第16話

文字数 1,382文字

二月一七日つづき
 看護師長は静かに僕の話を聞いてくれた。話を遮ったり、フォローを入れたりせずにだ。その後、僕はこの病院に入院するまでの顛末を話した。その取り留めのない話も看護師長は聞いてくれた。本当にありがたい。そして、彼はこう話をしてくれた。
「僕らは立場上、何もしてあげることはできない。でも、退院を遅らせることはできるけど、どうしますか?」
「ありがとうございます。でも、退院したい気持ちは変わりません。退院日はそのままでお願いします」
 そう僕は退院したいのだ。自由の身になって、羽ばたきたい。もう籠の鳥はこりごりだ。
「そうですか、分かりました。ただ話だけならいつでも聞きますから、遠慮なくお話してください。看護師にも言っておきます」
 そう看護師長は言い、肩を抱いてくれた。部屋を出ると僕はまた泣いてしまった。

 この前までの前向きな気持ちはどこへ行ったのだろう。今までのメモを見返してみる。確かに前向きになった気でいた。だが実体はどうだろうか? 誰と打ち解けた訳でもなく、ポジティブに考えて落ち込みを防いだわけでもなく、この約二週間にかけて何をしてきたのだろうか。全く意味のない時間を過ごしてきたのではないか。あぁ、この文章を書いている時点で、ネガティブになっている。このノートを破り捨てたい衝動に駆られる。本当に破る前に、書くのを止める。さようなら。

二月一八日
 いよいよ退院の日だ。いつも夜寝る前にメモを書いているが、今日は昼食後に書いている。ベッド周りはすでに荷物の整理が済んでいて、服や生活道具が大きなボストンバッグに入っている状態だ。

 退院のことは自分では誰にも告げていない。だから岡安や川端を始め、誰も今日退院するとは知らない筈だ。少なくともそう思っていた。しかし、荷物を整理しようとしていた時に、不意に部屋にいた岡安と目が合った。
「どうした、退院でもすんのか?」
「はい、実はそうなんです」
 岡安にはお見通しのようだった。全てを話すことにした。退院に向けての不安感も含めて。すると、
「そうか、そんなに不安やったら、またここに入院してきたらいい。自由はなくなるかもしれないけど、平穏はあるからな」
 岡安は返してくれた。
「嫁も話し合ったら、分かってくれるはずだ。人間、超えられない試練は与えないって言うからな」
 そう言うと彼はいつものような笑い声を上げた。その言葉の全てが僕の胸に突き刺さる。ありがとう岡安さん。僕はあなたと出会って良かったと思います。
「最初のうち、冷たくあしらって、申し訳ありません」
 自然と口から出ていた。独り言ではなく、彼の耳にも届いていた。そんなことを言っても、岡安は顔色一つ変えなかった。
「鬱陶しがられることには慣れてるから、気にすんな。お節介が過ぎるって周りからよく言われるんだよなー。そんなことよりお互い退院したら、キャバクラ行こうぜ。あっ、でも俺アル中で入院してるんだった」
 そうやって戯けてみせる岡安。それに対して、僕は
「それじゃあ、キャバクラは行けませんね。その代わり、ランチの美味い店に行きましょう」
 と返した。岡安の気遣いに感謝し、最後は笑顔で
「ありがとう」
 と言い合いながら、握手を交わした。

 そして今、看護師に呼び出された。迎えが来たのだろう。これでこのメモは終了にする。家に帰ったら、棚の奥にでも隠しておこう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み