引き出し

文字数 2,808文字

 今日は仕事が早く片付いたので7時には帰宅できた。鍵を開けていつも通りのただいまを呟いてリビングに入ると、そこら中に漫画が散乱している。なんだこりゃ、と思って足元の漫画を一冊拾い上げるとそれはドラえもんの漫画だった。よく見ると、散乱している漫画のすべてがドラえもんだった。
「なんだこりゃ」
 と、今度は口に出してしっかりと発音してみると、意外なほど良い声が出たので我ながらなんか誇らしかった。ってのはどうでもよくって、そこまで考えてから辺りを見回すと、リビングの端っこの窓の前でキリコちゃんが何かやってる。何をやってるって、こうやって見ていても僕は一向に彼女が何をやっているのかが理解できないのである。で、そういうわけですので、とりあえずは彼女を客観的に見たまんまの状況を実況してみようかなと思う。つまり、彼女は今、机の引き出し?のような物の中に入っている。てか、おそらく机の引き出しであることは間違いないのだと思うが、その机の引き出しは、おそらく人為的に底の部分が撤去されていて、底なしの状態になっているのだ。彼女はその底なしの状態になっている引き出しの中にすっぽりと収まるように入っており、両手で引き出しの両縁を掴んでおり、態勢はしゃがんでいる状態だ。そして、それを一定のリズムを伴いながら、丁度上半身が引き出しから出る、というようなジェスチャーをしているのである。って改めて自分実況をここまでしたところで、ははぁと僕は思いついたのである。伊達にこの子の旦那をやっていない。つまり、これはあれだ。ドラえもんが未来からのび太の部屋に来るときに引き出しから出てくるところのおまんじゅう。もとい、オマージュだ。その状況を彼女はただひたすらに、その部分だけをひたむきに再現している。かれこれどれくらいの時間、再現を続けているのだろうか、という問いにも、彼女の姿は既に雄弁に語っており、つまり額にはうっすら汗を、その頬には桃色に蒸気しており、おそらくかなりの時間行っているのであろうことは想像に難くない。しかし、こういうことはつまり日常茶飯事なので僕は大して驚かない。
 「なんでそのシーンなの」
 一心不乱に作業を続け僕が帰ってきたことにも気が付いていない彼女に向かって、ぽーんと言葉を投げかけてみると、一瞬すべての世界の時が止まったかのように、彼女の動きがぴったりと止まる。この動きもいつものことだ。キリコちゃんは不意を突かれて無防備なところを見られるのを超恥ずかしがる。これだけ突き抜けといて恥じらいの心がまだあるなんて、恥じらいに失礼なのではないか。なんて思っていると、一旦停止していた彼女が、ぐぎぎぎぎ、っていった具合に此方に少しづつ向きを変えて動き
 「お、おかえりなさい。早かったのね」
 なんていう。そして、よくよく聞いてみると、ドラえもんを思い立って乱読してみるにつけ、その件のシーンのドラえもんを見るにつけ、一体引き出しから見える景色というものがどういうものなのか。ってところに非常に興味が湧いたらしい。まぁ、疑問に対して即座に実践を伴わせる彼女の行動力にはいつもながら敬意を表してしまうのである。なので、こういった今日みたいな出来事はそれこそいつものことなのだ。つい二週間前などは、風呂から上がるとなんだか彼女がいそいそと用意をしている。タオルで頭を拭き拭き缶ビールを開けて、その光景をダイニングの椅子に座りながら見ていると、携帯電話のビデオカメラをテーブルに設置して、キューするから僕に押してほしいと頼んできた。僕は言われた通りキューの合図とともにビデオボタンを押すと、録画が開始された。そうすると、彼女はそのカメラに向かって、何かのテレビ番組のアシスタントのような喋りっぷりを披露したあと、まぁ中々上手だったけれども、その後、最後に番組の感想等は、こっちらっまで~と言いながら、何もない画面の下部のところをちょこちょこ両手でゆびさす動きをしていた。あぁ、この動きがやりたかったのだな、と得心して僕は残りのビールをごっくりと全部飲み干した。
 キリコちゃんと付き合うっていう話を最初に友人たちに話すと、彼らは一様に、突き抜けすぎてないわ~と言った。そして、またこれも皆一様に、突き抜けすぎてないわ~の枕詞に、顔可愛いけど、がついた。僕はどちらかと言うと、顔可愛いのはそりゃ良いんだけれども、この突拍子もないところが好きだったのだ。面白くてずっと見てても飽きなかった。
 「ねぇねぇ、ケイタ君もこっちにきて。一緒に入ってくれない?」
 キリコちゃんの声でふっと我に返った僕が彼女の方を見てみると、彼女が引き出しの中に入ったまんまの姿で僕の目の前に来ていた。
 「なに?」
 「一緒に入ってよ」
 「な、なんでよ」
 「いいから」
 いいから、っていうけど、何が良いのかは一向に教えてくれないのはいつものことなので、最早何も聞くまいって思った。僕は仕事終わりの夏物のスーツシャツのまま、キリコちゃんの後ろっ側に位置して引き出しの中に入る。
 「ではでは、ちょっと歩きます」
 と彼女がいうと、リビングをとことこと歩き始めるのであった。これは一体何を連想しているのかは一向に分からなかったが、まぁとても狭い中でちょこちょこと足を前後させるのはとても骨が折れた。ときおり僕の足が彼女の足に当たったりしてまったくもって足元は大混乱だった。彼女もとても歩きずらそうにしていたので、この人は一体なぜあえて不自由な状況を作りだしているのだろうと思ったが、ここである一つの連想を思いついたのは落語の住吉駕籠だった。住吉駕籠は、旦那衆の二人が飲んだ後、べろべろに酔いながら二人で無理やり駕籠に乗ってしまうっていう話だ。駕籠は基本一人乗りなので、その時点で無理があるのだが、酔っ払いの二人はあろうことかその中で相撲話がヒートアップ。駕籠の中で相撲を取るもんだから仕舞には駕籠の底が開いてしまい、それでも旦那衆は男が廃れるとそのまま足をちょこちょこ動かして家まで帰るって話。駕籠衆の二人と旦那衆二人の足で八本。これがほんまのクモ駕籠や、ってのがオチだ。六代目笑福亭松喬の姿が目をつぶるとすぐに瞼の裏に映し出される。ってくらい、面白いネタだなぁ。とか思い出していたら、前からエルボーがずっと飛んできて僕のみぞおちに突き刺さる。
 「くはぁ」
 「真面目にやって!」
 真面目にやって!って言われたので、僕はもう少し真剣にちょこちょこと足を動かして、キリコちゃんも真面目にやって!って言った手前、自分も真剣にやらないといけないみたいに思ってるようで、僕らはさっきよりも懸命に足をちょこちょこと動かしながら、僕はその間、これはクモ駕籠ではなくなんなのだろう?なんて一人で連想しながら、リビングの外周を歩きまわっていたのだ。

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