたたちが『裏』の舞手です。うちや恭子には聞こえなかった音が、ふたりには聞こえたでしょう?」

 つぐみの耳には、遠くから響いてきた鈴の音がまだ残っていた。

「あれはわたしたちを呼ぶ音だったんですね」

 桜の君も橘の君も、答えることはできない。それは彼女たちにもわからないからだ。

「『表』の舞手は一伽ちゃんと瑠璃ちゃんだよ。皆の前で踊る役目と、来年新しく選ばれた舞手候補に教えることもしなきゃいけない。きっとよくやってくれそうって思うけどね」

 橘の君に言われて、瑠璃は少し嬉しそうだった。
 一伽はというとまだちょっと戸惑いのほうが大きいみたいだ。

「そっか……私と瑠璃ちゃんが、来年は桜の君と橘の君って呼ばれる立場になるんね」
「一伽、大丈夫だよ。わたしが初めてここに来たとき、いろいろ教えてくれたの頼りになったもん」
「……う。い、いまそんなん言われたら、私、なんだか、なみ、涙でてきてしまう……」
「瑠璃ちゃんは二年生でやらなきゃいけなから大変やけど、頑張ってね」
「は、はい! 先輩たちの名に恥じないよう、舞も、その先のことも頑張ります」

 涙ぐんでいた一伽は、瑠璃のはっきりした声に笑みを取り戻した。
 柔らかな一伽の優しさと、はきはきした瑠璃の気性は思っていたよりも相性がいいかもしれないな――と、つぐみは来年のふたりの姿を思い浮かべた。



 最後の儀式の夜が明けた。
 つぐみたちは儀式の後の興奮も抜けず、どこか眠たげな顔のまま朝を迎えた。学校の前でそれぞれ別れ、同じ方向に帰るつぐみと美硝は学校沿いの通りを並んで歩いていた。

「……あ」

 つぐみは鼻先に落ちてきたしずくの感触に顔をあげる。空は晴れているのに、細かな雨が降り始めた。

「天気雨だ、すぐやむかなあ」
「どうかしら」

 つぐみは隣にいる美硝に落ちてゆく雨粒に目をやり、どうしようもなくその髪が濡れるのが許せない気持ちになった。

「わたし、ちょっと傘買ってきます!」
「――待って」

 美硝の返事よりも前に、つぐみは視界に入ったコンビニに向かって駆けだしたが、レジまで行って財布の中に小銭にしか入っていないことに気付いた。

「一本でも大丈夫かな」
 
 つぐみはビニール傘を開いて、美硝のほうに差し出した。

「……いいのに。私は平気だから」
「美硝さん、わたしと違って髪長いでしょ。濡れると風邪ひいちゃうかもしれない」
「つぐみの肩だって濡れてる」

 傘から外れたつぐみの制服の肩の部分だけ、雨に濡れてわずかに色濃くなっていた。

「雨宿り、しましょうか」

 美硝が、傘を持つつぐみの手を引いて小さな路地を曲がってゆく。舗装されていない小路を抜けてふたりが辿りついたのは林のなかに立つ小さな神社だった。

「ここなら濡れないわ」

 つぐみは美硝と一緒に社の張り出た屋根の下に駆け込み、ビニール傘を閉じた。

「こんなところあるなんて、知らなかった」
「たまたま通りがかったことがあるだけ」

 それだけ言うと、美硝はまた黙って空から落ちてくる雨粒を遠い目で見つめている。
 何か話したい、と思いながらもつぐみは言葉を見つけられず、黙ったまま鞄からノートを取り出した。
 そこには今まで習った神楽舞の振り付けが書いてある。つぐみは頭に舞を思い浮かべながら、ノートの上で右手の指先を踊らせた。

「それ、神楽舞の――」
「はい、全部覚えられたけど……でも毎日一度は見ないと落ち着かなくて」

 つぐみの左手に、ふと柔らかな温度が伝わってくる。
 美硝の細い指が、ぎゅっとつぐみの手を握っていた。

「……美硝さん?」
「さっき、嬉しかったの」
「えっ?」

 つぐみが顔をあげたとき、視界に光が射しこんだ。

 繋がれた指先は瞬きを数度しているうちに離れ、つぐみはそれきり何も聞けなかった。

「雨、止んだわね」
 
 雲間から梯子のような陽光がつぐみたちの足元に降りてきた。
 境内に垂れる柳の木や草花に宿った雨粒が、きらきらと輝きながら風に揺れている。つぐみは溢れかえる緑の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、ほんのひとときの雨で変化した街の光景に驚いていた。

「きれい……。わたしこの街のこと、全然知らないままだな。きっと春も夏も違う感じなのに」
「そういう感じ、変わっていないのね」
「いつ、と?」
「……なんでもないわ」

 美硝の口元がわずかに微笑んだように見えた。でもそれはほんの一瞬で消えてしまう。
 美硝はいつもそうだ。
 もっと嬉しいとか、可笑しいとか、反対に寂しいとか悲しい顔もちゃんと見せてくれたらいいのに。
だけどどうすれば、何て言えばいいのか――指先から心臓の音が伝わってきそうなほど近くにいるのに、つぐみにはわからない。

「明日『御水祭り』が終わって、秋とか冬になってもこうして一緒にいられるかな」

 つぐみにとって、この三ヶ月はあまりにも鮮烈で、現実味がなかった。
 明日になったら、目が覚めて消えてしまう夢なんじゃないかという気さえしてしまう。

「わたしたち、舞手の候補者じゃなくなっても一緒にいられるかな」
「……」

 美硝があごを引いたとき、髪が流れてきて横顔が隠れてしまった。
 頷いてくれてたらいいな、とつぐみはそれ以上何も言わなかった。



「じゃあ、ここで」
「はい、また明日!」

 結局、つぐみと美硝はあの後、何も話せないまま別れた。
 つぐみが一人になって歩いている途中、通りの先にふと見覚えのある看板が目に入った。
 六角通り沿いの古い大きな和菓子屋。美硝とふたりで入って、気まずい雰囲気になった店だ。

「あの、もうやってるんですか?」
「はい、どうぞゆっくりご覧になってくださいね」

 ころころと丸い手のひらで暖簾をかけていた店員が、つぐみを案内してくれる。
 今朝できたばかりの和菓子が並ぶショウケースをぐるりと見渡した後、つぐみはある棚を指さした。

「ここに置いてあった金平糖、今日はないですか」
「ああ! 大丈夫です、ありますよ。さっき届いたばかりなんですよ」

 店員は小走りで店の奥に戻ったあと、籠に乗せられた金平糖を持ってきてくれた。

「これねえ、神様の井戸で湧く水を使ってるから、あんまりたくさん作れないんですよ」
「神様のお水……」
「この金平糖を作ってはるお店の近くの井戸の名水がそう呼ばれてるんです。これを食べながら願いごとをすると叶うって、最近評判がよくって」

 小さなガラス瓶に入れられた金平糖は、薄らと琥珀色に染まっている。
 美硝はこれを見つめていて、でも――手にしなかった。
 ガラス瓶をじっと見るつぐみに、店員が尋ねてきた。

「お嬢さんも、何か願い事をしはるんですか?」
「わたし? わたしの願い事は……」

 ――わたしは、美硝さんが心の中にしまっている願い事が叶ってほしい。
 ――美硝さんは氷の女王なんかじゃない。寂しさを体の奥に閉じ込めているんだ。

 つぐみは美硝の横顔を思い出した。
 美しく整った、だけどいつも何かを言い留まっている、美硝の横顔はどこか寂しそうだった。

「これ、ひとつください」

 つぐみは金平糖の瓶を手に取った。
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