第10話

文字数 1,318文字

二月一〇日
 あの人はどうして、悉く自分の中に入ってきて、引っ掻き回して帰っていくのだろうか?あれは僕がメモを書き終えて、眠ろうとした時だった。ゴォーという今までにない轟音が聞こえ、眠りに落ちそうになっていた僕の耳を直撃する。堪らず目を覚ました僕は眼を閉じてみたり、羊の数を数えてみたりして寝ようと試みた。しかし、いびきは止まることなく、耳をつんざく。

 結局ベッドから起き、水を飲むことにした。コップを持ち、僅かなフットライトの照らす廊下を歩く。夜の食堂は当然誰もおらず、静まり返っている。横のナースステーションでは、夜勤の看護師がパソコンとにらめっこしながら、事務作業をこなしている。給水器で水を汲み、椅子に腰掛けてゆっくり飲んでみる。気持ちが少し軽くなり、さっぱりした感じになる。
「誰もいないし、もう少し長居しようか」
 と独り言を言い、僕はもう少し、食堂に居座ることにした。
僕は回想する、薬を飲んで自死しようとするまでの経緯を。



 職場を休むようになったのは一〇月に入ってのことだった。有給休暇が残っていたので、それを使って二日働いて一日休んだ。幸い職場の雰囲気としては有給休暇を取りづらい感じではなかったので、思い切って使うことにした。その頃から休職したいとの思いもあったのだが、なかなか家族に言い出すことができなかった。

 それを言い出すきっかけになったのは、いよいよ働いている際に体のだるさを感じるようになったからである。これは必ず職場に大きな迷惑をかけてしまう。途中で帰るよりも最初から休んでしまう方が割り切りができてよいと思ったからである。相当な反発は想定していた。しかし、妻からは次の一言があるのみだった。

「今休んだら、会社に行けなくなるよ」

 だが、その一言が重くのしかかった。確かにその通りなのだ。でも休息が必要なのも肌で感じている。妻とも話し合い、一か月休職することになった。

 その一か月間はとても肩身が狭く、辛い日々だった。家事一切を任されることになったのだが、慣れないこと故に上手くいかない。妻になじられることも増え、ストレスは溜まっていく一方。ようやく一か月が経ったところで仕事復帰ということになったのだが、半日出勤であり、仕事から帰ってくると家事をしなければならないことに変わりはなかった。



 そこまで回想したところで、
「あら、眠れないんですか?起きてるのはいいですけど、お部屋に戻って下さいね」
と巡回中の看護師に言われてしまった。仕方なく病室に戻って、ベッドに潜り込んで休むことにした。その時は意外と岡安のいびきなど気にならず、眠りに落ちたのであった。

 朝はいつもより、遅く起きた。田辺君に
「寝ているところ、すみません。体温計測と排泄の様子を教えてください」
と叩き起こされたのだ。一瞬、”ハイセツ”の意味が理解できず、
「”ハイセツ”って何?」
と聞き返した。段々、頭が冴えてくると、状況を飲み込むことができた。慌てて掛布団を剥いで、体温計を田辺君から強引に奪い取ると、脇に挟んだ。病室には誰の気配も感じられず、岡安も川端も起床したらしかった。今日も平熱で、快便。特に問題なく過ごせた。ただ、寝不足なのは否めない。
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