第13話

文字数 1,966文字

二月一三日
 朝、ナースステーションで預かってもらっている携帯を看護師に言って、返してもらう。メールが入っていないかをチェックすると、返信があった。

「来週初めに退院したいんだけども、予定空いてる?」

そのようなメッセージを送っておいた。

「十八日なら空いてる。その日に退院ってことでいいんじゃない。あと、十六日に外出できない?ショッピングモール行きたいんだけど」と返ってきた。妻から誘ってくるなんて珍しいことだと思った。できれば、妻とは会いたくはないのだが、この外出によって夫婦関係が改善に向かうかもしれないと微かな期待を抱いた。

「ありがとう、外出のことは聞いてみるよ」
 僕はそう返信すると、看護師に外出の件を聞いてみた。すると、
「分かりました。外出用の申請用紙を渡しますので、必要事項を書いて渡してください」
 との事だった。僕は行き先、外出時間、昼食がいらないことなど必要事項を書いて、ナースステーションに提出した。そして、妻に報告のメールを送る。

一連の作業を終えると、大西さんと岡安が何やら談笑している。近くを通ると
「よう、兄ちゃん。朝からメール打ったり、紙に何やら書いてたりしてたけど、外出でもするんか?」
 と声をかけられた。何て鋭いのだろうと思いながらも、
「まあ、そんなところですね」
 と返した。
「愛人に逢いにいくんか?」
 そんな下衆なことを重ね、一人で笑い転げる岡安。その様子を見兼ねて大西さんは
「岡安さん、そう茶々を入れてあげないでよ。彼は奥さんと可愛い娘さんと一緒に外出するんだからねぇ」
 と満面の笑みを浮かべながら、フォローを入れてくれた。

「なんだ、つまんねぇの。男なら結婚しててもモテる方がいいんだよ。俺なんか、若い頃はブイブイ言わせててな…」
 岡安の自慢が始まった。長くなりそうだと思い、立ち去ろうとすると
「何だよ、お前にもどうやったらモテるか伝授してやるから、耳の穴かっぽじってよく聞いておけよ」
 と岡安の不満そうな声がした。助けを求めて、大西さんの方を見ると呼び出されたのか、その姿は既にナースステーションの中にあった。上手く逃げたなと思った。

 岡安の話は三十分以上続いた。僕は彼の話す本当か嘘か分からないような若い頃の武勇伝に飽き飽きし、早くどこかへ行きたくなった。話が途切れるタイミングを見計らい、トイレに行くとか言って、ようやく岡安の前を離れることができたが、頭がクラクラした。でも、岡安の存在を肯定的に捉えることができてきたような気がする。なぜなら、彼の話を楽しむ自分の存在も確認できたからである。

二月一四日
 世の中はバレンタインデーで浮かれているが、今の自分には無縁の世界である。そう言い切れるのは、誰もチョコレートをくれないからだけではない。愛情なんて今の自分には遠くに光る星のようなもので、観察して楽しむのが僕の性に合っている。ただ退院の日が近づいているので、他人の恋愛を見届ける余裕はない。退院に向けて、気持ちを整えていくだけだ。

 今日は特に何事もなく過ぎていった。岡安も今日は何故だか大人しく見えた。こっちが気にしなくなったのか、実際にしおらしくしているのかは分からない。

 そういえば、川端が今まで話したことがないのに、急に
「俺、臭くないですか?」
 と尋ねてきた。本当に急な話だったので、心の準備もできておらず、
「い、いや、臭くないよ」
 と少し吃りながら、話すのが関の山だった。

 川端は
「そうですか、ありがとうございます」
 と言い残し、その場をすぐに去っていった。どのような流れで自分が臭いという話になったのかは分からないが、とにかく会話ができたことに安堵を覚えた。他者との交流を断つと決断していた自分がなぜ、ほっとした気になったのか不思議だった。

 岡安と川端が時々話しているのを見かける。岡安はとにかく喋って喋って喋りまくる。川端が上手くかわしながら、話をそらしたり、流れを断ち切ったりしているのを目の当たりにすると、人あしらいの良さは日常生活の中で鍛えられるものだろうと感じるのであった。

 僕は川端みたいな誰とでも気さくに話してしまえる人間が苦手だ。というよりも、嫉妬に近いものを感じてしまう。ある時は若い男の患者同士で、グローブとボールを借りて中庭でキャッチボールをしてみたり、またある時は、多分認知症のおばあちゃんと塗り絵をしてみたり。若い子から年寄りまで、男女問わずコミュニケーションを取ることのできる彼は、最初から他の入院患者と隔絶を決め込んできた自分にとって異分子にしか見えなかった。いや違う、僕がこの病棟での異分子であり、マイノリティなのだ。

 入院患者とちょっと話ができたというだけで、取り乱してはいけない。常に冷静に、そして仮面を被るように感情を表に出さない。それが一番大事だ。
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