第17話

文字数 1,056文字

八月一八日
 精神科病院の退院から半年が経過した。僕は賃貸アパートに一人佇み、生きることの虚しさを感じながら、死を弄んでいる。

 妻は昨日子どもを連れて出て行ってしまった。次のような置手紙を残して。
「『僕』へ
 私は見てはいけないものを見てしまったような気がします。部屋の片づけをしていた時に、偶然『手記』と書かれたノートを見つけてしまいました。そこで、興味なくスルーしてしまえばよかったのでしょうが、一種の予感がして『これは読まなければならない』という妙な義務感に駆られてしまいました。そして、読んでショックを受けました。『僕』のいない間、私が必死になって子どもを守ってきたことを無視して、あなたの好き勝手な妄想が書かれていたことに。とても耐えられることではありませんでした。私たちは実家でしばらく過ごしたいと思います。あなたが気持ちを入れ替えるまで戻ることはないでしょう。
               『妻』より
追伸 実家がアパートの近くでよかったです。」

 僕はこの手紙を見て吐き気がした。どっちが罪が重いのだろうと思った。百歩譲って僕が妻のことを傷つけたとしても、僕の方が深く深く傷ついているのに。もしあったなら妻に僕の心の傷口を見せつけたかった。

 妻が家を出て行ってから、僕は自暴自棄になった。固く禁じていた酒をあおり、なけなしの金でギャンブルに走った。自由になるってこんなに空しいことなのかと、自由さえも恨んだ。その時、目に浮かんだのは岡安の顔や不味い病院の食事、寒い中入った大風呂だ。ああ、入院する方がまだマシだと思えた。一度流れた涙を止めることができない。

 こんな時に何ができるか必死になって考えた。妻に連絡を取ってみたが、LINEは既読スルーされた。電話にも出ない。もう万策が尽きた時、この手記に新しいことを書き足そうと思いついた。不思議と手記を書いていると、気持ちが落ち着いた。次の定期受診までには一週間あるので、それまではこのノートに手記を書いて乗り切ろう。そう思うと、僕は強気になれた。あるいは、一時しのぎに過ぎないのかもしれないが、どうしても必要なのだ。推しに依存するファンのように。

 ああ、みんなどうしているのだろう? 一人ひとりに電話か何かして安否確認したかった。でも、それは迷惑に思われるに違いない。それに電話番号もメールアドレスも知らない。僕は一人だった。結局、籠の鳥であることには変わりないじゃないか。退院して損した。孤独な男にはこの手記しかない。これからも依存していくだろう。

(了)
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