あなたと一緒に踊るから

文字数 11,040文字

 『四神選抜』が終わり、つぐみが舞手候補のひとりになってから二週間がたった。
 舞手候補者は毎日、放課後になると練習場に向かいひたすら神楽舞の練習をする。授業を終えたつぐみは、一伽とともに練習場に向かうのが日課だ。
 だが今日はいつもと違い、つぐみたちは校舎の角にある階段の前で立ち止まった。

「たぶん三十分くらい遅れる感じになると思うし……皆さんにごめんて伝えてもらえたら」

 クラス委員の集まりで、一伽は練習に遅れてくるらしい。真面目な一伽は、たった三十分のことでも申し訳なさそうに眉をハの字にしていた。

「うん。一伽、急いで転ばないようにね」
「ふふふ、ほんまに! こんな時に怪我したらえらいことになるわ」

 一伽が廊下を曲がろうと体の向きを変えた時、角の教室から声が聞こえてきた。

「さっき通らはったの、青様(あおさま)玄様(くろさま)やんね」
「青様に選ばれはったん、転校生なんでしょう? 身代わりで来はったいう……そやのに選ばれたんて、よっぽどすごいんやろか」
「そうなんかなあ、うちちょっと聞いたんやけど四人のなかで――」

 彼女たちの話し声はだんだん小さくなり聞こえなくなっていった。

「つぐみさん、私あの子ら叱ってくる」

 振り返った一伽の顔に、珍しく怒りの色が浮かんでいた。

「い、いいよ、だってほら、わたしってほんとに、いきなり飛び込んで来た転校生なんだし」
「でも」
「全然気にしてないから! それより一伽、時間遅れちゃうよ、私も練習場早く行かなきゃ」

 まだ心配そうな空気を残しつつも歩き出した一伽の背中に、つぐみは小さく手を振った。
 階段をおり、廊下を歩きながらつぐみは窓の外に目をやった。窓から見える光景は、この一カ月でいっきに変わった。春の気配が消え、街の匂いはもうすっかり新緑に染まっている。

「全然気にしてないってのは、うそだよね」

 練習場の扉の前に立ち、つぐみはさっき言った自分の言葉にため息をついた。

「先輩は、どうして選ばれたんですか……か」

 この二週間、一年生の瑠璃に言われたことがずっと頭のなかを回っている。
 最初は転校生のくせにって意味だと感じていた。だが日がたつにつれ、教えられた神楽舞をひとつもこなせない自分を知るたびに、どうして選ばれたんだろうという気持ちばかりがどんどん膨れがってしまう。

「あーだめだ、こんなじゃうまくなれっこない! 気持ち切り替えなきゃ」
「……早く入ってきたら」
「えっ!」

 扉の向こうから聞こえてきた美硝の声に、つぐみは飛びあがりそうになった。

「し、失礼します」

 練習場のなかにいたのは、美硝だけだった。
 美硝はすでに一人で練習を始めていたのか、頬がほのかに赤く色づいている。

「わたしの声、聞こえてました?」
「別に」

 美硝はそれだけ言って、再び練習場の中央に立ち、神楽舞の基本の動きを始めた。
 つぐみは部屋の端で柔軟をしながら、美硝の動きを目で追った。
 まっすぐ立ち、前を見据えること、すっと腕を水平に保ち続けること。舞に使う扇の持ち方、それをくるりと回す方法。二週間前に橘の君たちから教えてもらった神楽舞の基本だ。
 
 ――ほんとに、美硝さんの舞はきれい。
 
 神楽舞の基本をただ繰り返すだけの動きなのに、美硝が舞う姿は光って見える。
 おまけに美硝は、先輩たちの手本を一度見ただけで完璧に動きをなぞってみせたのだ。

 ――わたしもあんな風に、なんて思えないくらいすごいな。

「柔軟、終わった?」
「へ、わ、わたしですか?」
「他に誰も来てない」

 つぐみは前屈で乱れた髪を慌てて押さえながら、まっすぐ立ち上がった。

「いま、終わりました」
「じゃあ隣に並んで」
「わたしが、美硝さんの、となりで!?」

 つぐみは目を見開いて、そのまましばらく固まってしまった。

「あ、そっか……わたしの、見てもらえるんですね。あの、まだ全然最後までできないけど」
「いえ、一緒に踊るの」

 そう言ってから美硝は体の向きを変え、隣に並んだつぐみと向き合うように立った。

「こうやって対面式で、一度やってみて」
「は、はい、お願いします」

 練習用の扇を手に持ち、つぐみは深呼吸してから背筋を伸ばした。目の前にはつぐみと全く同じポーズの美硝が立っている。

「いつでも。あなたのタイミングで始めて」
 つぐみは頷き、練習の時にいつもそうするようにカウントを囁き一歩足を踏み出した。
呼吸を整え、わずかに膝を落とし重心を移動させる。美硝はつぐみにぴったり合わせて同じ動きをしていた。

「……あっ!」

 重心がずれて、つぐみの体がふらりと傾いた。

「そのまま続けて」
「は、はいっ」

 つぐみが舞の続きを始めると、美硝は絶妙のタイミングで合わせてきた。

「あ、えと、足……」
「私のほう、見て」
「えっ」
「次に足を踏み出す場所を探して、下ばかり見てるでしょ」

 つぐみははっとした。確かに足の動きが大きく変わる箇所で、いつも視線を落としている。「鏡を見て舞っている時も、いつもそう。私のほうを見てやってみて」

「わ、わかりました」

 まっすぐ前を向くと、自分と同じ動きをしている美硝の瞳があった。明け方の一番暗い空に似た瞳から、つぐみは目を逸らせない。

「あ、いま、わたし踏み込みが――」
「動きは間違ってない」

 つぐみはいつも動きにつまづくたびに、舞を止めていた。だが美硝を見つめていると、手足が動き続けてしまう。いつの間にかつぐみは、基本舞の後半に差し掛かっていた。

「次は扇を回す。人差し指と中指の力に気を付けて」
「あっ……!」

 ぱさっと、つぐみの扇が床に落ちた。

「す、すみませんっ! 落としちゃった……」

 さすがにそのまま舞を続けることはできず、つぐみはしゃがみこみ慌てて扇を拾い上げた。

「さっきのところまで」
「は、はい、もう一度最初から――」
「あなた、細かい部分と、全体の動きを覚えるのを一緒にしてる」

 つぐみは目を見開き、驚きを隠せなかった。

「そうだ、ほんとにその通りです……自分じゃ気づかなかった」
「焦ると、間違うわ」

 つぐみはぶんぶんと首を縦に振った。

「動きを先に体に覚えさせて。腕の高さや指先のきれいさとかは気にしなくていい」
「ありがとうございます、なんだか……できそうな気持になってきました」
「できるわ。私、あなたと一緒に踊るから」
「えっ?」

 つぐみが聞き返そうとしたのと同時に、扉が開く音がした。

「あ……し、失礼します」

 目をまん丸にした瑠璃(るり)が、慌てて深々とお辞儀をする。

「よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いしますっ」

 美硝とつぐみも同じように頭を下げ、練習場に入ったときに交わす挨拶を返した。

 ……さっきの、一緒に踊るってどういう意味なんだろう。

 つぐみが顔をあげたほんの一瞬、瑠璃の視線がまっすぐ向けられていた。瑠璃のアーモンド型の大きな目に睨まれた気がして、つぐみは心臓をきゅっと掴まれた気分になった。

「美硝先輩、お伺いしてもいいですか」
「ええ」

 瑠璃は軽く体を伸ばしたあと、美硝のそばに歩みよった。

「立ち聞きしてしまい申し訳ありません。美硝先輩はつぐみ先輩とふたりで踊ると決められたのですか」
「ええ、決めたの。互いに拒否の意志がなければ、構わないはず」
「あ、あの、それはたぶん、わたしが一番出来てなくて、美硝さんが教えてくれるからで」
「違います。つぐみ先輩はお知りにならないのですか」

 瑠璃のよく通る声に気圧され、つぐみは息を呑んだ。

「『祓神楽(はらいかぐら)』は二人一組で舞うものです。基本の舞とは全く違う、練習だって二人で息を合わせてやらなければ意味がないんです」
「それって、最後まで、ずっと――?」

 瑠璃が頷く。つぐみは自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。一番美しく舞う美硝と、自分がペアを組む、それも一時ではなく、本番で『祓神楽』を舞う二人を決める時までずっとだ。

「待って、美硝さん……さっき言ったのはそういう意味、ですか」

 美硝は顔色ひとつ変えず、こくんと頷いた。

「――そんな、わたしと最後まで一緒だなんて……そんなことして、いいんですか」

 驚いたつぐみが思わず手を握り締めた瞬間、目の前がチカチカと白く瞬き、耳元で鈴の音がした。あっと声をあげる間もなく、巫女装束、黒く染まった手……あの白昼夢が断片的に脳裏をよぎり、しゃがみこんでしまった。

「失礼しますー、ってつぐみさん! どうしたん!?」

 ばたばたと駆け寄ってきたのは一伽だ。桜の君と橘の君も一緒に練習場に入ってきたのか、慌てた声と足音が続く。

「あの、つぐみ先輩が急にしゃがみこまれて――大丈夫ですか」
「う、うん。ごめん、なんか急に目眩がしたみたい。もう平気」

 つぐみはすぐに立ち上がり手足を動かして見せたが、桜の君のほう椅子を指差して言った。

「ほんなら良かったけど無理せんとね。目で見て舞を覚えるんもやり方の一つやし、今日はつぐみちゃん、椅子に座って皆の動きをよく見とき」
「……はい」

 いつものように、先輩たちがカウントしながら基本舞を繰り返す練習が始まる。

 ……さっき、どうしていきなり白昼夢を見たんだろう。

 練習場の中央で美しく舞う美硝を見つめながら、夢を見た瞬間のことを思い出す。
 自分が美硝さんと一緒に舞ってもいいのだろうか、何故美硝さんはわたしを選んだんだろう。
 確かにそう――美硝のことを考えていた。

 ……ただの偶然、なのかな。

 今だって美硝のことをじっと見ているが、白昼夢が見える兆しはない。

「今はそんなの、考えてる場合じゃない。ちゃんと舞を体に覚えさせないと」

 つぐみの腕は、美硝の舞をなぞって自然と動き始めていた。



「はあ、ほんまにようなったねえ」

 練習場に一伽の拍手がぱちぱちと響く。

「……でも、まだ扇回すところは一度も成功できてないんだよね」
「うーん、あそこは一番難しいからね。私らは前に習ったことあるからできるんやと思う」

 四月も最後の週に入った。
 つぐみは美硝とペアを組み練習するようになって、ようやく基本舞が身についてきた。それでも、授業で日本舞踊をやったことがある皆に比べたらまだまだの出来だし、扇に至っては何度かに一度くらいしか回しきれていなかった。

「先輩たちが来はるまで、少し休憩しようか」

 一伽が言うと、瑠璃と美硝は頷いてそれぞれ自分の荷物のもとに向かった。つぐみたちもタオルで汗をふき、床に座った。

「ねえ、つぐみさん。あの変な夢ってまだ時々見てはるの?」
「うーん、ほんと、たまに……寝てる時に見るのは少なくなってきたんだけど」

 つぐみはつい先週、美硝に一緒に踊ると言われた時のことを思いだした。強烈なあの一瞬の白昼夢以降、不気味な光景は見ていない。

「『祓神楽』のこと調べてみてんけど、結局つぐみさんの白昼夢の謎はわからんかったの」

 一伽が鞄から取り出したノートは、野ばらと小鳥がデザインされた上等なものだった。開いてみると、読みやすい字で『御水洗い』の歴史や『祓神楽』のことが書かれている。

「わたし、このお祭りのこと全然知らなかった」
「そうですねえ、京都って大きなお祭りいっぱいあるし……あまり有名じゃないかもしれないけど、『御水洗い』は古くから続いてる大事なお祭りなんです」
 
 一伽が祭りの歴史や言われに詳しいのは勉強熱心な性格のせいだけではない。
 一伽の家は何百年も受け継がれている神職についていて、古い井戸から湧き上がる水の管理をしているらしい――と聞いても、つぐみにはぴんとこなかった。

「一伽の家って、やっぱりお祭りの時はみんな忙しいの?」
「うーん、お父さまやお母さまたちはバタバタしてるかな。いろんな家元さんのところを回ったり神社にもご挨拶しなきゃいけないから」
「ね、一伽ん家って、神社なの?」
「違うよ、それは瑠璃ちゃん。瑠璃ちゃんはおうちのほうでも、巫女舞やりはるんよ」

 瑠璃は学年が違うせいなのか、もともとそういう性格なのか、休憩中は一人で過ごす事が多い。つぐみがそっと覗き見ると、瑠璃は水筒を唇にあてながらぼんやり外を眺めていた。

「あのさ……瑠璃さんってどういう感じの人なのかな。一伽は、瑠璃さんとペアでしょ」
「どうしたん? 瑠璃ちゃんはそうやねえ、ほんま真面目やね」
「うん。確かに……一番練習熱心な気がする」
「なあ、選抜の時に、なんで選ばれたんって瑠璃ちゃんに言われたこと気にしてるん?」
「や、そんなんじゃないよ!」
「つぐみさんと瑠璃ちゃん見てたらわかるよ。お互いぎくしゃくしてるもん。でもたぶん、瑠璃ちゃんはつぐみさんを見てもどかしいだけなんやと思う」
「わたしのことが?」
「うん。たぶんつぐみさんが舞えないって焦る気持ちがわかるんやと思うよ。瑠璃ちゃん小さい頃から神楽舞教えられてはるから……でもどうしたらいいとか、うまく言えないでしょ」
「そう、なのかなあ」

 つぐみは抱えた膝の上にあごを乗せ、瑠璃と美硝を交互に見る。二人は練習以外で何かを話すことはほとんどなかった。

「私ね、実はちょっと考えてることあるの。きっとうまくいくんちゃうかなって思ってるねんけど……」
「ごきげんよう、皆さん集まっているようね」

 がらりと扉が開き、桜の君と橘の君が、連れ立って練習場にやって来た。
つぐみたちは立ち上がり、練習場の真ん中で横一列に並んで礼をする。いつもならそのまま練習が始まるが、今日は橘の君が改まって話し始めた。

「この二週間、皆さんの頑張りを拝見しました。基本をしっかり体に覚えさせられたようなので、今日からは『祓神楽』の振りを教えます。」
「えっ!?」

 自分の声が思いがけず大きかったのに気づき、つぐみは真っ赤になった。

「う、うーん、つぐみちゃんが不安なのもわかるよ。でも時期的に次のステップいかないと間に合わないかもしれないんだ」
「そうなんよ。お披露目会は七月の一週目、残りは二ヶ月ちょっとです。うちらも一層頑張って教えますから、よろしくお願いしますね。つぐみちゃんもがんばろね」
 皆が頷くなか、つぐみだけが目を見開いていた。

「あ、あの――お披露目会って、なんですか? もしかしてみんなの前でやるとか……?」
「ええ、双葉葵(ここ)の講堂で。いややわ、つぐみちゃんは知らんであたりまえやわ。去年ここにいはらへんかったんやもの」
「ごめん、つぐみちゃんが知らなかったのは私たちのせいだ」

 申し訳なさそうに頭を下げる橘の君の横で、瑠璃が口を開いた。

「四神に選ばれた限り、全生徒の前で神楽を披露するのが習わしです」
「ぜん……せいと……わたし、できるかな……」
「あの、でも正装して踊るんじゃないんよ、神様の前で舞うのはたった一度しか許されへんし」

 一伽はつぐみの気持ちを察してか、明るく声を張った。

「でも、それまでにわたしができなかったら……」

 つぐみは美硝のほうを見たが、いつもと変わらず無表情だ。そんなつぐみを見ていたのは、瑠璃だった。
「つぐみ先輩は……先輩は、頑張ってください」

 瑠璃は大きな瞳でつぐみを見据えそう言ってから、すっと顔を背けた。

「とにかく、いっぺん始めましょか。恭子、よろしくね」
「じゃあ、最初は少しずつパートに分けてやってみるね。音楽はなしで、拍子を数えながらやるからよく見ていて」

 橘の君が両手に扇子を持って立つ。桜の君はその横で頷くと、手拍子を打ち始めた。

「舞の前半は扇を使って踊るの。足の動きはそれほど難しくないけど、間違うとちぐはぐになってしまうから先に覚えたほうがいいんよ」

 桜の君が、動きに合わせて舞の詳細を皆に説明した。
 その言葉通り、器用にくるくると扇を回す両手に比べて、足の動きは前や後ろに一歩二歩と踏み出すだけだった。しかしよく見ていると、足を踏み出すタイミングで扇の振り方も変わってゆく。

「手の動き、最初の三歩までは両手を左右対称に動かすの。これはね、花を表す動き。振りを覚えたら、そこに込められた意味もイメージしてみてね」

 地面から伸びた茎から花が咲き、ゆらいでいる――橘の君の柔らかな手首の動きは確かにそう見えた。
 とん、と一歩下がり、橘の君が重心を右側にかける。両手を右側で揃えると、ゆっくりと左上にあげていく。どうやらパートが切り替わったようだ。

「ここは、月を表しているところ。動きはゆっくりめやけど、両手の高さをそろえるところがポイントかな。ここまでは両手の振りが同じやけど、次からは変わるからね」

 月を表すパートが終わると、手の動きが急にせわしくなった。くるくると扇を回しながら、左右で高さを変えて交差させる。橘の君がこの舞を踊ったのは一年前の夏だ。だが複雑な振りになっても動きに迷いひとつない。
 今見ているものを、自分も踊るのだ。つぐみは思わず息をのんだ。

「ここでの振りは鳥が空を舞っている様子を表しているの。次は、風」

 橘の君がくるりと体を回転させた。今までで一番大きな振りだ。長い腕は少しもぶれずに空を切り、扇が風に見えた。

「この四つの動きを組み合わせて踊るんやけどね。気を付けなあかんのは二人一組やってこと。一巡めは一緒に踊るんやけど、二巡目は鏡に映ったみたいに舞うの。ちょっとやってみるね」

 桜の君が橘の君の隣に立った。
 再び頭から神楽舞が繰り返される。優雅な足さばきと扇の表現は、そこにあるはずもない月や風や花鳥を想像させた。荘厳な音楽が聞こえてくる気さえした。
 二人が視線をふと落としたのが、二巡目の始まり。
 桜の君が逆側の振りをつとめ、両手の位置が移り変わる振りや背中合わせになる時ですら、二人の舞は完全に鏡写しになっていた。

「……て、こんな感じやの」

 桜の君が舞を終え一息つくと、練習場にはりつめていた空気が緩んだ。
 橘の君が額の汗をぬぐって言った。

「もちろん、一回では覚えられないだろうから、今日から毎日少しずつ覚えていって」
「うんうん。うちらも去年、なんべんも先輩に教えてもらってやっとできたんやし。今日からが本番と思って、一緒にがんばろね」



 初めての『祓神楽』の練習は、散々な結果だった。つぐみは足の動きだけですら一小節ぶんも踊れず、がっくりと肩を落としながら練習場を後にした。

「……はあ。わたし、あと二ヶ月で全部覚えられるかな」

 昇降口まで来て、後ろを歩いているはずの一伽を振り返ると――なぜか美硝が立っていた。

「これ、あなたももらったの?」
「えっ、な、なんで!? いい一伽、どこ!?」

 美硝は慌てるつぐみの前に、小さく折りたたんだメモを差し出した。

「白様へ、放課後六角通りでみんなでお茶しましょう。昇降口で待ってます、って一伽――?」
「さっき渡されたの。ここでいいのかしら」
「ええええ、待ってください、わたし何も……」

 わけがわからず焦っていると、後ろからバタバタと走ってくる足音が響いた。

「つぐみさーんっ!!」
「一伽、急に消えちゃったからびっくりしたよー! どこいってたの? それに、これって何?」

 メモを見せると、一伽は自分の顔の前で勢いよく両手を合わせ、頭を下げた。

「ごめんなさい、作戦失敗しちゃいました……瑠璃ちゃんに渡したら、用事で来られへんそうなの。私もお母さまからこの後買い物に付き合うようにって急に言われて」
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと?」
「だから、その……良かったらお二人で行ってきてください」
「ふた、ふたりって、美硝さんと、わたし!?」
「本当は皆で行こうって思っての、皆で一緒に甘いもん食べたらちょっと距離が縮むかなあて」
「一伽、今日言ってた考えてることって、まさかそれだったの?」
「うん。必ずまたリベンジします! でも今日はおふたりで。すっごく美味しいお店ですから、いってらっしゃいですー!」

 一伽は大きくお辞儀をしてから昇降口から飛び出していった。残されたつぐみは、混乱したまま棒立ちするしかない。

「うそ……待って……どうしたらいいの……」
「六角通りのお店なら、知っているけれど」
「えっ、それってつまり――お茶しましょうって意味、ですか?」

 つぐみの予想に反して、美硝はこくんと頷いた。



 ……気まずい、これ相当気まずいよ、一伽……。

 つぐみはテーブルを挟んで対面に座る美硝に顔を向けた。
 二人は学校を出て、京都中心部の通りのひとつ、六角通り沿いにある和菓子屋に来ている。一伽が教えてくれた和菓子屋は古くて風情のある町屋作りの店だった。

「……抹茶蜜の。あなたはどうするの」
「じゃ、じゃあわたしも同じの、で、お願い……します」

 美硝がメニューのなかから、この店の名物らしい寒天ゼリーを頼んだ。美硝がメニューをテーブルの隅に戻すと、二人の会話はあっという間に止まってしまう。

「えーと、あの。美硝さんは甘いの、好きですか?」
「それなりに」

 気まずい沈黙が再び訪れた。何を話していいのかさっぱり頭の中に浮かばない。
 スカートのひだを無意味にいじって数分。つぐみははっと一伽に渡されたノートを手にした。

「一伽のノート見てみましょか、きっと美硝さんは神楽舞のこと詳しいんだろうけど」
「そんなことないわ」

 つぐみがテーブルの上にノートを広げて覗きこむと、美硝もわずかに頭を傾けてくる。
ふたりの距離がわずかに縮んだ。

「……祓神楽の起源は古く、都に蔓延した穢れを浄化する目的で行われる。穢れを天に還すことを神に赦してもらい、人にあらず神にあらず鍵となりて、結界を開く役目を神楽舞にて果たす……ってこれ小説みたい。なんかちょっと怖い話系みたいな」

 つぐみがたどたどしく読み上げた文章を、美硝はじっと見つめている。その眼差しが何故か苦しげに見えて、つぐみは思わず美硝の顔を覗きこんでしまった。

「ねえ、後悔はしていない? 怖いと思ってる?」
「え? それは……舞がうまくできないことに?」
「いいえ。祓神楽を舞う『特別』な一人になってしまったことよ」

 どきり、と心臓が鳴った。美硝と初めてあった日に話したことが思い出された。
「怖いとか後悔より、うまくできない自分が嫌です。美硝さん、わたしずっと思ってました」

 つぐみはひと呼吸の間をおいて、美硝を見つめた。

「うまくできないわたしを、美硝さんは怒っているのか呆れているのか、どっちだろうって」
「どっちでもない」

 美硝の声はフラットだった。嘘や気遣いはそこになく、正直な言葉に聞こえた。

「私はただあなたと一緒に舞うために練習しているだけ、それだけよ」

 ふいに目の奥がきゅっと熱くなり、つぐみは慌てて俯いて一度深く息を吸った。そうしないと、涙が出そうだと気づいたからだ。

「今日も、ずっと思ってたんです。わたし、どんなに頑張っても美硝さんの足手まといになっちゃうって」
「そんなこと、私は感じたことない」
「……もし、もしもですけど、わたしのせいで美硝さんが舞手に選ばれなかったらどうしようって、ずっと思っちゃうんです」
「あなたがそう思わなければいいの」
 こらえていた涙がほんの少し溢れそうになって、つぐみは手の甲で目をぬぐった。
「美硝さん、強いな。そんなふうに考えられるようになりたい」
「氷の女王――と呼ばれるわ」
「知って……たんですか」
 お待たせしました、とちょうど二人が頼んでいたものが運ばれてきた。
透明な寒天ゼリーがガラス容器のなかでふるふる揺れていて、鮮やかな抹茶色の蜜が底のほうへとゆっくり流れ落ちている。
「きれいね」
 美硝はぽつんと呟き、スプーンでゼリーをすくいあげて唇に運んだ。
「美硝さんは、嫌じゃ……ないんですか。あの、呼ばれ方」
「そう見えている人もいるだけだと思ってるわ」
「気にしてないって、こと?」
「私は神楽舞を成功させたいの……そのことだけを考えていたい」
「わたし、結構人にどう思われてるとか、そういうこと気にしちゃうから。だから失敗しちゃうのかな」
 恥ずかしさを隠すように俯き、つぐみもスプーンを口に運んだ。
「あの、美硝さ――」
 つぐみが顔をあげた時、美硝は店内の棚の一角をじっと見つめていた。少しだけ細めた美硝の目は、優しい記憶を思い出しているように見える。
 “京の名水、神様の水で使って手作りした金平糖。
食べながら願い事を思い浮かべると叶うかもしれません”
 棚には小瓶に入った金平糖が並んでいて、人気ですと書かれた可愛いポップがついていた。
「なんだか、意外。美硝さん、ああいう可愛いのが好きなんですね」
「……えっ」
「今、あの――ガラス瓶の金平糖、見てたでしょ」
 カシャン、と足元で金属音が鳴り響く。
美硝が持っていたスプーンが床に落ち、つぐみの足元に転がってきた。
 つぐみと美硝はスプーンを拾おうとほとんど同時に屈み、二人の指先が軽く触れ合う。
「あっ」
 つぐみの視界が真っ白に光り、白昼夢を告げる鈴の音が耳元で鳴った。
〈かみさま、わたしを――して――〉
 突然、絞り出すような女の子の悲しい声が聞こえてきた。たった一言、聞き取れない言葉が響いたあとはざあざあと雑音ばかりが鳴っていた。
「……っ」
 すぐそばで痛みを呑み込むような美硝の吐息が聞こえる。つぐみが目を開けると、店の床と美硝の手をぎゅっと握る自分の指先が――真っ黒に染まった自分の指が見えた。
「……いやっ!」
 つぐみは慌てて手を引き、顔を覆った。
「つぐみ、どうしたの」
「い、いまわたし、指が……」
 つぐみが恐る恐る自分の指先を見ると、いつも何一つ変わらない肌の色だった。
「すみません、スプーンいただけますか。落としてしまって」
 美硝は立ち上がってそう店員に伝えると、しゃがんだままのつぐみのほうへ手を伸ばした。
「ごめんなさい、私が落としたせいね」
「い、いえ、わたしこそ……さっき美硝さんの手を、わたし」
 つぐみは美硝の指先を見つめた。よっぽど強く握ってしまったのか赤い痕が残っている。
「平気よ」
 美硝は小刻みに震えていたつぐみの手を包み込んだ。
「怖いと、思ってる?」
「なにを、ですか」
「つぐみは、私のことを……怖いと思う?」
 氷の女王と呼ばれている美硝の指は温かくて優しい。
つぐみは指先から伝わってくる温かさを信じ、首を横にふってはっきり答えた。
「思わない、です」
 美硝はわずかに目を伏せ、微笑んだように見えた。
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