立ち食い蕎麦
文字数 3,227文字
俺がいつもより入念に店内の掃除を行っているのは何故かというと、もうそろそろ年の暮れに差し掛かるからだ。普通は年末の大掃除なんてやるもんだが、そういう一気呵成というのは俺はとても面倒くさくて何より力が出ない。なので、それまでにちょこちょこといつもよりも入念に掃除をしたり整理をしたりして、新しい年を迎えるのが大体において俺のパターンだ。これが毎年俺が行っている恒例行事なのである。
本日もそのようなルーチンで立ち食い蕎麦を客に提供しながらいそいそと掃除をしつつ、気が付くと閉店時間の8時半が近づいてくる。俺も全ての準備を片付けてもう閉店の気分でいると、ふいにスライド式のドアが開いて冷たい風と同時に一人の客が店に入ってきた。
その姿を見て俺は絶句した。入店してきた30代くらいの男はそれこそ全身血まみれだった。顔にも服にも返り血を浴び、べっとりと赤黒く服の色が変色していた。それは一目で被害者ではなく加害者だと分かった。冬にも関わらず額には脂汗が光っており、肩で息をしていた。俺は瞬時に身の危険を感じたところで、男が此方に発声した。
「頼む、一杯食わしてくれ」
俺の方に向かって、懇願するように男が話した。そこで気づく。男の右手には比較的眺めの果物ナイフが握られており、その刃にも漏れなく血液がこびり付いている。俺はいよいよ恐怖で身体が縮こまりそうになったが、それを相手に気取られて気分を逆なでする訳にはいかないと思った。おそらく土地柄、通常の人間よりはこういう場面には慣れている方だと思うが、それでも今回のような経験は初めてだった。
「おい、ウチには何も金目のモンなんか無いぞ」
なんとか平生を装って男に話しかける。その俺の問いで何故か男は何かに気が付いたかのように、自身の全身を見渡していた。
「あ、ああ。これか。いや、悪い。これは個人的なことや。あんたに迷惑掛けることは何もせえへん。ちょっとお腹空いてるねん」
「あんた、人殺したんやろ」
よせば良いのに興味が先走りしてしまう。会話が出来る相手と分かって、少し安堵したのかもしれなかった。
「ああ。殺してきた」
「そんな人間のいうこと信じられるかいな」
そういうと、男はふうと一つ深い息を漏らした。自分で気持ちを落ち着かせるというよりは、ようやく一息ついたというような呼吸だった。
「あんたに何も恨みなんてないわな。俺が殺してしもたんは、はらわた煮えくりかえるような知り合いや。だから、あんたを刺すなんてこともない」
「… ……」
店内に短い沈黙が流れた。もう新しい客が入ってくる様子はない。店内には俺と男の二人だけだ。閉店時間まで後3分ほどあるから、それまでに入ってきた客である以上商品を提供しなければならないと思った俺は、仕方なく客として対応することにした。
「ほな、何食べる?」
水を出しながら注文を聞く
「かき揚げ蕎麦くれ。」
「あいよ」
男がカウンターにもたれる。テーブルに少し血痕がつく。俺は注文を受けてすぐに蕎麦を作り始めた。その間、男は額の汗をぬぐいながら、目頭を疲れたというように抑えて休んでいた。
出来上がりの商品を持って、男の目の前に差し出す。
「かき揚げ蕎麦。」
「有難う」
男がずるずると音を立てながら食べる。よほど腹が減っていたのか、一心不乱という風に此方の目も気にせず食らいついている。もしかしたらしばらく飯を食って居なかったのかもしれない。
俺が店を置いている此処、西成はこの男のようなややこしい奴が多い。というか、この地域は全国的にも有名な場所で、色んなところで不始末を起こした人間でどうしようもなくなったクズ達が最後に集まってくる場所として有名だ。昔元々日雇い労働者が集まる街だったが、その中に塗れてやはり犯罪者やはぐれ者も集まる街となった。住民票なんてないも同然のようなところだ。西成の奥では今でも違法賭博やクスリ売買が平然と行われ、そのバックには暴力団がいるから警察も簡単には手を出せない。そういう場所だから、俺の店に来る客層もそういった人間を相手にしている。そういう人間に対して免疫がある俺はいよいよ心が安定してきた。少し話掛けてみる。
「そんなにむかつく奴やったんか」
俺が静寂をやぶって声を掛ける。ずるずると食べていた男は、俺の方を少し見た後、食べながらそれにこたえる。
「ああ、ほんまにけったくそ悪い奴やった。」
「刺して殺したなるほど?」
「いや、事故やった。今までの因縁がある口論やった。果物ナイフを持ち出したんは向こうや。向こうが刺してきたんを必死で掴んだ。そうじゃないと俺が殺されてた。」
「ほな、警察行って理由喋ったら?」
「前科持ちの人間のゆうこと、誰が信じんねん」
そこまで言って、男は汁を一気に飲み干して一息ついた。口を血の付いた手のひらでゆっくりと拭った。
「あぁ、落ち着いた」
「お粗末様」
「まだ、俺は捕まる訳にはいかんねん。もう勘弁やわ」
「そりゃ、牢屋の中は暇やろな」
「あぁ、暇や。でもそんなことは慣れるわ。今はあそこ戻るの嫌やねん」
「なんで?」
そういうと、男は少し俯いた。目の端が和らぐように見えた。
「惚れた女がおる」
「おお。ええな。」
「ああ。ええ女や」
恋か。そういう話はいつでも少し心が浮ついてくる。
「一緒に住んでんのか?」
「いや、住んでへん。飛田の女や。住む予定やったのに、こんなことになってもた」
「また、間の悪い」
男の食べ尽くした器を下げながら話す。男はつまようじをとった。
「なんぼ?」
「350円」
えーっと、と言いながら、男は作業着のズボンから小銭を取り出してカウンターに置いた。
「ほな、これで」
「おう。… ……。今からどうするんや?」
「さてな、どうしようかな。女のところにでも囲ってもらうか。でも、足つくかも分からんなぁ。あ、にいちゃん、ちょっと紙貸してくれへん?あとかくもん」
男が何か思いついたかのように言う。
「おいおい、余計なことに巻き込まんといてくれ」
「いや、絶対巻き込まへん。ちょっといっこだけお願いしたいねん。」
汗と返り血でどろどろの顔を歪ませて、さも楽し気にカウンターに乗り出してくる。その頃には俺もこの男に慣れ始めていた。
「なんやねん。」
「これ… …。えっと、俺の名前と電話番号。」
「おう」
「これを、妖怪通りのアキって女に渡してくれ」
「は?」
「頼むわ。それだけでええから。」
そういうと、男は半ば強引にそのメモ用紙を俺の手に掴ませた。頼むぞというように、俺の手を両手で強く握ってきた。それから汲み直した水を一杯飲み干してから、ほな!と言い店を後にした。その後、しばらくの間今起こったあらゆることを思い出しながら、俺は呆然としていた。
さて、この渡されたメモ用紙どうしようか、と思ったが、どうにもできない。もっているだけでも気持ちの悪い気分がしたので、俺はとりあえず、さっさとこのメモ用紙を言われた通りちょんの間の女に渡して全て忘れさろうと思った。
そこまで考えて、すぐに店を閉めた後、飛田に行った。妖怪通りにいるアキとかいう風俗女はすぐに見つかった。40代くらいの疲れた女に見えた。装飾品と化粧でべたべたと身を包んだ女だった。遊郭から少し離れた駐車場でメモ用紙を渡すと女は露骨に嫌悪感の表情をし、メモ用紙を握りつぶしたあと、隣の側溝に捨てた。それから吸っていた煙草の煙をくゆらせながら、しばらくその男の異常性について様々な実例を挙げて話し掛けてきて、最後の結論のところでは何故か俺の事を気に行ったとか何とか、要約するとそのようなことを言ってきたので、俺はそれを何とかはぐらかした後、逃げるようにして自宅に帰った。
本日もそのようなルーチンで立ち食い蕎麦を客に提供しながらいそいそと掃除をしつつ、気が付くと閉店時間の8時半が近づいてくる。俺も全ての準備を片付けてもう閉店の気分でいると、ふいにスライド式のドアが開いて冷たい風と同時に一人の客が店に入ってきた。
その姿を見て俺は絶句した。入店してきた30代くらいの男はそれこそ全身血まみれだった。顔にも服にも返り血を浴び、べっとりと赤黒く服の色が変色していた。それは一目で被害者ではなく加害者だと分かった。冬にも関わらず額には脂汗が光っており、肩で息をしていた。俺は瞬時に身の危険を感じたところで、男が此方に発声した。
「頼む、一杯食わしてくれ」
俺の方に向かって、懇願するように男が話した。そこで気づく。男の右手には比較的眺めの果物ナイフが握られており、その刃にも漏れなく血液がこびり付いている。俺はいよいよ恐怖で身体が縮こまりそうになったが、それを相手に気取られて気分を逆なでする訳にはいかないと思った。おそらく土地柄、通常の人間よりはこういう場面には慣れている方だと思うが、それでも今回のような経験は初めてだった。
「おい、ウチには何も金目のモンなんか無いぞ」
なんとか平生を装って男に話しかける。その俺の問いで何故か男は何かに気が付いたかのように、自身の全身を見渡していた。
「あ、ああ。これか。いや、悪い。これは個人的なことや。あんたに迷惑掛けることは何もせえへん。ちょっとお腹空いてるねん」
「あんた、人殺したんやろ」
よせば良いのに興味が先走りしてしまう。会話が出来る相手と分かって、少し安堵したのかもしれなかった。
「ああ。殺してきた」
「そんな人間のいうこと信じられるかいな」
そういうと、男はふうと一つ深い息を漏らした。自分で気持ちを落ち着かせるというよりは、ようやく一息ついたというような呼吸だった。
「あんたに何も恨みなんてないわな。俺が殺してしもたんは、はらわた煮えくりかえるような知り合いや。だから、あんたを刺すなんてこともない」
「… ……」
店内に短い沈黙が流れた。もう新しい客が入ってくる様子はない。店内には俺と男の二人だけだ。閉店時間まで後3分ほどあるから、それまでに入ってきた客である以上商品を提供しなければならないと思った俺は、仕方なく客として対応することにした。
「ほな、何食べる?」
水を出しながら注文を聞く
「かき揚げ蕎麦くれ。」
「あいよ」
男がカウンターにもたれる。テーブルに少し血痕がつく。俺は注文を受けてすぐに蕎麦を作り始めた。その間、男は額の汗をぬぐいながら、目頭を疲れたというように抑えて休んでいた。
出来上がりの商品を持って、男の目の前に差し出す。
「かき揚げ蕎麦。」
「有難う」
男がずるずると音を立てながら食べる。よほど腹が減っていたのか、一心不乱という風に此方の目も気にせず食らいついている。もしかしたらしばらく飯を食って居なかったのかもしれない。
俺が店を置いている此処、西成はこの男のようなややこしい奴が多い。というか、この地域は全国的にも有名な場所で、色んなところで不始末を起こした人間でどうしようもなくなったクズ達が最後に集まってくる場所として有名だ。昔元々日雇い労働者が集まる街だったが、その中に塗れてやはり犯罪者やはぐれ者も集まる街となった。住民票なんてないも同然のようなところだ。西成の奥では今でも違法賭博やクスリ売買が平然と行われ、そのバックには暴力団がいるから警察も簡単には手を出せない。そういう場所だから、俺の店に来る客層もそういった人間を相手にしている。そういう人間に対して免疫がある俺はいよいよ心が安定してきた。少し話掛けてみる。
「そんなにむかつく奴やったんか」
俺が静寂をやぶって声を掛ける。ずるずると食べていた男は、俺の方を少し見た後、食べながらそれにこたえる。
「ああ、ほんまにけったくそ悪い奴やった。」
「刺して殺したなるほど?」
「いや、事故やった。今までの因縁がある口論やった。果物ナイフを持ち出したんは向こうや。向こうが刺してきたんを必死で掴んだ。そうじゃないと俺が殺されてた。」
「ほな、警察行って理由喋ったら?」
「前科持ちの人間のゆうこと、誰が信じんねん」
そこまで言って、男は汁を一気に飲み干して一息ついた。口を血の付いた手のひらでゆっくりと拭った。
「あぁ、落ち着いた」
「お粗末様」
「まだ、俺は捕まる訳にはいかんねん。もう勘弁やわ」
「そりゃ、牢屋の中は暇やろな」
「あぁ、暇や。でもそんなことは慣れるわ。今はあそこ戻るの嫌やねん」
「なんで?」
そういうと、男は少し俯いた。目の端が和らぐように見えた。
「惚れた女がおる」
「おお。ええな。」
「ああ。ええ女や」
恋か。そういう話はいつでも少し心が浮ついてくる。
「一緒に住んでんのか?」
「いや、住んでへん。飛田の女や。住む予定やったのに、こんなことになってもた」
「また、間の悪い」
男の食べ尽くした器を下げながら話す。男はつまようじをとった。
「なんぼ?」
「350円」
えーっと、と言いながら、男は作業着のズボンから小銭を取り出してカウンターに置いた。
「ほな、これで」
「おう。… ……。今からどうするんや?」
「さてな、どうしようかな。女のところにでも囲ってもらうか。でも、足つくかも分からんなぁ。あ、にいちゃん、ちょっと紙貸してくれへん?あとかくもん」
男が何か思いついたかのように言う。
「おいおい、余計なことに巻き込まんといてくれ」
「いや、絶対巻き込まへん。ちょっといっこだけお願いしたいねん。」
汗と返り血でどろどろの顔を歪ませて、さも楽し気にカウンターに乗り出してくる。その頃には俺もこの男に慣れ始めていた。
「なんやねん。」
「これ… …。えっと、俺の名前と電話番号。」
「おう」
「これを、妖怪通りのアキって女に渡してくれ」
「は?」
「頼むわ。それだけでええから。」
そういうと、男は半ば強引にそのメモ用紙を俺の手に掴ませた。頼むぞというように、俺の手を両手で強く握ってきた。それから汲み直した水を一杯飲み干してから、ほな!と言い店を後にした。その後、しばらくの間今起こったあらゆることを思い出しながら、俺は呆然としていた。
さて、この渡されたメモ用紙どうしようか、と思ったが、どうにもできない。もっているだけでも気持ちの悪い気分がしたので、俺はとりあえず、さっさとこのメモ用紙を言われた通りちょんの間の女に渡して全て忘れさろうと思った。
そこまで考えて、すぐに店を閉めた後、飛田に行った。妖怪通りにいるアキとかいう風俗女はすぐに見つかった。40代くらいの疲れた女に見えた。装飾品と化粧でべたべたと身を包んだ女だった。遊郭から少し離れた駐車場でメモ用紙を渡すと女は露骨に嫌悪感の表情をし、メモ用紙を握りつぶしたあと、隣の側溝に捨てた。それから吸っていた煙草の煙をくゆらせながら、しばらくその男の異常性について様々な実例を挙げて話し掛けてきて、最後の結論のところでは何故か俺の事を気に行ったとか何とか、要約するとそのようなことを言ってきたので、俺はそれを何とかはぐらかした後、逃げるようにして自宅に帰った。