きっと、一緒に。

文字数 5,373文字

「ふう、今日はここまでにしようか。毎日のことやから、体力削りすぎるのもようないし」

 私たちが桜の君と呼んでいる先輩が、パンと手を打つ。
 手本の舞を見せていた橘の君は、ショートカットの髪にタオルをかぶせ、くしゃっと頭全体を包み込んでから私の方にやってきた。

「美硝さんは京都の蒸し暑さに、もう慣れた? 初めてやと結構しんどいでしょ」
「は、はいっ、話しには聞いてましたが、本当に暑いですね」
「練習も大事やけど、体壊さんようにするのも忘れたらあかんよ」

 六月に入り、京都は梅雨の季節を迎えた。
 空が晴れる日は一週間のうちに二日ほどしかなく、どこに行ってもじめじめとした空気に包まれている。そんな気候のなか、練習は六月からいよいよ本格的な神楽舞の振り付けにとりかかった。

「ね、美硝。ちょっとノートにまとめたの、見てほしいんだけど」
「うん、少し待って……髪が絡んでしまって」

 つぐみは私のことを、美硝、と呼ぶようになった。
 私もつぐみを、そのまま名前だけで呼ぶ。最初はくすぐったくて、声にならなかった。 

「つぐみ先輩、これ全部ご自分で書きはったんですか」

 つぐみの持つノートにびっしりとと書きこまれた神楽舞の振りの覚えかたを見て、一年生の瑠璃は目を丸くしていた。

「全部じゃないよ。わたしと美硝で、気づいたところをピックアップしてるの」
「ふたりで作ったとしても、すごいなあと思うよ。美硝さん、ほんまうまくなったもん」

 瑠璃の後ろからノートを覗きこんだ一伽も、感心している様子だ。

「……ありがとう」
「美硝、がんばってるもんね」

 つぐみはすぐに神楽舞の振りを覚えたから、わざわざノートにまとめる必要なんてなかった。
私はつぐみから教わったことを一緒に書き込みながら舞を覚え、なんとか皆の練習についていけるようになれた。このノートが私を救ってくれたのだ。

「髪、もう大丈夫?」

 結わえたままくしゃっとなった私の後ろ髪に、つぐみの手が伸びてくる。

「もうちょっときつく結ったほうが良かったかもしれない、舞の途中で弛んでしまって」
「わたしは、あんまりぎゅっと結ぶのは好きじゃないなあ」

 つぐみの言葉にかっと顔が熱くなった気がして、私は髪をおろしてノートを見つめた。

「ねえつぐみ、今日、私が失敗しそうになったところ……忘れないうちに書いておくね」



「天気予報、当たらないのかな。まだ雲が分厚いね」

 練習を終え、ちょうど校門をくぐったあたりでつぐみが空を見上げた。
 午後五時はまだ日の明るい時間だが、今にも雨が落ちてきそうなどんよりとした雲が頭上にかかっている。

「夕方から夜は晴れって言っていたはずなのに。わたし、傘持ってきてないや」
「私も。雨、このまま降らないといいけど」
「少し早く歩いて帰る?」

 つぐみの何気ない一言に、私は少しだけ悩んで首を横にふった。

「ううん、いつも通りで大丈夫」

 放課後、友達と肩を並べて歩いているなんでもない時間は、私にとって宝物のように大事なものだ。つぐみがくれた『普通』の世界を、私は少しでもゆっくりと歩きたかった。
 だけど雨雲は私たちが歩く速度よりも早く動いていたようで、ちょうど住宅街の入り口にさしかかったあたりでいきなり大きな雨粒が落ちてきた。

「わ……結構強くなるかも。やっぱり急ごう」

 つぐみがそう言った瞬間、ぱっと雲間が光って、私は思わず身をすくめてしまった。

「――やっ」
「美硝、雷嫌いなの?」
「う、うん。ちょっと、苦手」
「待ってね、光ってから……いち、に、さん」

 つぐみは再び空が光ってからカウントを取り始め、数秒後にゴロゴロと鳴り出した遠雷に耳を傾けている。

「雷は結構遠いみたいだよ」
「……良かった」
「でもちょっと雨宿りしよう、たぶんそのほうがいい」

 つぐみは指さしたのは住宅街から少し外れた細い脇道だった。
小走りに先を行くつぐみの後をついていくと、こじんまりとしたお社の前に出た。人気はないものの、手入れはされているようだ。張り出した屋根の下に駆け込んだ時には、私たちの制服はすっかり雨を吸い込んでいた。

「すぐ止んでくれたらいいのに」

 屋根に守られ濡れていなかった縁台に、私とつぐみは腰かけた。雲はいっそう厚くなり、社の周りに植えられた柳の木や草花に大きな雨粒が降り注ぎ続けている。

「美硝の髪、濡れてる」
「真冬じゃないから、大丈夫だよ」
「だめ、風邪ひいちゃうかもしれないでしょ。わたし、練習の時に使わなかったタオルあるからそれで――」

 つぐみが鞄の中からタオルを取った時、あのノートが一緒に飛び出した。

「だめっ」

 私は縁台から飛び降り、地面に落ちる直前のノートを掴み取った。とっさに地面についた左手の下に雨を吸い込んだ土の感触が広がり、腕とスカートに泥が飛び散る。

「美硝……!」
「良かった、どこも汚れてなかった」
「ノートなんてどうでもいいのに! 美硝、どうしてそんな無茶するの」
「よくないよ!」

 雨音のなかで響いた私の声は、思っていたよりもずいぶん大きかった。

「あ……ごめんなさい。でも、本当にどうでもよくなんてないから。つぐみが一生懸命書いてくれたノート、私には……」
「――美硝」
「私には本当に……本当に大事なものだから」
「わたしは美硝のほうが大事だよ」
「えっ」

 立ち上がった私に、つぐみはハンカチを差し出した。私がそれを使うのをためらうことがわかっていたのか、つぐみはそのまま私の左手を拭い始める。

「わたしは美硝の髪が濡れているの見て、ああどうしてどこかで傘を買わなかったんだろうって思ってた」
「本当に平気よ」
「美硝がノートを大事にしてくれてる気持ち、すごく嬉しかったよ。でも同じくらい――」

 私はその時初めて、つぐみが俯くのを見た。
 きゅっと唇を噛みしめたつぐみの、大きな瞳が少しだけ潤んでいる。

「美硝が怪我しちゃわないか、心配だった」
「……うん」
「――ノートは何度でも書けるけど、美硝はひとりしかいないんだから」

 それきり、つぐみは言葉を続けなかった。
 私もつぐみの隣に腰を下ろした。つぐみに伝えたい言葉が胸のなかにいくつも浮かんだけれ
ど、どれもうまく形にならなくて、結局黙ったままの時間がどんどん過ぎてゆく。
 一度だけ遠雷が鳴って、私とつぐみははっと顔をあげた。

「あ。雨、止んでる」

 つぐみのつま先に陽だまりが落ちてきた。
 風が少し強くなり、つぐみの膝の上のノートのページがぺらぺらとめくれてゆく。

「見て、美硝。ちょうど夕暮れの時間だったんだね」

 西のほうに残っていた積乱雲を、傾き始めた太陽が照らしている。私とつぐみの頭上で、雨
が抜けた後の群青と夕暮れの陽光がまざりあって光っていた。

「あの雲の色、琥珀色に見えない? 私の一番好きな色なんだ」
「琥珀が好きなの?」
「うん。琥珀ってたまに昔の生物とか花を包んだまま石になるんだって」
「あ……小さい虫が入った琥珀、見たことある」
「いつか消えてなくなってしまうものを、ずっとずっと残しておけるのってすごく素敵じゃない? そういうところが好き」
「ねえ、つぐみ」

 夕陽に照らされたつぐみの横顔が、私にはとても眩しかった。

「私、つぐみみたいになりたい」

 私は初めて、自分からつぐみの手を握った。

「つぐみは、いつもこうやって私の手を引いて――どこかへ連れて行ってくれる」
「……うん」
「私もそんなふうに優しくなりたいって思う」

 少しだけ考えるように目を伏せてから微笑んで、つぐみは私の顔を見つめた。
 まっすぐで、奥に眩しい光を宿している瞳が私を映している。

「美硝は優しいよ」
「つぐみが私にしてくれたことに比べたら、全然足りないよ。どうしてこんなに優しくしてくれるの?」

 自分の喉がこくんと鳴るのを感じた。
 聞いてしまったら、今まで一緒にいた時間を崩してしまうような気がしてならなかった。
 それはつぐみも同じだったのかもしれない。
 つぐみが何かを言い出そうとしてとまどって、無言の時間が過ぎてゆく。
 ちゃんと測ればきっと一分にも満たなかっただろう。でも私には何十倍にも感じられた。

「つぐみは、私が舞うのがきれいって言ってくれた。一緒に踊りたいって……本当に嬉しかった。でもそれだけでこんなに私に優しくしてくれるなんて、不思議で」
「嫌だった?」
「ううん。そんなわけないよ」
「わたし、ね」

 つぐみは何度かゆっくりと瞬きをした。

「わたしね、すごく寂しい時があって」

 思いがけない言葉に、私は驚きを隠せなかった。

「わたしのことを大切にしてくれる友達がたくさんいることもわかってるし、誰かにいじわるされたりとかも全然ないんだよ」
「……うん」

 謙遜ではなく、クラスメイトでも下級生でもつぐみを悪く言う人なんていない。
 ここへ来て数カ月の私にも、それは嘘じゃないとわかる。

「でも時々、本当に寂しくなるの。その時はね、胸の奥でごおって嵐みたいな風が吹いている音がするんだ。どうしてなんだろうって自分でも思う。誰もわたしを寂しくさせるようなことなんてしないのに」

 つぐみは大きく息を吐いた。
 かすかに揺れた制服のリボンの奥で、つぐみの寂しさはどれほど激しく鳴っているのだろう。
 何も言えないまま、私はつぐみを見つめ続けた。

「わたしのこと、嫌いにならないでね」
「えっ? どうして?」
「本当のことを言ったら、きっと嫌われるって思ってた」

 つぐみが唇をきゅっと噛んだので、私は大きく首を横に振った。

「言って、つぐみ」
「美硝のなかに、わたしと同じ寂しさがあったから」

 あっ……と、私は無意識に自分の胸元に手をやっていた。

「わたしの『寂しい』と、美硝の『寂しい』は似ている気がしたから。でもそれは勘違いで、ただわたしがそう思っているだけだったらって……怖かった」

 寂しさが似ている――私にはつぐみの心を完全に知ることができない。
 だからそうだって強くは言えなかった。
 でも。つぐみは気づいてくれた。
 私の中にある、誰にも言えなかった寂しいって気持ちに、たった一人気づいてくれた。

「優しくしたなんて、言えないよ。美硝が寂しそうだとなんだか苦しくて、そうじゃなくなったらいいなってずっと思ってた」

 嬉しかった。つぐみを嫌う理由なんてなにひとつない。
 ありがとうと言いたいのにうまく声が出なくて、目元が熱くなって、私は浮き上がった涙を手の甲で慌ててぬぐう。
 その瞬間、つぐみが私の胸元に耳を押し当ててきた。

「あ。今は寂しい音が鳴ってない。わたしの願い事、叶ったのかも」
「願い事?」

 つぐみがポケットから小さな瓶を取り出した。
 ガラス瓶のなかで金平糖がひとつ、ころんと底のほうに転がっている。

「五月に一緒にいったお店、覚えてる?」
「うん、六角通りの」
「そこで売ってるの。神様の水を使って作った金平糖……願い事をしながら食べると、叶うんだって。すぐ売り切れちゃうくらい人気なんだよ」
「つぐみは……なにを願ったの」
「美硝が寂しそうな顔になりませんようにってお願いしたの」
「ありがとう、つぐみ」

 やっと言えた。
 たった五文字では伝えきれない気持ちだったけど、今の私にはそれだけ言葉にするのが精いっぱいだった。
 つぐみはガラス瓶から最後の一粒を取り出して、口に含んだ。

「最後のお願いも、決めてるの」
「……なに?」
「美硝はね、舞ってるとき本当にきれい。だからそれにちゃんと気づいてほしいってお願い」

 つぐみはぴょんと立ち上がって、数歩先で神楽舞の最初の姿勢をとった。
 舞い始めたつぐみの輪郭が、黄昏時の日に淡くにじんでいている。指先は隅々までぴんと伸びているのに、空気に溶け込みそうなほど柔らかく見えた。

「私も一緒に、踊っていい?」

 つぐみが頷く。
 私は呼吸を合わせてつぐみの横に並んだ。つぐみと私の呼吸する音が重なり、最後までずれることはなかった。
 最後の振りを終えた瞬間、ちょうど日が山の端に隠れてあたりがふっと暗くなった。

「ちゃんと、踊れたかな――たぶん」
「たぶんじゃないよ、一度も間違わなかった。わたしがきれいと思う美硝に、ちゃんと自信を持ってあげて」

 つぐみが笑顔で、私の方に手を向けてきた。私は少しだけ勢いをつけてつぐみの手を軽く叩く。私が初めて最後まで舞を踊れた時も、みんなと一緒にうまく合わせられた時も……つぐみはいつもハイタッチをしてくれた。
 パン、と手を打つ小気味良い音が鳴るたびに、私はつぐみを感じる。
 ここにいてもいいのと、もう迷うこともなくなった。

「もうすぐ、七月……あっという間だね」
「――うん」

 あともう少し。夏はもうすぐ始まる。
 止めることのできないその事実は、ほんの少し私の心に痛みを与えた。
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