第8話 立木康介 『露出せよ、と現代文明は言う』について
文字数 2,294文字
私はほぼ一貫して自分について語ることを擁護してきました。
しかし、そこに強弁の要素が皆無とは言えず、居心地の悪さを感じてもいました。
・自分について語ることは、基本的にはしたない。
・(意図しようとしまいと)幻想を捨てられなかったり、見たくない部分から目をそらしたり、語られる自分が、事実に即しているとは限らない。
・自己への考察・洞察を踏まえず、世の中に流通する言葉を採用して自己を定めて、定めた自分について語り、それは本当の自己ではない。
おおむね、この三点が居心地の悪さを招いていたかと思います。
他に、そもそも語るほど確固とした自分が在るのか、という疑問もあるのですけれども、それは問題として大きすぎるので、ひと先ず在るという前提で記述を進めさせてください。
立木康介さん、2013年『露出せよ、と現代文明は言う』を読み始めました。
商品価値の乏しさ、自己顕示欲や承認欲求に由来して文化的価値を見込めないという見地からの自分語り批判については、私の中で決着がついています。
しかし、それらとはちがう点から自分語りへの危惧・懐疑が書き記されており、取り急ぎ考えているところを書きとどめようと思った次第です。
とイタリアのジャーナリストの指摘を紹介して、本書は始まります。
2009年頃イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相夫妻の離婚騒動が新聞などメディア上で展開されたことに端を発し、
と認識し、
あるいは万引きをバラエティ番組で笑いのために語り炎上したタレント、秋葉原無差別殺傷事件などと絡めつつ
と続けます。
この段階にして、私は居心地の悪さを感じており、なぜならば私小説の延長として自分について語ることを支持する面があるにせよ、そこに承認欲求があり、かつ時代の空気・価値観に我知らず流されていた面も、また大いにあると気づかざるを得ないからでしょうか。
しかし、だから本書の記述が嫌になるわけではありません。
本書が学び直しの糧となる直感、それが誤りではないことを確信したからでした。
次の段落から「心の傷」がコンテンツ化された現状を記し、著者は
と指摘します。
本書の刊行は2013年、日本でヘイトスピーチの問題が大きくなり、ポピュリズムがはっきり台頭し始めた時期でしょうか。
私が自分を語ることに、現在のように強くこだわるきっかけは二点あって、
・うつ病が寛解して過去の自分の言動や人間関係を振り返ると、正しいと信じ込んでいたことが全く正しくなかった。
・旅行先で、セルフタイマーで記念写真を写そうと思い、誤って動画撮影をしており、そこに映った自分はキョロキョロして、いつでも逃げ出せるようにやや前傾姿勢で、はっきり挙動不審だった。
特に後者は初めて書くほど強烈な体験でした。
服装や身だしなみに気をつけるにせよ、自分が他人様の目にどう映っているのか注意したことはなく、だから明確なセルフイメージがあったわけではないけれども、絶対にあんなにヘンテコな自分は想定しておらず、いま思い出してもゾッとします。
前者の内側、後者の外側の双方から自分が信じられなくなり、それを取り戻すためには、自分を語る、あるいは自分を考察するより仕方なかった気がします。
著者は論を進め、
と問題定義をし、例えば大災害、あるいは戦争体験などを例に、深刻な悲しみや苦悩ほど語ることが困難という趣旨を記し、また精神医学的背景を交えつつ語ることが孕む危険性を指摘します。
すなわち、
刊行から10年を経て、コロナという災厄もあり著者の指摘は当たっていると感じます。
そうして自分を振り返ってみると、幸か不幸か私は私小説に思い入れがあり、私小説は本書でいう「スペクタクルの領域」に自己および暮らしを上げることが、成立の条件となりそうです。
またそのこととは別に、本書を通じて私の文筆活動には、セラピーの要素があったと感じました。
手軽に情報が入り、簡単に正論や正解が得られる状況だからこそ、丹念に論理を積み重ねた本書と出会えて幸運でしたし、時代に違和感がある方に、一読をお薦めしたいです。
しかし、そこに強弁の要素が皆無とは言えず、居心地の悪さを感じてもいました。
・自分について語ることは、基本的にはしたない。
・(意図しようとしまいと)幻想を捨てられなかったり、見たくない部分から目をそらしたり、語られる自分が、事実に即しているとは限らない。
・自己への考察・洞察を踏まえず、世の中に流通する言葉を採用して自己を定めて、定めた自分について語り、それは本当の自己ではない。
おおむね、この三点が居心地の悪さを招いていたかと思います。
他に、そもそも語るほど確固とした自分が在るのか、という疑問もあるのですけれども、それは問題として大きすぎるので、ひと先ず在るという前提で記述を進めさせてください。
立木康介さん、2013年『露出せよ、と現代文明は言う』を読み始めました。
商品価値の乏しさ、自己顕示欲や承認欲求に由来して文化的価値を見込めないという見地からの自分語り批判については、私の中で決着がついています。
しかし、それらとはちがう点から自分語りへの危惧・懐疑が書き記されており、取り急ぎ考えているところを書きとどめようと思った次第です。
ピープル(セレブリティという意味での)の法則が他のあらゆる世界、とりわけ政治の世界にも持ち込まれる今日、雑誌『ピープル』と『ニューズ・ウィーク』のあいだにはもはやいかなる違いもない、と。
とイタリアのジャーナリストの指摘を紹介して、本書は始まります。
2009年頃イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニ首相夫妻の離婚騒動が新聞などメディア上で展開されたことに端を発し、
公共空間の私有化(傍点あり・樋口)
と認識し、
しかし、同様の現象はけっして政治の世界にかぎったことでも、いわんや、ヨーロッパという地域に限定されたことでもない。もっと端的に、私たちの「心」や「内面」と呼ばれているものが、どんどん目に見えるもの、手に取れるものになってゆくという印象を日々抱かずにはいられない。
あるいは万引きをバラエティ番組で笑いのために語り炎上したタレント、秋葉原無差別殺傷事件などと絡めつつ
それはなによりも、ベルルスコーニの離婚がそうであるのと同じ意味において、私的領域が露出されてやまない時代の事件(私的領域~から事件まで傍点あり・樋口)なのである。
と続けます。
この段階にして、私は居心地の悪さを感じており、なぜならば私小説の延長として自分について語ることを支持する面があるにせよ、そこに承認欲求があり、かつ時代の空気・価値観に我知らず流されていた面も、また大いにあると気づかざるを得ないからでしょうか。
しかし、だから本書の記述が嫌になるわけではありません。
本書が学び直しの糧となる直感、それが誤りではないことを確信したからでした。
次の段落から「心の傷」がコンテンツ化された現状を記し、著者は
メディア産業を支えている資本のロジックは悲しみのスペクタクルをビジネスの道具にせずにはおかない、ということなのだ。
と指摘します。
本書の刊行は2013年、日本でヘイトスピーチの問題が大きくなり、ポピュリズムがはっきり台頭し始めた時期でしょうか。
私が自分を語ることに、現在のように強くこだわるきっかけは二点あって、
・うつ病が寛解して過去の自分の言動や人間関係を振り返ると、正しいと信じ込んでいたことが全く正しくなかった。
・旅行先で、セルフタイマーで記念写真を写そうと思い、誤って動画撮影をしており、そこに映った自分はキョロキョロして、いつでも逃げ出せるようにやや前傾姿勢で、はっきり挙動不審だった。
特に後者は初めて書くほど強烈な体験でした。
服装や身だしなみに気をつけるにせよ、自分が他人様の目にどう映っているのか注意したことはなく、だから明確なセルフイメージがあったわけではないけれども、絶対にあんなにヘンテコな自分は想定しておらず、いま思い出してもゾッとします。
前者の内側、後者の外側の双方から自分が信じられなくなり、それを取り戻すためには、自分を語る、あるいは自分を考察するより仕方なかった気がします。
著者は論を進め、
歴史学的ないし考古学的探究のようなものは、ここでの私たちの課題とはなりえない。私たちにとって重要なのは、さしあたって、ほんの半世紀前の人々はいまと同じように自分について語ってはいなかったのではないかということを、真剣に考えてみることである。
と問題定義をし、例えば大災害、あるいは戦争体験などを例に、深刻な悲しみや苦悩ほど語ることが困難という趣旨を記し、また精神医学的背景を交えつつ語ることが孕む危険性を指摘します。
すなわち、
「心の時代」、人々が自分の「心」を公開しあう時代、それは間違いなく、大規模な集団的暗示が働きやすい時代である。「心」がもはや個人の内面になく、あらゆる場所で可視化され、ひとかたまりに陳列されている状態ほど、それが一律にコントロールされ、一律に方向づけられる条件が整った状態はあるまい。
刊行から10年を経て、コロナという災厄もあり著者の指摘は当たっていると感じます。
そうして自分を振り返ってみると、幸か不幸か私は私小説に思い入れがあり、私小説は本書でいう「スペクタクルの領域」に自己および暮らしを上げることが、成立の条件となりそうです。
またそのこととは別に、本書を通じて私の文筆活動には、セラピーの要素があったと感じました。
手軽に情報が入り、簡単に正論や正解が得られる状況だからこそ、丹念に論理を積み重ねた本書と出会えて幸運でしたし、時代に違和感がある方に、一読をお薦めしたいです。