林檎

文字数 2,430文字

 「これ食べる?」
 俺が駄菓子屋の前でいらつきながら煙草を呑んでいると、気づくと隣に5歳くらいの少女が立っていた。その両手には真っ赤な林檎を持っており、片方の林檎に生で噛り付いている。赤い真ん丸の中にくっきりと小さな歯型がついていて、口の周りをもきゅもきゅさせながら、俺を見上げている。涎と林檎の汁で顔も服もべたべただ。なんだか育ちの悪いガキだなぁと思った。
 少女は俺に向かってなおももきゅもきゅと口を動かしながら、ただひたすらにこちらを見て、新品のもう片方の林檎を此方に向けている。俺は依然として煙草を食らいながら無言だ。そして少女と目をしばらく合わせてから、ようやく気がついた。少女は俺の返事待ちだったということを。つまり、問いかけは既に投げかけられており、ボールはこちらにあるのだった。なんらかのアクションをするまで少女はこの不自然なこみゅにけいしょんを止めなかったのだ。そう考えて、俺は別件でいらついていたのにも関わらず、このクソ面倒臭い状況に対応するはめになった。
 「いや、要らない」
 しかし、対応するからといって、そこから無用な事態は極力避けたい。つまり、現在対応中である自身のタスクが現在の最優先事項である俺は、まず其方が大切だったのだ。平たく言えばクソガキと遊んでいる暇は無いのである。俺は現在仕事中だ。そういうわけで、俺は必要最低限の対応、つまり極力話題が広がらないような、冷淡で簡潔で明瞭な科白を吐いてすぐに目線を少女からずらした。
 俺は現在、焦げ付かしている常連の督促の最中であったが、部下がしくじって取り逃がしたという先ほどの連絡を受けるにつけ、ミスった部下共に酷くいらついていたのである。それが本日のストレスの全容だったのだ。ここで取り逃がしてしまうと上司に何をされるか分からない。前任者は仕事でミスって次の日には行方不明になっていた。俺はまだ死にたくないのだ。ウチの会社は上がりははんぱないが、命の危険がある。元々アウトサイドで生きてきた俺のような人間は、まぁこのような環境は通常営業であるので、段取りはよく分かっていた。いざとなったら夜逃げでも何でもすればいい。
 ただし、夜逃げなど最終手段というものはいつでもかなりの体力と手間を要する。だから極力そのような事態は避けたいのである。だもんで、じゃぁどうするかっていうと、部下がしっかりと常連を逃がさないようにしてくれるに限るのである。俺は其処まで考えてやはり部下のマネジメントはしっかりとやらにゃぁ不可ん、と思って今回のしくじりの落とし前をどうしようか、ケツバットか根性焼きか頭ゴルフかなんてそのようなことを貧乏ゆすりが光の速度を超えるくらいのスピードをさせながら駄菓子屋の前で思案していたのであり、かつ部下からの現況報告を今か今かと待っていたのだった。
 だもんで、今現在クソガキの相手なんてする暇など無いのに、面倒臭いのは、いや要らないと確実に返答を返したのにも関わらず、事態は依然として変化を起こさない、つまり件の少女は先ほどと同じように真っ赤な林檎の自分の分の方をもきゅもきゅと食み口の周りを汁塗れにしながら俺の方を凝っと見ている、凝っと見るーという謎行動を継続しているのであった。然し、既にサイは投げ返した手前、此方の方から問いかけるのは何か嫌だ。凝っと見られているという不自然な環境ではあるものの、俺は少女を無視して煙草を食んだ。
 然し、なんなのだ、このクソガキは。段々と時間が経過するにつれて、この少女の異常性が際立ってくる。というのは、まず林檎を両手に持ち、丸かじりをしているという事実もさることながら、そのもきゅもきゅしている場所というのが駄菓子屋の前だという点だ。
 これが例えば駄菓子屋の前でなかったのならば「あ、宅のこいさん、林檎を食み食み健康的でらっしゃぁますね。水菓子が好物なんざぁすか。あぁ、素晴らしい。人口甘味料ではなく天然を好むなんて、なんて素晴らしい教育をなさっているのでございましょう。屹度身体の血中はまっさらさらでまるで山海の流水の如きでありましょうね」となるのだろうが、如何せん現状はそれが駄菓子屋の前。普通ならば林檎より駄菓子だろうが。美味しいチョコレートや得たいのしれないブルーの練り物等、そういうものに心奪われるのが子供の通常というやつだろうが。それがなんだ、このクソガキは。だがっしーには点も心を奪われることなく、あろうことか林檎を食み食み、更には他人に林檎をオススメするなんて。そういう譲り合いの精神さえももっと大人になってから行え。ガキはガキらしく自分の分だけ確保していろ。あまりにも言動が奇天烈すぎて気味が悪い。なんていうことを俺は考えていたのだ。そして、そこまで考えてもこのクソガキはまだ此方を凝っと見るのを止めない。常連を追い込んでいる部下からの連絡はない。空を見上げてみると先ほどとはうってかわってだんだんと曇天の表情だ。あ、そういえば夕方から雨とか天気予報でほざいていたな、予報士が。という色んな思案。目線を下げる。やっぱり子供はこちらを見ながら引き続きのもきゅもきゅ。そんなに美味しいか林檎が。阿呆か、お前は。部下からも連絡がないし。何をしてるんだ、部下共は。くそが。
 そこまで考えて、丁度煙草が一本吸い終わる。二本目を取り出そうと箱をみるとカラ。あーあ。ついてねえんでやんの。ふと子供に目を向ける。まだこっちに林檎を差し向けている。はいはい。てんで、俺は少女から新品の林檎を掴んで一かじりしてみた。ん。意外と甘い。齧ってから子供を見ると、既に子供は前を向いて自分の分をもきゅもきゅする仕事に戻っていた。意外と淡泊なのは、譲るという自身の欲求を満たせたからか。それにしても切り替わりが雲より早いな。というわけで、それではと俺も自身の林檎をもきゅもきゅする仕事に専念することにした。駄菓子屋の前で。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み