第1話

文字数 2,247文字

一月二八日
 寝ているベッドの硬さに辟易しながら、何かを書かねばと思っていた。

 鞄の中を漁っていると、たまたま一本の三色ボールペンと小さなノートが入っていた。何を書くというわけではないが、起き上がってこのメモを書いている。

 何かを残してやろうとか、そういった大きな野望は特にない。「衝動に突き動かされている」とでも言った方がいいのかもしれない。とにかく本能の赴くままに自分の生きていた証を残したいといったところだ。

 僕は今、精神科の病院に入院している。四人部屋の入って左側の奥、窓際のベッドを充てがわれた。窓際と言っても、北側に向かって窓があるので、日当たりが悪い。まるでこの先の人生を暗示するかのように、常に陰の中に入っている感覚に陥ってしまう。

 入院患者の様子を見ると、皆ゆったりと時の経つのを待っているような感じだ。何なら、この生活を楽しんでいるようにも見受けられる。何故だろうか?もう自由になることを諦めて、規則に順応しようとしているのだろうか。僕はそんな生活を送りたくない。

 この状況の元を辿れば、自分が人生の末路として自死を選択し、成就されなかったことにある。



 一月二七日、日付が変わって一時間くらい経ち、みんなが寝静まった後のことだった。僕は睡眠薬を五〇錠、口に放り込み、冷たい水で飲み込んだ。そして、そのまま妻と子どものいる寝室のベッドに入った。

 目が覚めると、寝室の時計は三時半を指している。あれから二時間しか経っていないのかと思うと、
「大したことないな」
と呟いて、再び眠りに就いた。

 次に目を覚ましたときには、時計の針が午前六時五〇分を指していた。どうやら、僕は寝室にいるようで、願いは叶わなかったらしい。再び生きる為の時間を与えられたことになる。

 誰にも睡眠薬のことはバレていないようなので、そのままシラを切り通すことにしよう。

 辛いことではあるが、出勤しなければならないと思い、起き上がる。毎日、朝食を作る当番は僕なので、キッチンへ向かった。

 その前に、リビングのテーブルの上に散らかしてある薬袋やヒートを片付けなければと思い、テーブルの上を見ると綺麗に何もなくなっていた。僕が感じた初めての違和感だった。

 不思議に思いながらもキッチンに行き、食パンをトースターに入れて焼き始めた。やがて、妻と子どもが起きてきた。

「今日は燃やせるゴミの日だよな?」
 と尋ねると、妻は怪訝そうな顔をして、
「何言ってるの?今日は火曜よ。燃やせるゴミは月曜じゃないの!」
 と吐き捨てるように言った。

「おかしいぞ。今日は月曜のはず」
 慌ててリビングに置いてあるデジタルの時計を見ると、「一月二八日火曜日」と表示されている。狐につままれたような感じを抱えたまま、朝食の準備を済ませて、妻と娘と一緒に食事を摂った。その間も、妻の視線が僕にとっては細い針のように鋭く感じられた。憎悪に満ちたその視線は僕に質問をすら許さない。子どもが幼児向けのテレビ番組を見ながら、キャラクターの動きに笑ったり、
「ママ、ヨーグルト欲しい」
 などと話したりしているのが救いに思えたくらいだ。結局、僕と妻は会話せず、どことなく肩身の狭い思いで、食事を終えた。

 身支度を終えて着替えようとした時、スエットのズボンを脱ぐと、その下には見たこともない白いパンツを履いていることに気づいた。しかも、よく見てみるとそのパンツは紙でできていた。事態を飲み込むのに時間がかかったが、今まで、履きなれない紙パンツを着用していたことが分かった。それに今まで気がつかないことに自分自身で驚いた。

 それはこのメモを書いている今でも、僕のパンツとしての役割を果たしている。僕は妻に昨日何があったかを尋ねた。すると、妻はとても面倒くさそうに昨日の顛末を話してくれた。


 睡眠薬を飲んだ日の朝、妻が目を覚ますと、いつもこの時間に起きている僕が寝ている。そのことに彼女は違和感を覚えたらしい。僕が朝食の準備をする時は、いつも早めに起きるからだ。

「ちょっと起きてよ。今日は休みじゃないでしょ?」

 そう声をかけても、起きる気配がない。さらに体をどんなに強く揺すっても、全く反応がない。只事ではないと感じた妻はリビングに行った。すると薬の袋やヒートが散乱している。

 妻は何があったのかを察して、救急車を呼んだ。子どもをどのように幼稚園に送り出したのかは、関係ないと言われ、教えてくれなかった。

 病院で手当てを受けると、再び僕を車に乗せて、家まで戻ってきたのだ。紙パンツを履いていたのは、病院で失禁したということで穿かされたものらしい。家に帰ってから、着替えもして寝たというのだが、僕の記憶には全く残っていない。

 翌日、つまり今日になって、子どもを幼稚園に送り出すと妻と二人きりで精神科の病院に向かった。そこで診察を受けて、入院の手続きをした。詳しいやりとりは妻がほとんど話し、僕はそれに「うん」とうなずくのみだった。



 こうして、僕は今ここにいる。妻に用意された着替えの下着や服などの必要最低限の入った鞄を見ながら、自分のしてしまったことを思い返す。

 だが、こうしていても、取り返しの付かないことをした感覚は持てないでいる。客観的に見て、とても奇妙なことだ。と同時にそんな自分に恐ろしさも感じている。平気な顔して何を仕出かすか分からない。だから自由を奪われたんだと思うと、メモを書きながら腑に落ちるところもある。

 今日はここまでにしたいと思う。何より、疲れた。
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