第8話

文字数 1,823文字

二月六日
 昨日(二月五日)は雨が降った訳でもないのに、気分が優れなかった。一日食事と風呂以外はベッドの上で休んでいた。やはり、一昨日妻に偏見とも取られるようなことを言われたからだろう。とてもショックで胸が引き裂かれる思いだ。この先の人生をどうやって生きていこうか、そんなところまで考えてしまう。

 更には子どものことも気になった。僕が生きることで、妻からの偏見に満ちた言動のシャワーを浴びる。それを間近に見ることになる子どもはどのように育って行くのだろうか?自分が介入して、修正をかけることができればよいのだが、現状ではそうもいかない。とにかく不安な要因が多過ぎる。

 こんな時に誰かに話せればいいのだが、入院患者とは一線を引いて付き合っていくつもりなので、当てにはならない。そうなると、医師や看護師ということになるが、なかなか忙しい中でじっくりと話を聞いてもらうことなど不可能だろう。じゃあ、どうしたらいいのか?孤独の中で自分を奮い立たせ、ひっそりとストレスを処理していかないといけない。そう、隙を見せてはならないのだ。常に明るく前向きに、そう心がけていこう。ポジティブシンキング、自分の苦手とするところであるが、そうしていけば今悩んでいることなどちっぽけに思えるに違いない。だから、今日から変わる。僕は陰を背負わずに生きていくんだ。何でも前向きに捉えて、解決できない問題はないと考える。そういう風な考え方を取っていると体が軽い。今日の外出でも、自分でも信じられないことに吹けない口笛を吹こうとしながら歩いていたのだ。それまで、邪魔くさそうに看護師と話していたのが、口が達者になり、次から次へと話題が降ってきて止まらない。

 急にポジティブに考えていると何かおかしくなったように思われるので、この変化は誰にも話さないようにする。雄弁さで分かってしまっているかもしれないが。


二月七日
 今日も外出した。一人で外出できればいいのだけれど、外出は常に看護師と一緒にということになっているから、そのことが煩わしい。しかも、外出先はいつも同じ売店なので、多少飽きがきている。それでも、そろそろメモを書くノートがなくなってきたから、追加分を買いに行く必要があった。思ったより書くことが多くて、ノートは小ぶりな物では足りず、B5のノートが欲しい。ボールペンもいつ切れるだろうかという状態だから、新しいペンがないと不安になってしまう。

 本日の付き添いは大西さんというベテランの女性看護師だった。牛乳瓶の底みたいな厚いレンズの眼鏡をかけ、髪をポニーテールにしている。看護師の中でも人一倍明るく、入院当初はテンションとノリに付いていけないと敬遠していたが、今のポジティブシンキングができるようになった僕なら話してみたいと思えた。

「今日は少し暖かいですね?」
と僕から話しかけてみる。
「そうね、いつもに比べたら寒さがマシかな」
 そう大西さんは返してくれた。続けて
「この前、奥さんと子どもちゃんが面会に来てくれたけど、どうだった?」
 と尋ねてきた。妻のことにはあまり触れてほしくなかったし、あまりにも漠然とした質問だったので、どう返そうかと思案した挙句に、
「そうですね、妻も子どもも元気だし、気を遣ってくれるので申し訳ないくらいでした」
 と返しておいた。
「申し訳ないって思う必要ないんじゃない。奥さんとしても元気になってくれるのが一番だろうし、ありがとうって言ってあげる、いや思ってあげるだけでも報われるんじゃないかな」
 大西さんは珍しく真面目に、僕に言い聞かせるように声をかける。僕も僕で胸に沁みるような気がして、相槌も打たずに聞き入った。しばらくの沈黙の後、
「ありがとうございます。感謝の気持ちが大事なんですね」
 と返事することしかできなかった。

 気がつくと、売店が目の前にあった。毎度のごとく、朝の売店は混雑している。大西さんを待たせないように、必要な物だけ買っていくことにした。病棟への帰り道はいつもの大西さんに戻ったのか、明るく世間話や流行りものの話などをしながら歩いた。彼女と話しながら歩いているときは、この世にある憂いを全て忘れることができた。

 籠の鳥の足枷は外れかけている。自分の気持ちを解放し、大空へと飛び立つ日も近い。だから、早く退院したい。このままだと、羽根がもげてしまいそうだ。まずは一人で院内を移動できるようにならなければ。中尾先生に相談してみよう。
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