第15話

文字数 1,829文字

二月一六日
 今日は疲れたし、色々あったからメモはそう沢山は書けない。またいつか今日の出来事を整理できた時に詳しい顛末をメモに残したいと思う。今日感じたことは人は急には変われないということだった。

二月一七日
 昨日の疲れが取れない。朝の検温や朝食の時には、無理矢理に身体を起こしたものだ。それ以外、午前中は寝て過ごした。何だか心がモヤモヤしていて、誰かに吐き出したい想いを抱えながらベッドに横たわっていた。

 そうしているうちに、昼食の時間が近づいてきた。僕は
「いつまでも引きずっていても、仕方ない。そろそろ、立ち直らないと」
 と思い、ベッドを仕切るカーテンを開けた。すると、岡安が鼻唄混じりで部屋に帰ってきた。
「おぉ、よく寝てたな。目覚めたか?」
 そう声をかけられた瞬間だった。何故だろう、突如として涙腺が緊張状態を放棄して、一気に緩くなっていくのを感じた。眼から大粒の涙が溢れ落ちるまで、そう時間はかからなかった。そして、膝さえも震え出し、立つこともままならず、崩れ落ちた。自分が炎の前にある蝋人形のように、崩壊していく。
 驚いたのか、岡安は慌てて看護師を呼んでいた。そういえば、昨日外出から帰ってきた僕を見て、
「おかえり」
 と言ってくれたのは、岡安だった。しかも、いつものにやけた顔ではなく、穏やかで柔和な笑顔だった。いつの間にか、僕は岡安の存在を求めていたのかもしれない。

 しばらくすると、岡安が看護師長を連れてやってきた。看護師長は泣き崩れている僕を支えながら、個室に連れていってくれた。看護師長は背が高くて、すらっとしている。長身の彼に支えられて僕は安堵する。父親に包まれているようだ。
 個室に入ってからも、僕は落ち着かず、泣き通していた。落ち着いたのは十分くらい経った頃だろうか。いや十五分以上経っていたのかもしれない。いずれにしろ、時計を見ることはなかったから、正確なことは言えないのだが。看護師長はずっと待っていてくれた。ありがたいと思う。
僕は昨日の経緯を看護師長に話した。



 昨日、妻と子どもは十時に病棟に迎えに来てくれた。それから近所のショッピングモールに買い物に行った。久しぶりの家族団欒、僕はこの前の面会で妻が言い放った言葉を忘れ、楽しんだ。家族で買い物をした。娘は相変わらず、はしゃいでいて、おもちゃ売り場の前に来ると駄々をこねる。昼食時のフードコートの行列には疲れたが、家族で食べるのはやはり病院での食事とは違い、格別なものがある。そんな家族の光景が愛おしく、このいい思い出のまま、病院に帰りたかった。そして、帰してほしかった。

しかし、期待は打ち砕かれる。帰り際のことだった。
「さあ、帰ろう」
 妻が最初に言うと、
「パパも一緒だよね」
 と娘が寂しそうに呟いた。
「違うのよ。パパは恐ろしい病院に帰るのよ」
 そう言い放ったのは、やはり妻だった。さらに
「あなたもいい子にしてないと、パパみたいに、おかしな人が集まる病院に連れて行かれるわよ」
 妻は何も分かっていない。確かに心の病気として一括りにされることはあるかもしれない。だが、それを一概に“おかしい”と決めてかかるのは偏見だろう。その瞬間、激しい怒りが僕の心を支配した。
「おかしな人って、どういうことだよ。みんな必死になって生きてるんだ。誰一人怠けちゃいないし、真摯に生と向き合ってるよ」
 気が付けば、僕は怒鳴り声を上げていた。
「一般就労もできてないのに、何が必死よ。働かざるもの食うべからず。働いていないのに怠けてないなんて、とてもじゃないけどそうは思えないね」
 妻がそう言うと、僕は彼女の持つ偏見に閉口してしまい、それ以上の言葉を紡ぐのが無駄だと感じた。

 妻の運転する車に乗せられ、病院へ向かった。その最中も悶々とした気持ちのまま、そして何も言えないまま、病院へ到着した。荷物を持って駐車場に降り立つと、そのまま無言で車は発進していった。

 この時、全てを悟った。捨てられてしまったと。「厄介者は去れ」そういう妻の論理の下に無言のまま、僕は排斥されたのだ。駐車場から病棟へ向かってトボトボ歩いていく。土日休み時の通用口から病棟へ入っていく際も、周囲に悟られないように笑顔を作る練習をした。そして、病棟へ戻ると
「外出楽しかったけど、疲れた」
 と楽しかったことを装ってみせた。田辺君も大西さんもすぐに騙せた。そうしてすぐに、着替えもせずにベッドに横になった。疲れたことを理由として。

つづく 
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