第16話 宇野千代 幸福の追求
文字数 2,540文字
三島 「おはん」は抽象小説なんですよ。
(中略)
宇野 あなたが初めてですわ、抽象小説だといってくださったのは。
(中略)
宇野 この対談はかってがちがっちゃいましたわ。三島さんは私の小説なんかお嫌いだろうと思っていたので。
三島 僕は「色ざんげ」も読んでいるし、大体読んでいますよ。
宇野 私が一番気がついてもらいたいなあと思っていたことで、自分でいうとタネ明かしになるようで、いえなかったことを、いっていただいたので、とても嬉しい。
あるいは、
宇野 この「美徳のよろめき」はよほど気に入っている作品なのですか。
(中略)
三島 この「美徳のよろめき」とか「潮騒」などは、ほんとの遊びで気楽に考えて書いた小説です。「金閣寺」なんかは書いてやろうという野心があって書いたものです。
宇野 「金閣寺」はとても好きです(中略)どうも「美徳のよろめき」は好きではなくて。
己の作品を三島は嫌いだろうと思っていたこと、逆に三島の作品に対しても好きな物と好きではない物があると率直に告げて、誌面を見る限りそこに険悪な雰囲気はさほどありません。
ノットフォーミーであっても作品を全否定するわけではないし、相手が己の作品を好きではなくとも己の作品がダメと決まったわけではない、そういう前提が揺るがなかったようですし、両者とも交流の態度が成熟しているとも言えそうです。
宇野千代、70代の作品、『雨の音』は何度も読み返しており、しかし次の場面について、いままでちゃんと考えてこなかったと反省しました。
無蓋の汽車であった。鮨詰めに乗っている乗客の上に、ばらばらと焼夷弾が落ちたら、どうなるのか。背中に油の鑵をしょった私の体は、黒焦げになるであろう。そればかりか、油が拡がって、鮨詰めの乗客全部に火が移って了うであろう。しかし、弾は当たらなかった。「怖かったわ。」とあとで、このときのことを私は吉村に話した。ほんとうに私は怖かったか。私は怖くも何ともなかった。油に火のつくのも恐れずに、私は油を運んだのか。家族の者たちの喜ぶ顔を見るために、その油を運んだのか。そうではなかった。私は何か、快楽の種となるべきものとして、油を運んだのであった。戦争は私にとって、一種、愉しいものであった、と言ったら、嘘になるだろうか。
この記述の是非は、ここでは問いません。
戦争というものを観念ではなく、実感から捉えて、こういう記述こそが思考を重ねた上での作家の文章と、浅はかにも自分は感じておりました。
しかし自分自身であり世の中の状況が変化し、どうも、それだけではない気がしています。
「快楽の種」として調理油を運ぶ。
運ぶ際には己のみならず、周囲の者も巻き込む危険があり、しかしそれは日常ではなく非日常だから、いえ危険が当たり前になった日常であって、そこにも快楽の種を見つける。そういう己に対する矜持を感じますし、戦時下にあって安全よりも快楽を優先する姿に、荒涼とした精神も淡く感じます。
「荒涼」という印象の強い言葉を使ったのには理由があり、宇野の父親は暴君と言ってよい男で、存命中、宇野はじめ家族は、家の中で笑うことを禁じられていたそうな。
その環境であり父親について宇野が恨みがましく書いた記憶は(少なくとも自分には)なく、思えば数々の男と別れ、また、そこはかとなく信用する者の裏切りに似た行為により大借金を背負ったときも、憎しみ怒りをあらわにして書くことをしていません。
宇野が恨んだかどうかは別として、感情をそのまま書かないよう抑制が効いており、その姿は危険が去るまで動かない野の動物を自分に連想させます。
この抑制は、宇野独特の矜持の在り様と関連しているように思われます。
『雨の音』における元夫のモデルである北原武夫は、まだ婚姻関係にあった宇野について以下のように書いています。
僕の友人で、宇野の友人でもある青山二郎が、いつか言つたことがある。「可笑しなことだが、大抵の人間の自尊心といふのは、みんな世間の方を向いてゐるんだね、俺の自尊心は自分の方を向いてゐるんだが!」と。
これは誠に至言だと思つたが、宇野の自尊心もさういふ自尊心で、いつもはつきり自分自身の方をむいてゐる。
家庭環境や性愛関係、金銭面に戦争、あらゆる条件に対し不平をつまびらかにしないこと、それに抗い快楽の種を探し、幸福を実現しようと努めること、そこに宇野の自尊心は関与していたでしょうか。
やはり北原との別れを題材にした69歳のときの作品、『刺す』では己の心身を切り刻むような記述をしますが、『雨の音』の文章は青竹のようにしなやかに強く、嵐が去った後の静けさが暗い色彩の中に閉じ込められている感がします。
40代『別れも愉し』『未練』、69歳『刺す』、77歳『雨の音』を読み直すと、年齢と共に記述の刺激の度合いが穏当なそれになっています。
この変化は、宇野千代そのひとによる『私の文章作法』において、幾度か繰り返される
巧いことを書いてやろう、とか、人の度肝を抜くことを書いてやろう、とか、これまでに、誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません。
を宇野自身が年齢を重ねるに連れて実践していたのかもしれません。
この戒めについては、人形作りの名人に話を聴いた『人形師天狗屋久吉』や谷崎潤一郎を例に挙げて、継続の大事さが説かれます。
つながる。毎日つながる。蟻のように遅々とした歩みであっても、それはつながり、重なる。あなたは意識していないが、あなたの能力は積み重なる。
あるいは、『別れも愉し』『未練』を書いた頃の宇野は、人の度肝を抜き、新しい物を書こうとしていたのかもしれません。
しかしその意欲を抑えながら毎日書くうちに、よい物が生まれると信じたのかもしれません。
晩年のポジティブ思考、
私何だか死なないような気がするんですよ。あはははは。
の印象が強いため見落としていましたが、東郷や北原との別れに際した宇野に、ポジティブさは希薄です。
物事を冷静に見つめる一方で、それが自身の幸福に繋がっていないことに気づいたのでしょうか。