シャンデリア

文字数 2,569文字

 「…あちゃー …」
 あちゃー。あるいは、あちゃあ。
 しくじったときや、やっちまったなというのときに使用する言葉である。
 この奇妙な発声を話者に強いる不可解な言葉のルーツは、実は複数あり判然としない。しかも、その言葉のアクセントが尋常離れしており、通常の人間生活を行っているものならば、あちゃーなどという口の形を形成する機会などありえない。従って、このような言葉は概ねフィクショナルなキャラクターが落胆の際に大げさに発声して、演出を盛り上げる等の役割以外の何物でもなかった。
 そんな中、俺はこの日生まれて初めてあちゃー、あるいはあちゃあ。と発音してしまう自身をはっと顧みるところにつけ、人生何があるか分からないなぁなんて、妙に達観したような凪の境地に達したのである。
 なんてって。そんな落ち着いている暇ないわ。なんだこれ。阿呆か。あちゃあ。軽くやっちまったな、俺は。あまりのしくじりに心が大層不安定になっているから凪の境地になんかなっちゃっているが、この事態は俺の自尊心をぐりゅぐりゅと削りさらしてくれる。
 つまり、四畳一間(文字通り畳四畳)の俺の部屋の頭上に、今、燦然(さんぜん)と輝く極めて不釣り合いなシャンデリア。うん。綺麗だよ、綺麗。燭台が三段になっている高級タイプである。そのようなマリーアントワネット感溢れる代物がウチのようなおんぼろアパートの一室に業者によって取り付けられてしまったところで、俺はやっと正気に返ることができたのだ。

 思えば、先日ぱちんこに行ったのが間違いだったのだ。
 俺はこのうだるような暑さを全面に馬鹿正直に受け止めて、少しも受け流そうとしない安アパートの201号室についに愛想を尽かし
 「この与太者がっ」
 と自らのルームに唾を吐き捨て後にした。そうして空調のぎんぎんになったナイスなぱちんこ店に一刻も早く到着しようと躍起になっていたのである。
 すると、不図視線をやると何やらアパートの端っこのゴミ捨て場に大きな何かが落ちている。
 一体何事かと目を凝らしながら近づいてみると、そこには涼しい水色の着物を着たうら若い女史がへたりこんでいたのだった。傍から見た分には随分と体調が悪いと見受けられる。俺はそういった他人を捨て置けない性分だ。
 「もし。お嬢さん。どう成された」
 そう声を掛けた俺の声に反応したのか、その女史はゆっくりと此方の方を向き、少し見上げた。
 女史の顔を見て俺は声も出さず驚愕したのだ。彼女はなんと若き日の吉永小百合を更に可憐にしたような美女だったのだ。凡そこのような邪悪な土地に居て良いような人種の人間では無い。これは一刻も早くこの呪われた土地から連れ出し、本来の住処に彼女を誘導することこそ、それは当面の俺の運命だと強く感じられた。
 そのようなところまで僅か0.05秒ほどで瞬考した俺は、ジェントルマンの所作でもって吉永小百合女史に丁寧に話掛ける。
 「お加減でも悪いのでしょうか」
 「申し訳御座いません。日光に当たり過ぎた所為か、少し気分が悪くなってしまって。然し、もう大丈夫です。駅は直ぐ其処ですので歩いてゆきます。」
 「いや、それは全く不可(いけ)ない。少し休まれた方が良い。ささ、此方の方へ。わたくしの行きつけの喫茶(カフェエ)がありますので、其方で休憩致しましょう。」
 「いえ、お気になさらず。」
 「いえいえ、ささ。此方へ。」
 「え、でも… …」
 「ささ。」
 と言った風に無言の圧力でもって行きつけの喫茶(カフェエ)まで吉永小百合女史を連行した俺は、指をぱつんと鳴らし
 「マスター、レーコーと彼女にミックスジュース」
 という行きつけ感をふんだんにアピールしつつ、
 「あの、ちょっと私ミックスジュースはあまり…」
 どうぞ!といつもの定位置に本日は女史を伴ってのご来店と相成ったのである。が。

 席についてから、既に頼んだレーコーとミックスジュースも届けられている今。
 目の前には数々の、あらゆるヴァージョンや国々のシャンデリアのパンフレットが、テーブルいっぱいに敷き詰められ、目の前ではミックスジュースには目もくれず、件の吉永小百合が目を爛々(らんらん)と輝かせ、シャンデリアという商品が如何に格式高く高貴で素晴らしい代物であるかをとうとうと語っていた。所謂ぷれぜん、という奴であった。
 そして、その商品説明の流暢な様と女史の物欲しげな目元を見ているにつけ、俺は気づいたのである。この俺のアパートに(うずくま)っていたところからすべて仕組まれていたのだと。全てが高級シャンデリアを購入させるこの女の策略であったのだと。このような卑劣なことをする人間がこの世の中に居るのかと。俺はシャンデリアの格式高く高貴で素晴らしい代物の商品説明を空に聞きながら、呆然自失となっていた。
 「ですので、この商品は屹度(きっと)、ヤマモト様にもお似合いの商品になることと存じ上げます。」
 と言いながら、吉永小百合はテーブルに置いていた俺の右手の平につつと白い指先を這わせた。はっと女史の顔を見ると、沢山の朝顔が花開いた気がして、俺は正気を忘れてしまったのである。
 気が付くとしっかりと俺はお買い上げ差し上げていた。

 それからというもの、俺の四畳一間4人入ればきゅうきゅうなルームの中には、何処からシャンデリアの事を聞きつけたのか、その許容量を遥かに超えた9人もの悪友たちが、もみくちゃになりながらラジカセの大音量で踊り狂うと言った、くそふざけた状況が連日連夜、取り行われた。
 しかもラジカセから流れてくる音と言ったら、ゆうろびいと、とかいう、あらゆる全てをノリのみで解決しようとする短絡的で享楽的な邪悪な集団の音楽なのであった。其処にはパンクロックバンドとしての意地というものが何一つなかった。俺が一人悲しみに暮れながら、きゅうきゅうのルームの端っこで大関を嗜んでいると悪友の一人が
 「やまもっちゃん楽しんでる?オーケイ?」
 と言いながらモヒカンを何度も振り下ろして攻撃してくるところを見るにつけ、いよいよ俺の命運も尽きたのか、此処が地獄というところかと三途の川を夢想した。宴の次の日には必ず大家に大目玉を食らった。

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