第5話 モリッシー いやと言うほど笑っている彼女が

文字数 4,751文字

純文学小説とエンタメ小説との違いは何だろう。
時代における主流の価値観、いわゆるパラダイムへの疑いがあるかどうかだろうか。

しかし、エヴァがそうだと思うけれども、先の疑問、あるいは違和感、「私はこの世界が息苦しい」をエンタメのフィールドで結実させた作品もある。

ツールの問題が大きいだろうか。
ネットはもちろん映像技術の進歩により、「文字」が創作の主流でなくなるにつれて、先の疑問を扱う作品または作者が色んなジャンルに点在するようになったということか。

その意味でモリッシーもまた、音楽を通じて紛れもなく世界に「ノー!」を叫んだ一人であり、翻訳出版拒否をしていた『モリッシー自伝』が翻訳した上村彰子さんや版元編集者などの尽力により2020年の夏に出された。

スティーブン・パトリック・モリッシー。
英国の北で労働者階級出身。苛烈な反サッチャー反王室、肉食反対、花束を腰から尾のように垂らしシャツの前をはだけさせたロックスターらしからぬロックスター。
薄い胸をあらわに、なよなよと腰を体をタコ然と踊らせながらステージ上で政治性と詩情が不思議と融合した歌詞を歌にして君臨するスミスのフロントマン。

学生だった。安くおんぼろのアパートで、彼の所属した伝説のバンド、スミスのベスト盤でありその後にCDとして再発売されたオリジナルアルバムを来る日も来る日も聴いていた。
英語は中学生に毛が生えた程度。肝心のモリッシーの歌詞はヒアリングできない。

そんなことは関係なかった。自分が何者なのか、いや何者であるのかという問いすら浮かべることなく、自分は勉強をおろそかにしょうもない日々を送った。
彼らの音楽はしょうもない日々にかろうじて差し込んだ陽射しだった。理由は分からないけれども力強いモリッシーのボーカルと相棒・ジョニー・マーのギターワークが生み出す音色に溺れた。

スミス解散後のソロワークはそれほどでもない。『インタレスティング・ドラッグ』や『モンスターが生まれる11月』などお気に入りの曲はあったが、ソウルフラワーユニオンやスエードやシャーラタンズほどにはハマらなかった。
演奏による音がスミス時代と違うということもあったが、耽溺にはマーとモリッシーのバディ感というか唯一無二感、流行言葉で言えばBL感が遅まきながらゲイだと自覚し始めた自分には大きかったのだろう。

思えば自分は好みが物心ついたときには偏っていた。初めて買ったレコードは当時の子どもらしく子門真人『およげたいやきくん』だったが、女性アイドルや男性アイドルに興味がなかった。周りが聖子ちゃんマッチと騒ぐ中、自分が聴いていたのは五十嵐浩晃『ペガサスの朝』でありユーミンであり、学年で一番最初にメガネを使用したことで悪目立ちする記憶を、くよくよ思い出していた。

スミスの曲、モリッシーの歌はまさしく自分のような者に届けられた福音であった。
教師からの体罰、男性原理に長けた同級生たちからの暴力、個の価値観を抑圧する学校および町の空気、貧しさと人生の辛酸を舐め続けた「冴えない奴ら」に。

モリッシーは歌詞に取り上げることで肯定する。友だちがおらず運動も勉強もできず働かず空想ばかりしている役立たず。
弱さを弱さで済ませず反逆に出る。そのとき弱さは強さへと反転する。

モリッシーにはそれができた。ただの強がり、やせがまんで終わらない、文芸や映画、音楽への異常な執着と禁句などと鼻から縁切りした直言、それを可能にしたへこたれない精神。
彼はなよなよした肉体のうちにそれを持っていた。

『モリッシー自伝』は読むのに時間がかかる。つまらないのではない、情報量が異様に多く、かつ濃密なのだ。
その上にアイロニックで詩情豊かなレトリックが多用されるため読解に頭を使う。

彼は罵る、無能で独善的でジョーク一つ言えず、己自身が意義を見失ったまま内なる欲望を抑圧して規律を押しつけてくる教師を。
理由もなく通りの真ん中で身内を殴りつける男と、助けを求めた祖母に冷たく対応した信仰持ちを。
貧しさと生きる喜びを奪う社会システムと、それを成立させた鉄の女を。

彼は与しない。反抗する。
T・レックスにニューヨークドールズ。化粧をした男ども。
自分の好きな音楽やテレビ番組、表現を隠さずに愛し、教師に不道徳だと叱られてもくじけない。むしろそこに教師の隠した欲望を見る。
嫌な子ども。

スミスとしてラフトレードと契約。すでに一部のメディアでは話題のバンドとなっており、けれどレーベルの不手際でひどい代物がデビュー作品として世に出される。
またレーベルに商売気がない。売る気はあっても売る戦略を知らない。無能。

レーベル主は皆の前で彼らの音楽、あるいはモリッシーの好みを、感性を否定する。その癖、曲に対し好意を持つ旨の手紙を送ってきたりする。
そして、レコードやライブから生まれる利益はしっかり得る。

重箱の隅をつついて曲の本質的なよさに目を向けない批評家にメディア。
ライブで暴動めいた狼藉を働くファン。

おそるべきはモリッシー、その一々を細かく粘っこく記述し、レーベル主からの手紙が引用されているのだが、つまり保存していたのだ、何十年前の気に食わないバカモノからの手紙を。ヘビのごとき執念。

奇妙なことだが、モリッシー側からの主観に基づく「ひどい仕打ち」、それに対する考察をつむぐ彼の筆は、ノッているように見える。ためらいがない。まるで『ビッグマウス・ストライクス・アゲイン』のジョニー・マーの疾走するギターワークのようだ。
ここまでまっすぐに人様を罵ることができる、それこそがモリッシーの才気、得難い資質。
すなわち、自分の考えへの絶対の信頼。

一方で著名人との交流、エピソードも控えめに、省略の技法をこらし、かつ印象深く綴られている。
後にゲイであることをカミングアウトするREMのマイケル・スタイプ。デビッド・ボウイ。

『クイーン・イズ・デッド』のPVは『セバスチャン』などで有名な映画監督・映像作家のデレク・ジャーマンだけれども、彼の名も当然登場する。
しかし、書き方はそっけない。理由は分からない。
彼は同性愛者であり同性愛差別にはっきり怒っており、『デレクジャーマンの遺言 危険は承知』という一冊を遺している。

一時期モリッシーは人種差別主義者だというネットニュースを目にした。
すでに以前ほどには彼に惹かれなくなっていたが、交流の絶えたかつての友人が罪を犯したと人づてに聞いたような、微妙な気持ちにはなった。

けれどそれはどうもでっちあげだったようだ。
現地におらず一方向からの主張なので割り引いて考える必要があるが、モリッシーとメディアはよい関係とは言えないらしい。

P155



あるいは

P183



終わったことをぐじぐじと、(あえて性差別的な言い方を用いれば)女々しい。
しかしそれを堂々と行うからモリッシーはモリッシーなのだ。弱さを誇る強さ。
あるいは、普通なら忘れてしかるべきガラクタを捨てず、外れた馬券をいつまでも眺めるように溜め込んだ悲しみ苦しみを創作の燃料とするタイプの者がいる。

P276



思えば「ルサンチマン」という言葉を自分が覚えたのは、モリッシーが切っかけではなかったか。

ソロになりトラブルは続くも恋人らしき存在がほのめかされて、モリッシー自身が気に入るアルバムも制作されて人生が安定したかに思える中、嵐はやってくる。
スミスのドラム、マイク・ジョイスがスミスの印税を求めて裁判を起こしたのだ。

裁判の場で繰り広げられる醜悪な人間関係にパワーバランス。理不尽とも思える判決。マイクは生涯お金に困らなくなった。

むろん、モリッシー側からの一方的な主張であり、マイクには彼なりの事情があっただろう。
マイクへの罵りはどこぞの悪辣な社長の嘆きに似ている。
「どうして社員は給料なんぞ欲しがるんだ!」

いじわるなメディアの目。とんちんかんな裁判官の判断。
モリッシーは嘆く、なぜこんな目に遭うのか。

P314



けれど、ディア・モリッシー、たぶんマイクもメディアも己の行いが何をもたらすのか予測などしないのだ。
Aという状況下にあるBという人物にCという攻撃を加えてDという結果をもたらせば留飲を下げられる。奴らにできるのはその程度の短期予測だ。
Dの結果Bが狂ったり自ら命を断ったり、逆ギレして反社会的な行為に及ぶなど中期予測はできない。しない。まず「攻撃したい」という欲求があり泥団子をこねて攻撃するための理屈をこしらえる。
行動原理が演繹法に基づいていないのだ。

モリッシーはカンにさわる。人が守りたい要素を容赦なく罵倒し人が隠したい事柄を白日の下に引っぱり出して辱める。
だからこそモリッシーはスポットライトを浴びられるのだが、同時にヤリも投げられる。
モリッシーが悩み頭を抱えているとき、デマを広めた連中は「あいつが悪い、だってボクはわるくないもん」と口をとがらせながら、ほじくった鼻くそをつまみにして安酒を飲んでるよ。

実際のところ裁判のパート(全体の5分の4が終わった辺り)を読み終えるまでは、本書について書くことはないだろうと自分は思っていた。
行間からはあまりに悪意が滲みすぎていたし、かつて心酔した人物の姿が痛々しすぎる。

だが、裁判を終えてロスへと移住し、にわかにモリッシーは変化する。

P173



彼は、裁判を機に物事を受け容れ楽しむことができるようになった。
お金や名誉の損失が要因ではない気がする。
スミスは彼が傾けた青春そのものであり、バンドメンバーはある時期まで仲間だったはずだ。
苦々しい思いと共に解散に至ったが、代わりの利かない郷愁の対象であったはずだった。

しかし、それを粉々にされ踏み潰され泥まみれにされたのだ、かつての仲間に。

デビュー以来、モリッシーは間違いと思うことにノーを言い続けてきた。それは、今もそうだろう。
しかし先の裁判を経て初めてモリッシーは個人の力ではどうしようもない理不尽を味わい、「本当の弱者」となったのではなかったか。
言い換えれば、青春期にやっと区切りをつけて大人になった。

失うものは何もない。
失うものがないからこそ訪れた安寧。
暴動を思わせるイントロからゆらぎあるボーカルを経て、緊張感ある静寂へとたどり着いたスミス最晩年の佳曲、『ラストナイト・アイ・ドリムード・サムバディ・ラブド・ミー』のように。

裁判後の2009年にリリースされた『イヤーズ・オブ・リヒューザル』はパワフルなすばらしいアルバムで、モリッシーの政治的信条とか知らん。今でも自分は聴いている。

本書で、次の場面が一番好きだ。
若き日、余命6か月を宣告された女性に対しての。

17姿P105

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