第10話 笙野頼子さんへの私信

文字数 1,996文字

それは、ちいさな違和感でした。
帰宅したら時計の位置がふだんより二センチ右にズレていたとか、チェストの二段目に仕舞ったはずのハンカチーフが三段目に入っているとか、自分の不手際と思えば思うことのできる程度の、ちいさな違和感

しかし、日が経ち新たな事象と対峙して、愕然とするのです。
時計は誰かが動かしており、ハンカチーフも同様。
つまり、ちいさな違和感は大きな変化――多くの場合歓迎できない――が起きている兆しだったのだ、と。

デビューした新人賞の選考委員を務め、笙野さんが「師匠」と呼ぶ藤枝静男について笙野さんが書いた2020年『会いに行って 静流藤娘紀行』を読んだときに、その違和感は起こりました。

私小説を批判した丸谷才一を、私小説を擁護する氏が、若干おちょくる感じで批判していたのです。

たしかに、ご存命時は存在したであろう「文壇」の人間関係に、丸谷さんが配慮した面は否めず、でも、丸谷さんが批判したのは、あまりに強直に私小説を絶対とする日本文学の価値観であり、それは小説の可能性を狭めることとなり、でも、色々と試行錯誤した上で私小説という手段を選んだのならば、それはそれで評価する基準を持っていた、というのが自分の考えで、笙野さんの丸谷さんへの先の批判には、そこら辺の事情を省き、「私小説に批判的だった」という一面のみを切り取った感が強かったのです。

こうした論の簡略化を、笙野さんは慎重の上にも慎重に避けていたというのが、自分の印象であり、しかし印象と記述の祖語に違和感が生じて、でも、見落としたのです。
「時計が動くわけねーよ」

『会いに行って~』の、あの恐るべき記述、端的に「私は〇〇」であると宣言した一文に戦慄し(〇〇についてはネタバレしません)、読み終えた後、自分はたしか、「おもしろかったが、こうした思考が先鋭化するとビルに飛行機を突っ込ませるような行為につながるのではないか?」というような感想を、SNSに投稿したと思う。
もちろん比喩であり、本当にそうした暴力行為を笙野さんであり、その賛同者らが起こすとは思っていない。
あのテロリズムの遂行者らの精神性と、『会いに行って~』における記述とに似たものを感じたということである。

笙野さんがトランスヘイト的な記述をしていると、李琴峰さんのツイートで知ったのは、それから半年後か一年後か。
何かの誤りではないかと思い、十中八九笙野さんと李さんの「論争」になると予想した。

ならなかった。
ご健康がすぐれないのか、事は文芸の世界で解決することではなく、現実において対処することと判断したのか、そこらへんはまったく分かりません。

あのとき、笙野さんはじめ女性スペースを守ることを主張する方の声明文的な物がネットで読めて、自称・女性の男性が女性用銭湯や更衣室を利用する、それが激増するはずがないと思いました。
でも、同時に、そこまで男性に恐怖を感じている先の方々らの過去にどういう体験があったのか、その気持ちを単に差別的で片づけてはならないとも思いました。

それを強いて主張する気にならなかったのは、
1・トランスジェンダーに関する知識が自分にあまりに足りない。
2・自称・女性の男性が銭湯うんぬんは激増しないとしても、数件は起こるかもしれず、たとえ1件でも2件でも、被害者が出ることを看過してはならないと思ったから。

おおむねこの二つが理由でした。

しかし、笙野さんは自称・女性うんぬんの、荒唐無稽(とあえて書きますよ)な言説を流布した山谷えり子氏に最近の選挙で投票したと知ったときの失望感を、どう説明すればよいのか。
山谷氏が究極的に目指すところは、本当に、心の底から、女性の権利を守ることなのか。

LGBTQ理解増進法は、維新と国民民主の修正案を加味して成立しました。
自分の中では、法案不成立の次に悪い結果で、例えるならば羽根をもがれた状態、でも生き延びたという感じでしょうか。

先の法案に反対するひとびとが、ハンコで捺したように「女性ト子ドモノ権利ガー」と口にするたび、そのひとびとはトランス女性はもちろん、レズビアンやバイセクシュアル女性、あるいは、性的マイノリティの子どもらのことをどう考えているのか、不思議で仕方ありませんでした。
いまも、不思議です。

笙野頼子の、抑圧された個の立場から紡がれた作品、発言にどれだけ示唆を受け、救われたか分からない。
だが、先の発言をした頃の氏に賛同できない。
(まわりくどい言い方をしているのは、直近の作品を読んでいないから)

表現者が望まぬ変化をしたから、好きだった頃にもどって、と伝えるのは暴力的であり、それは言わない。
また、未来が分かるはずはないが、騒いだ割に世の中はそう劇的に変わらない予感もある。

羽根はもがれた。しかし生き延びた。足は残り、とぼとぼ前へ進んでいく。
主語は「自分」なのか、「私たち」なのかは、自分にもよく分からない。
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