第5話

文字数 2,149文字

二月二日
 病棟を入院して以来、初めて出た。来た時は右も左もわからない状態で、病院の構造を観察する余裕がなかったが、今はゆっくり周りを見渡すことができる。僕が入院している病棟は北側の端にあって、他に二、三棟病棟があるようだ。

 朝起きて、ナースステーションに排尿と排便の回数を報告し、検温を行う。それが入院以来の毎朝の習慣だ。それに加えて、入院してから一週間は血圧の測定もある。僕は低血圧なので、看護師から何か言われることは特にない。

 それらのルーティーンをこなすと、ナースステーションの横に外出予定表なるものが掲示されているのが見えた。そこに外出先、外出時間を書き込む。
「予定表に外出先を書いたらいいんですか?」
とステーションにいる看護師に聞きながら、外出予定表に必要な項目を書き込んでいく。どうやら、外出時間は既に決まっているから書かなくても大丈夫らしい。後は決められた外出時間を待つだけである。行き先は病院内の売店にしておいた。それにしても、外出時間が決められないのは厄介である。早く好きな時間に外出できるようにしてほしいものだ。

 朝食もそこそこに済ませ、歯を磨いて、ナースステーションの前で待つことにした。そして九時になったくらいだろうか、新聞を読んでいた僕に看護師が
「そろそろ売店に行きましょうか?」
と声をかけてくれた。

 財布は持っている、ジャンパーも着ている、用意は十分にできている。何も慌てることなく看護師に付いていける。看護師が電子キーを開け、開錠すると僕はすぐさま病棟の外に飛び出していった。しかし、僕は待つことにかまけて、すっかり忘れていた。裸足にサンダルという外に出るには寒い足元の格好であることに。外はやはり寒く、足元から寒気が上半身に襲ってくる。一旦、病棟に帰って靴下とスニーカーを履こうかと一瞬思った。だが少し我慢して歩けばいいだろうと思い、そのままで買い物に行くことにした。

 一緒に付いてくれる看護師は田辺という二十代の若い男だった。身長は僕よりやや低めなので、大体175センチくらいといったところだろうか。細身の身体にあどけない顔。そこに縁の太い眼鏡をかけている。その田辺君が僕に聞いてきた。
「入院してから一週間近く経ちますけど、眠れてますか?」
シンプルな質問だったが、なぜか返答に躊躇した。看護師とまともにサシで話をするのはこれが初めてだったからだ。
「あっ、えっ、そうですね。あまり眠れてないですね。消灯時間が早いからかな」
「まあ確かにそんなこともあるかもしれないですね。普段はもっと夜更かししますよね」
お互いの会話がぎこちなく感じられて、歯痒さを覚えた。どうして上手く話を広げられないのだろうか?そう思って、次はこちらから話を仕掛けてみる。
「寒いですね。ずっと病棟にいたから季節も分からなくなりますよ。春の兆しもまだなさそうだし」
自分で言っておいて、何て空々しい会話だろうかと心の中で嘆いた。芯を突く会話がなかなかできない自分に腹が立って仕方がない。
「そうですね、まだまだ寒いですね。でも、日は少しだけ長くなったような気がします」
そう田辺君が言うと、強い風が吹いてきた。僕も田辺君も肩をすくめて、身震いさせる。足元が裸足にサンダルなのを忘れていたので、油断していた。寒気がズボンを通って、全身に行き渡るのを感じる。売店まで二百メートルもないくらいだったのに、歩いている時間が、十分も二十分もかかるように思われた。

 売店に着いた。売店とは言っても、元を辿ればプレハブ小屋なのだが、各病棟のちょうど真ん中らへんにあって、利便性はまあまあである。田辺君は外で待ちますと言っていたが、寒空の下、ナース服と薄手のカーディガンで待たせるのは酷だろうと思った。売店には日用品や菓子、パン、ジュースといった食料品が並んでいて、ちょっとしたコンビニといったところだ。雑誌も置かれており、漫画雑誌を買うことにした。後はコーヒーと練り歯磨きを買うことにした。練り歯磨きがそろそろ切れそうになっていることを思い出したのだ。レジに並ぼうとしたのだが、狭い店内に次々と客が入ってきて並ぶのも一苦労。まるで満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めの状態になって、レジを待った。何とか支払いを済ませると、思った以上に時間がかかってしまった。十分以上寒空の下待たせてしまった田辺君に申し訳ないと思いながら、帰り道を歩いた。

「お待たせしました。すみません、寒い中長い間待たせてしまって」
「いいですよ。寒いのには慣れてるので。もっとゆっくり買い物していく患者さんもいらっしゃいましたからね」
田辺君はそう言いつつも、身体を震わせていた。寒い思いをしてることをアピールしているから、察してほしいという風に捉えてしまう。もっと早く買い物を済ませればよかったと後悔した。今更悔やんでも仕方ないし、混雑を回避するのは不可能だったのだが。

 病棟に戻ると、わずか十五分弱の出来事だったのだと気づく。それでも、病棟の外に出ることは、この籠の鳥生活のアクセントになると感じた。その後は、漫画雑誌を読み、ヘラヘラ笑いながら、のんべんだらりと過ごすのみだった。精神的には深く考え込むこともなくなったので、ちょうどいいのかもしれないが。
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