第15話 デュラス、ヤン それは愛か

文字数 2,445文字

『ヤン・アンドレア・シュタイナー』は、『愛人』が世界的ヒットとなったマルグリット・デュラスそのひとが、最後の恋人について叙した一冊です。
デュラス60代、恋人のヤンは40以上年下、同性愛者でした。

テキストに添えられた写真を見ると、若いヤンはハンサムで聡明そうな優男、ただし神経質そうであります。
翻訳者である田中倫郎さんの解説によると、荒れた暮らしを送るデュラスと学生だったヤンは手紙のやり取りをし、ある日ヤンはデュラスの家を訪れ、そのまま居つくことになります。
そして、恋仲に。ヤンは、金銭面の面倒をデュラスに見てもらったようです、少なくとも関係の始まった早い段階では。
ある日ヤンは、精神的に不安定だったのでしょうか、泣くデュラスを慰め、デュラスは言います。



別の場面ではヤンは激昂します。



それに対しデュラスは



引用した部分以外を見ても、二人の関係は健全から遠いように見受けられます。
一緒にいて幸せそうに傍目には見えませんが、デュラスはヤンに何を求めたのかと不思議に思い田中さんによる解説を読むと、



とあります。
作品の印象から言えば、確かにデュラスは「不可能な愛」、もしくは困難を伴った愛を求めたフシがあります。困難な愛の生成であり、その継続があって、初めて本当の愛だと信じられたということでしょうか。

引用した部分のようにいがみ合い、けど別れないのは共依存に見えます。
けれども、共依存など健全から遠い恋愛あるいは体験が作品の種になる小説家というのは確かにいて、デュラスはそのタイプのように思うのです。

一方、ヤンも『デュラス、あなたは僕を(本当に)愛していたのですか』という本を書いており(村上香住子訳)、当時ヒモ状態だったヤンはパーティで人に仕事を訊かれて「なにもしていない」と答えたそうです。
それに対しデュラスが反応します。





よく分からない理屈ですが、無為な日々を送る己を不甲斐なく思うヤンを、デュラスはとっさにかばったのでしょうか。
あるいは、無為の暮らしを続けるには当然デュラスの庇護(もちろん金銭面を大きく含む)が必要であり、ヤンが逃げないよう、流行りの言い方をすれば呪いの言葉を送ったのかもしれません。無意識のレベルで。



こう懇願する以上、デュラスの頭の中にも自殺という考えは常にあったと推察されます。
それをしないでと懇願する姿にヤンへの深い執着心を見出しますが、ふと、良からぬ思いが私の中に浮かびます。
ヤンが「それ」をしたら、デュラスは苦しみ抜き、でも結局はそれを書くのかもしれません。あの、『愛人』の有名な一行、



レオボルディーナ・パロッタ・デッラ・トッレが聴き手を務めた、北代美和子訳『私はなぜ書くのか マルグリット・デュラス』はデュラス70代半ばのインタビュー。
アラフィフの私ですら古風と感じる文学観、けれど随所に冴えた考察を見せます。
ジョルジュ・バタイユについて



という指摘に膝を打ちました。でなければ『眼球譚』のあの展開は、ちょっと、ない。逆説的にカトリック的なものへの関心を、あの展開が示したといいましょうか。

また真の作家とは



と述べて、激しく同意しながら、『愛人』について、ある懐疑が生まれました。
「あの」や「この」など指示語を多用して、渇いた空気感の中に詩情をたたえたあの作品を自分は何度も読み返しました。
作中においてデュラスそのひとを思わせる女性は、幼くして性的な行為を交わした中国人男性との間の、純度の高い愛情を特異な家族関係や東南アジアの風景の中に紡ぎますが、いま疑うのは、児童に対する性虐待の体験を、デュラスは愛情に裏打ちされた行為として書き換えたのではないかという点です。
自己の精神を守るための本能から。

道徳をもって文芸作品を読み解くことが、必ずしも正しいとは思いませんし、私小説的とは言えども、実生活と作品をリンクさせすぎることも賛同できかねます。
また、この疑問は思いつき以外のなにものでもありませんし、作品の成立した時代の価値観なども踏まえなければなりません。
それに――、真偽はともかくとして、不道徳であるからこそ、私はあの作品を偏愛したことは間違いありません。

その事実は、性の暴力性への鈍麻が自分のうちにあることを証明しています。
以前と同じ気持ちで『愛人』を再読できる気がしませんが、受け容れるべきでしょう。
そうやって、野球やお笑いや、ロックや、偏愛したものへの接し方を適応させてきました。

本稿のためにネットで調べていて、数年前に亡くなったヤン・アンドレアは、デュラスと同じお墓に弔われていると知りました。
なんらかの情動が自分のうちに生まれたのですが、安堵なのか淡い不快感なのか、分析できず適切な言葉をあてはめかねています。
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