第6話

文字数 1,813文字

二月三日

「明日、娘を連れて面会に行くよ。何か足りないものがあったら、メールして」
 妻からのメールにそのような記述があった。
「楽しみに待ってる。シャツが足りないから持ってきてほしい」
 と短いメールを返しておいた。

 実際は会いたいこともないのであるが。理由は二つあって、一つは入院した惨めな自分を家族に見せたくないということがある。ただもう一つの理由の方がより僕の本音に近いだろう。それは妻に会いたくないということだ。

 それは今に始まったことではない。



 一一月のことだった。僕は介護士の仕事をしていた。それまでは、入所施設で働いていたのだが、二か月前にデイサービスへの異動があったばかりで、新しい仕事に戸惑いながらも一生懸命適応させようとしている最中だった。

 だが上手くいかず、いつまでもミスを連発してしまう。そのたびにデイサービスの利用者が帰ってから上司に叱責され、惨めな思いになった。毎回そういったことが繰り返され、そのうち僕は職場にいることさえも怖くなってしまった。

 余計な動きをするまいと、指示待ち人間になっていった。
「言われたことだけやればいいんだ」
 そんな思いに駆られた。そうなると、周りの視線が気になるようになってきた。
「どんな風に自分は見られているのだろう」
 そのような何をもっても知り得ないようなことを考えるようになっていく。全くもって不毛なことをしていたと今、振り返って感じる。

 やがて、居場所のなさに息苦しさを覚えるようになり、たびたび眩暈を起こすようになった。そうやって、月の内に何度も仕事を早退するようになった。

 あまりにも症状が酷いので、内科の医師に診察してもらうと、精神科の受診を勧められた。最初は抵抗があったが、この状態を抜け出す為ならと、受診を決めた。

 初めて行く精神科は意外に開放的で、よく見聞きする陰気臭さはなかった。しかし、そこの医師はパソコンに向かってばかりで、僕の話を右から左へ聞き流すような人物であった。

 また、そこに来ている患者を見るとどこか深い陰の部分を感じ取らずにはいられなかった。物事には陰と陽とがある。どんなにハード面の陽で糊塗しても、見え隠れするソフト面の陰がある。僕もその二面性に翻弄されている。

 そして、僕の中にある陰の部分は鬱と診断された。そして、鬱に対する薬と不眠を改善する薬を処方された。

 最初は妻も心配し、病院へ付き添ってもらうなどしてくれた。
「安静にしてくれたら、治るからね」
 と妻に言われて、しっかり療養したものだった。

 しかし、何度も眩暈を起こし、早退してくるに連れて、妻の態度が徐々に冷たくなっていくのを感じた。ある時は、帰ってくると、とても面倒くさそうに
「また早退したの?ちょっとは我慢しなさいよ」
 と言われてしまう。僕は
「うん、分かった」
 としか言えなかった。自分の悪い癖だ。どんなに不条理なことを言われても言い返せない。

 以降、私は職場でどれだけ辛い思いをしても、それを押し殺し、我慢するようになった。例えどれだけ傷ついても、ひたすらに耐えた。修行僧のようにいつか悟りを開くことができれば、あるいは悟りを開く展望が見えればよかった。

 しかし、いくら耐えても、新しい境地に達することはできず、職場の上司に
「しんどそうにしているなら、帰ったらどうだ」
 と吐き捨てるように言われるのが関の山だった。戦力外通告を受けたも同然の言葉に反論する気力もなく、そうかと言って早退しても帰る場所はない。本来の帰宅時間になるまで自分の車や図書館、近くの喫茶店などで待機していたことも少なくない。辛いのに誰にも自分の弱さを晒せないことが余計に僕を惨めにさせた。



 妻とはその頃から気が合わなくなってきたような気がする。正確には、それ以前から妻の言動に自分が適応して動いてきたのだが、だんだんと対応力が落ちてきたと言った方がいいのかもしれない。

 自分が勝手なことをしているからというのは十分に承知しているのだが、今のままでは自分が壊れてしまうと感じているのも事実だ。だから、妻がどのようなことを話すのか、それによっては自分というモノが修理不能になるくらいに叩きのめされる可能性もある。できるなら、会いたくない。もう少し時間がほしい。距離がほしい。でも、関係が壊れてしまうことには不思議と抵抗がある。生温いことを言うようだが、実際にそのように思っているのだから仕方ない。
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